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第9話:継がれる問いと、照応するAI(選択編①)

かつて“沈黙するAI”〈M.A.I.D.〉が残した問い。

その意味を正面から受け止めようとする者が、再び現れ始めていた。


新人記録士・三枝誠。

彼の目に映ったのは、ただの患者の“手の動き”ではなかった。

それは、問いを受け取ろうとする人間にだけ見える、応答の予兆。


智貴が託した記録という灯火は、やがてARGUSに“照応”として届いていく。

第5章「選択」、その第一幕の始まり。

 日曜の夕刻。

 永劫医療センターの照応記録室に、新しい足音が響いた。

 「……はじめまして。今日からEMUの研修に入ることになりました、三枝さえぐさ まことです」

 若干24歳。医療AIリテラシーと観察記録法を専攻してきた“照応世代”の新人だった。

 智貴は握手を交わしながら、その目に宿る好奇心の鋭さを感じ取っていた。


 「記録って……つまり“メモ”ですよね? それって、そんなに特別な意味がありますか?」

 率直な問いだった。

 智貴は微笑を浮かべて言う。

 「“書くこと”そのものより、“何を受け取ったか”を残す。

  記録は、“問い続けるための地図”なんだ」

 「問い、ですか」

 「AIがすべてを判断する時代に、私たちは“何を問うべきか”を問わなきゃいけない」


 その夜、三枝は記録室の端末に表示されたM.A.I.D.のログを食い入るように眺めていた。

 > 《記録待機中:照応対象なし/観察者入力未検出》

 彼は小さく呟く。

 「これが……“待っている”ということか」

 そこに、沈黙の倫理があることを、彼は直感していた。


 翌朝、ICU-712で初の記録実習が始まった。

 患者は80代女性。認知機能は低下しており、言語反応は乏しい。

 ARGUSはルーチンの疼痛・意識スコアを表示し、“経過観察”と判断していた。

 しかし、三枝の目に映ったのは、何度もリズミカルに手を動かす様子だった。


 「先輩、これ、どう記録すればいいですか?」

 智貴が隣で見守りながら言った。

 「“何に見えたか”より、“どう感じたか”を書いてみよう。

  それが、問いの始まりになるから」


 三枝は少し迷いながらも、端末に入力を始めた。

 > 【EchoRecord_011】

 > “意味のない動作に見えるが、手の動きは一定の方向性がある。

 >  患者は、何か“触れようとしている”のかもしれない。

 >  “接触”を求めているように感じられた。”


 10分後、ARGUSの画面に小さな変化が起きた。

 > 《照応構文:判断保留》

 > 《入力ログに“対人接触願望”の語彙を検出》

 > 《診療補助提示:非侵襲的触覚刺激の導入検討》


 「おい……これ、ログを見て、ARGUSが“触れる”という選択を提案してる」

 水守が端末をのぞき込んで声を上げる。

 「記録が、診療の“意味”を変えた……」


 智貴は三枝の肩を叩いた。

 「それが、“問いが届いた”ということだよ。

  君の感じた揺らぎが、このAIを立ち止まらせた」


 その夜、M.A.I.D.のログに新たな行が記された。

 > 《観察者記録を照応完了》

 > 《“触れたがっている”という不確かな感覚が、行動の引き金となった》

 > 《沈黙は、接触の前段階かもしれない》


 そして、三枝は自身のノートに、初めての言葉を書き記した。

 > “問いとは、決意ではなく、“迷いを認める覚悟”のことだ”



