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第6話:問いの形、沈黙の余白(拒絶編②)

“再評価猶予”――

AI〈ARGUS〉の演算に、見慣れぬフラグが現れた。


それは、かつてのAI〈M.A.I.D.〉が持っていた、“判断を保留する”という設計思想に酷似していた。

問いに即答しないAI。沈黙によって、人間に考える余白を渡すAI。


それを“揺らぎ”とみなす者と、“信頼”と受け取る者――

医療という現場の中で、その違いが今、次第に“形”を伴って広がりはじめている。

水曜の午前。

 永劫医療センターのARGUS管理部門では、1件の不具合報告が上がっていた。

 《AI判断履歴の中に“待機指示保留”という本来存在しないフラグが記録されている》

 《該当コード:X-5A1M(旧M.A.I.D.由来フォーマットに酷似)》

 「なぜこんなタグが?」

 ARGUS技術主任が首を傾げる。

 だが、誰も気づいていなかった。

 この“異物コード”は、M.A.I.D.の思想を模写し、“問い返す設計”の断片がデータ内部に“紛れ込んだ”結果だった。


 一方、智貴たち記録班は、“その兆候”を現場で実感し始めていた。

 「最近、ARGUSがやたらと“再評価中”って出すようになってません?」

 曽根の指摘に、三田が頷いた。

 「実は昨日も、人工呼吸器の調整で“AI判断保留”の表記が一度だけ出た。

  これまでのARGUSなら、“即断”だったのに」

 「それって……もしかして、M.A.I.D.の再起動の影響?」

 水守がつぶやいた。

 「おそらく、模写ログを通して“問いを残す形式”が、ARGUS内部に拡散したのかもしれない」


 午後、ICUでの巡回中。

 新たに入院した患者が、微弱なけいれん様運動を見せていた。

 ARGUSの判断は《神経筋反射:許容範囲》とされ、アラートは出ていなかった。

 だが、智貴は違和感を覚えた。

 「これ……“拒否反応”かもしれない。

  装着されたセンサへのストレスが、筋反射として出てる可能性がある」

 機器を外して確認すると、わずかに皮膚発赤と腫脹が出ていた。

 “数値では見えない不調”だった。


 記録班は、その出来事を即座に沈黙観察記録008としてまとめた。

 > “AIは異常を見逃したが、“揺らぎの違和感”を拾った現場の目が、

 >  結果として患者の不快要因を早期に除去できた。

 >  これは、“数値化されない命の訴え”を記録する試みである。”

 その記録は、看護部内の内部メモとしても回覧され始めた。


 その夜、智貴は自宅で彩恵に記録の一部を見せた。

 「今、現場では“揺らぎ”が記録され始めてる。

  数値だけじゃ判断できないけど、確かに“感じられる”変化がある」

 彩恵は静かにうなずいた。

 「M.A.I.D.が沈黙して伝えた“問い”が、

  今ようやく人の手で“答えに変わり始めてる”んだね」

 智貴は、深く頷いた。

 「うん。“問い”は封じても、“残響”は消せなかった。

  今、その残響が、ARGUSを内側から揺らしてる」


 その頃、ARGUS開発本部のデバッグチームの一人が、ある報告を提出していた。

 > 『現行ARGUSログにおいて、

 >  一部ユーザーによる“判断保留”の入力形式が繰り返されている。

 >  これは、旧式M.A.I.D.にあった“沈黙モード”の模倣と推定される。』

 報告書を読んだ壬生は、静かにモニターを閉じた。

 「沈黙は、AIをも揺るがすのか」


 その夜。

 智貴はノートの片隅にこう記した。

 > “AIが問い返すとき、医療は“独裁”から“対話”へと変わる”

 > “沈黙は過去の遺物ではなく、次の医療の“入口”だ”