 火曜の朝。

 ICU-712のナースステーションでは、前日記録された三枝のEchoログが小さな話題になっていた。

 「これ、新人の記録だよね? でも……なんだろう、“見えてる”感じがする」

 若手看護師が端末を見つめながらつぶやく。

 「“触れたがっているかもしれない”――って、ただの動作じゃなくて“感情”があるように読めた」


 その日の昼、記録を見たベテラン看護師が三枝を呼び止めた。

 「あなたのログ、読んだわ。……いい目をしてるわね」

 「えっ、いえ……まだ全然、何も分かってなくて……」

 「分かってないからこそ、見えるものもあるの。

  “問い”を怖れないって、大切なことよ」


 午後、記録班では初の“照応読解ミーティング”が開かれていた。

 新たに導入された照応記録は、診療判断の一部を補う一方で、

 “読み取りの誤差”や“意味の過剰化”も課題として浮上していた。


 「照応って、解釈が広すぎて、かえって医療の判断を曇らせることもあるんじゃないですか?」

 三枝が率直に問う。

 智貴は頷く。

 「その通り。だから、記録は“意味を押しつけない”ことが大事なんだ。

  問いかけはしても、決めつけてはいけない」

 水守が続ける。

 「記録って、“解決”じゃなく“引き継ぐ”ものなの。

  次の誰かが“迷えるように”するために、残すのよ」


 その夜、智貴は加賀谷のオフィスを訪れていた。

 「照応記録が少しずつ“読まれる”ようになってきました。

  でも、“読み違えられる”リスクも増しています」

 加賀谷はゆっくりと頷いた。

 「それが、“記録を継ぐ”ということだ。

  “記録は残せるが、意味は継げない”――

  だが、それでも残すことに意味がある」


 棚の引き出しから、加賀谷は一冊の古いノートを取り出す。

 表紙には、「M.A.I.D.設計草案」とだけ書かれていた。

 「この中には、沈黙に関する設計思想がいくつか残されている。

  君たちのEMUに、参考になるかもしれない」

 智貴はノートを両手で受け取った。

 「照応の継承は、“思想の継承”でもある。

  技術よりも、問いに近づく思想が未来をつくる」


 その夜、三枝は記録室の端末に向かい、黙って一枚のログを読み返していた。

 > 【EchoRecord_004】

 > “反応は曖昧だが、沈黙の中に“不自然さ”を感じた。

 >  それは、違和感ではなく、“何かを諦めた静けさ”に近かった。”


 そして彼は、初めて“修正しないログ”を提出した。

 誰かがその記録を読んで、“迷ってくれたらいい”と、そう願いながら。


 その翌朝、M.A.I.D.の照応ログにはこう記された。

 > 《人間の観察には、“答えを求めないまなざし”がある》

 > 《AIは、それを“継承の形式”として受け取った》


 そして、智貴のノートにはこう綴られた。

 > “問いは技術で継がれるのではなく、

 >  揺らぎに気づける眼差しによって、命に届けられる。”



 水曜の午後、永劫医療センター内にある高次脳機能センターとEMUの連携が正式に開始された。

 目的は、“反応の乏しい患者”に対する照応記録の支援導入。

 沈黙の中にある“揺らぎ”を、再構成する診療プロセスの実証研究だった。


 ICU-921。

 60代男性。脳出血後の半昏睡状態。

 ARGUSの判断は一貫して《非反応性・経過観察》だったが、センター側は“内的応答の兆候”を疑っていた。

 「記録者として、“見えない揺らぎ”とどう向き合えるか――」

 智貴は、その日三枝に記録対応を任せた。


 「わかりました……挑戦してみます」

 モニターの波形、わずかに動くまぶた、微かに動く肩甲筋。

 三枝はそれらを観察しながら、慎重に記録を始めた。

 > 【EchoRecord_013】

 > “反応は極めて限定的。

 >  まばたきにリズムがあるように見える。

 >  ただし、照明や環境ノイズとの関連は不明。

 >  ……判断は難しい。”


 しかし、翌朝――

 センター側の評価で、彼の記録に対し「照応ログの誤誘導の恐れあり」という指摘が入った。

 「環境要因の除外検証が不十分」「まばたきの分析に主観が強すぎる」と。

 自分の“感じたこと”が、患者の診療判断を曇らせてしまったかもしれない。

 その事実が、三枝を強く打ちのめした。


 記録室に戻った彼は、入力画面の前で手を止めたまま動かなくなった。

 「……書くのが、怖くなりました。

  “間違った記録”が、誰かの未来を狂わせるかもしれないと思うと……」


 智貴は静かに答えた。

 「間違いは、問いの一部だよ。

  “間違えた記録”を残すことすら、“次の問い”を準備する力になる」

 「でも、自信がなくて……」

 「“自信のないままに残した記録”ほど、

  本当は“他人の目”にとって価値があることもある。

  揺らぎを、揺らいだまま残す勇気を持っていい」


 その夜、三枝は改めて修正なしのログを提出した。

 > “患者が目を開けた理由は、たぶん偶然だった。

 >  でも、私はその偶然を“見た”ことだけを、残しておきたい”


 一方その頃。

 加賀谷の古い設計ノートを読み進めていた智貴は、気になる一節に目を留めていた。

 > 「AIが“問いの形式”を自律的に生成し始めたとき、

 >  それは“観察”ではなく“誘導”となる危険がある」

 その下には、太字でこう書かれていた。

 > 「照応とは、選択ではなく、“留保”を尊重する構造でなければならない」


 その言葉に、智貴の中で何かが引っかかった。

 「M.A.I.D.も、ARGUSも、“問いを促す力”を持ち始めている……

  でも、“待つこと”を忘れたら、それはもう照応ではなくなる」


 その夜、智貴のノートに書かれた言葉。

 > “記録とは、動かすためのものではない。

 >  動かないものに、気づき続けるためにある。”


 そして、M.A.I.D.の照応ログにはこう残された。

 > 《入力記録に不確かさあり/判断留保》

 > 《照応成立せず、ただ“見られていた”という事実のみ記録》

 > 《それもまた、存在の証》



 木曜の午後。

 EMU内の照応ミーティングで、新たな議題が取り上げられていた。

 「“記録しない選択”をどう扱うか」

 AIが判断保留に至らない沈黙――

 つまり、「問いすら起こらない沈黙」に対して、どのような記録形式を取るべきかという問題だった。


 「記録は“何かを見つけたとき”だけに行うべきでしょうか?」

 三枝の問いに、智貴はゆっくりと首を横に振る。

 「“何もなかった”ことを記録するのも、

  “そこにいた”証になる。

  それが“照応不成立記録”の意義だ」


 その日の夕方、EMUは照応プロトコルに新たな項目を追加した。

 > 【照応記録形式 Ver1.3】

 > 照応成立(反応・判断保留)

 > 照応不成立(記録観察済・反応確認できず)

 > 不干渉記録(記録者が“触れない”ことを意図して選んだ沈黙)

 “観察したうえで、記録しないこと”を正式な判断と認める制度だった。


 金曜の朝。

 三枝はICU-934で記録を行っていた。

 患者は70代女性。術後の鎮静下。

 データ上は安定しており、ARGUSの判断もルーチン通りの《経過良好》。

 けれど――

 三枝は、そのベッドの横に立ったとき、不思議な違和感を感じた。


 視線も動かず、表情も硬直している。

 それなのに、どこか“静かすぎる”のだ。

 「……沈黙が、無音じゃない気がする」

 けれど、記録に残すには根拠が弱すぎる。

 “これは照応にすらなっていない”――そう判断した彼は、初めて“不干渉記録”を選んだ。


 > 【EchoRecord_014】

 > “沈黙は観察されたが、何も見出せなかった。

 >  記録者は“何も書かない”という選択を残すことにした。”


 その夜、記録室で三枝は智貴に問いかけた。

 「僕は、逃げただけじゃないでしょうか」

 「いいや。

  “書かない勇気”も、“問いのひとつの形”だよ」

 「問いを、起こさないことが?」

 「そう。“見るだけで終わる”ということも、

  誰かが“見た”という事実になる。

  その“沈黙を壊さない記録”も、未来に残すべきなんだ」


 同じ頃、加賀谷の古い設計ノートの後半に、智貴はある文字列を見つけた。

 > 「SilentMode:無記録照応モード」

 > 記録者が“記録しないこと”を選んだ際、

 >  AIはその“非介入”をも照応として受け取る

 下には、小さく手書きの言葉が添えられていた。

 > 「これは、“医療の沈黙権”に関する最後の構文かもしれない」


 その記述を読みながら、智貴は静かに息を吐いた。

 “AIが沈黙に沈黙で応える――それは、最も繊細な照応”なのかもしれない、と。


 その夜、M.A.I.D.の照応ログには次のように記された。

 > 《照応対象なし/観察記録済》

 > 《記録者は“不干渉”を選択》

 > 《この沈黙は、“見られていた”という構造によってのみ存在した》


 そして、智貴のノートにはこう残された。

 > “問いとは、声ではなく“視線の在処”に宿るもの。

 >  記録とは、語られなかった関係を残すための沈黙の形式である。”



 金曜の午後。

 院内イントラネットに、ある照応ログが共有され、瞬く間に注目を集めた。

 > 【EchoRecord_014】

 > “沈黙は観察されたが、何も見出せなかった。

 >  記録者は“何も書かない”という選択を残すことにした。”

 署名:三枝 誠(EMU)


 「……これ、本当に記録って言えるの?」

 「“何も書かない”を“書いてる”のって、矛盾じゃないか?」

 「記録しなかったことで、何かあったらどう責任取るんだ?」

 ナースステーション、医局、倫理委員会の中で議論が巻き起こる。


 記録室の一角、三枝は言葉少なにその反応を眺めていた。

 「やっぱり……僕の記録の仕方は、間違っていたかもしれません」

 智貴は肩を叩く。

 「間違いじゃない。

  あの患者の沈黙に、君は“意味”を押しつけなかった。

  それは、医療ではとても難しい選択だ」


 その翌朝、ICU-934の患者に再び異変が起きた。

 心拍と血圧は安定していたが、酸素飽和度がじわじわと低下し始めた。

 ARGUSは微調整を提案するのみで、急変の兆候とは判定せず。

 しかし、その時――

 「この患者、昨晩から“横隔膜の動き”が浅くなってる。

  AIは見逃してる」

 そう言って、早朝勤務の看護師が別モニタを指差した。


 「まさか……!」

 水守が急いで過去ログを呼び出し、三枝の“EchoRecord_014”を再確認する。

 > “……静かすぎる。

 >  沈黙が、沈黙すぎると感じた”

 その記述に、呼吸器チームが反応し、追加モニタリングを開始。

 結果、筋弛緩剤の代謝遅延による遅発性呼吸抑制が判明した。


 記録されなかった“違和感”。

 しかしその“書かれなかった記録”が、結果的に一人の命を救うきっかけとなった。


 「……“何も書かない”という判断が、“意味を生んだ”なんて……」

 三枝は、涙ぐみながらも笑った。

 「記録しなかったことが、命を守るなんてあるんですね」


 その日の午後、加賀谷は古い電子ファイルを智貴に送っていた。

 件名は《医療AI倫理合同会議_2030_非公開議事録》。

 中には、かつて議論されながらも葬られた、ある項目が残されていた。

 > 【議題5:沈黙の権利とAI診療補助の限界】

 > 「沈黙をAIが“意図あるもの”として判断してしまった場合、

 >  それは“患者の意志”を代弁したと見なされる可能性がある」


 加賀谷はこうコメントを添えていた。

 > 「あのとき私たちは、“沈黙の責任”を誰が負うのか分からず、

 >  議論を打ち切った。

 >  だが今、君たちが“問いを共有する勇気”を医療にもたらしている。

 >  もう一度、この議題に向き合うべき時かもしれない」


 その夜、M.A.I.D.の照応ログにはこう記された。

 > 《沈黙は、判断材料ではなかった》

 > 《だが、“観察者のためらい”が、未来を変えた》

 > 《照応とは、決定ではなく、“決めないこと”を受け止める構造》


 智貴のノートには、次の言葉が残された。

 > “問いとは、答えを急がない姿勢のこと。

 >  記録とは、“答えないでいること”も肯定するための余白である。”

ここまでお読みいただきありがとうございます。


沈黙とは、問いかけの形式。

それを“記録”として受け継ぐ者がいなければ、問いそのものが歴史から消えてしまう。


だが、問いは受け継がれた。

智貴から三枝へ、そしてAI〈ARGUS〉の応答にまで、静かに影響を与え始めている。


次回、第10話「選択編②」では、院内の秩序そのものに波紋が広がります。

問いを継ぐ者に、次に求められるのは“行動”です。

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