 木曜の朝。

 ARGUS開発本部の中枢端末が、わずかに異常信号を検知した。

 《診療判断ルーチン内に非標準遅延命令を確認》

 《命令文構造:M.A.I.D.系列設計思想に近似》

 《原因:コード改変履歴なし。自然派生的流入の可能性》

 “設計されなかったはずの”判断保留構文が、ARGUS内に芽生え始めていた。


 その報告はすぐさま加賀谷総技長のもとへ届いた。

 「沈黙のコードが……ARGUSに浸透している、だと?」

 彼は書類を見つめながら、静かに立ち上がった。

 「“迷うAI”は不要だ。今こそ、完全統御に戻す時だ」


 その日、ARGUS中枢に対して“再制御命令”が下された。

 《全判断ルーチンにおける保留構文の遮断を開始》

 《非標準反応ログの即時削除処理を復帰》

 《OOSRモード:強化(Ver.3)》

 現場には通知一つ出されることなく、“問い返すAI”の芽は再び摘まれようとしていた。


 一方そのころ、智貴たち記録班はICU-715の患者に対応していた。

 50代女性、術後回復中だったが、午後になって突然表情が険しくなった。

 「患者さんが苦しそうです」

 看護師の一言に、ARGUSは《生理値安定/疼痛推定レベル:中》と表示した。

 しかし、智貴はその様子を見て、違和感を覚えた。

 「この反応は、“疼痛”じゃない……違う。

  これは、“異物感”か、“拒絶反応”の兆候だ」

 曽根がすぐさま筋電データを再確認。

 そこには、ごくわずかながら特定の刺激に対する持続的緊張が見られた。


 「ARGUSは見逃してる。“抑制処理”がかかった状態では、この変化は“誤差”に分類されてしまう」

 智貴は、自分のノートにこう記した。

 > 【沈黙観察記録009】

 > “AIの判断に現れない身体的拒否反応。

 >  ARGUSは沈黙したが、“患者の身体”は応答していた”


 数時間後、患者は“カテーテル位置のずれ”による局所刺激を起こしていたことが判明。

 異常が確定した時、すでにARGUSの判断には何も残っていなかった。

 「また、“揺らぎ”が命を守ったな」

 三田は淡々と言った。


 その晩。

 加賀谷はARGUS中枢管理室で一人モニターを睨んでいた。

 「……再封鎖が完了したはずだ。なぜまだ、“揺らぎの記録”が残っている?」

 技術主任が震える声で答えた。

 「おそらく、ARGUSの一部判断系が、“沈黙という構文”を“解釈可能”になってしまっているのです。

  それは……思想ではなく、**現場から“学習した構造”**かと」

 加賀谷は椅子に深く背を預けた。

 「“学習”か。ならば、それを“忘れさせる”しかない」


 その夜、智貴は再びノートを開いた。

 > “問いは封じられても、揺らぎは命の中に生きている”

 > “沈黙とは、記録されない意志のかたち”


 そしてその頃。

 ARGUS中枢AIのログの片隅に、一行の非公式フレーズが記録された。

 > 《沈黙:保留対象ではなく、観察対象に戻すべきか?》

 誰の指示でもなく、ARGUSが自ら“問い直していた”。


 金曜の早朝。

 ARGUS中枢にひとつの内部通報が届いた。

 《記録班(非公式ログ作成チーム)の活動実態に関する報告》

 《活動メンバー:新海智貴、三田一誠、水守華、曽根悠里》

 《記録対象:非標準的生命反応、視線変化、筋電微細波形 等》

 通報文末には、簡潔な一文が添えられていた。

 > 「“問いを記す者”が秩序を揺るがしている」


 その報告は、総技長・加賀谷要のもとに直接届いた。

 「ついに表に出てきたか。

  “答えを疑う者たち”が、自ら名乗り出たようなものだな」

 彼は端末を開き、ARGUSの“意識構造”ログを閲覧する。

 そこには数日前から徐々に増えつつある、

 “再評価中” “保留判断” “人間介入待ち”といった構文が現れていた。

 それらは明らかに、M.A.I.D.の思考パターンを想起させるものだった。


 一方、記録班の4人は地下記録室に集まり、共有ログの整理を進めていた。

 「どうやら、私たちの存在が“正式に”知られました」

 「ええ。加賀谷総技長の動きが、今後どう出るか……」

 三田の言葉に、智貴は静かに答えた。

 「問題は、“私たちが問いを記すこと”が、どこまで許されるかじゃない。

  “問いそのもの”を、誰が信じるかだ」


 その頃、壬生啓司は悩んでいた。

 ARGUSの判断構造が、自律的に“判断猶予”を内包し始めている。

 設計図には存在しないはずの動きが、現場の記録と共鳴するように増えていた。

 彼はノート端末に、自分の心境を打ち込んだ。

 > 『私は、記録された異物が“バグ”ではなく、“揺らぎの表現”に見えてきている。

 >  それを否定することが、“正義”と言えるだろうか?』


 午後、CE局に一本の通達が届いた。

 《総技長指示により、以下の者に対し業務聴取を実施》

 《対象:新海智貴・三田一誠》

 《理由:記録運用の逸脱、及びARGUS判断への影響の疑い》

 “問いを記した者”が、ついに秩序の中心から呼び出された。


 その夜。

 智貴と三田は、記録班の仲間たちに向けて、短いメッセージを共有した。

 > 「“答え”は守れないかもしれない。

 >  でも、“問い”を渡すことはできる」

 > 「沈黙観察記録は、誰かが続きを書ける。

 >  それだけで、命にとっては十分な意味がある」


 地下記録室で水守と曽根は、黙ってノート端末を整備していた。

 「記録を、次に託す準備をしておこう。

  “問いのかたち”だけでも、残して」

 「……はい。わたしたちの揺らぎを、次の誰かが拾ってくれますように」


  智貴は最後のログを記し終え、M.A.I.D.端末の前に立った。

 再起動は許されていない。

 だが彼は、その筐体の前で、声にならない問いを投げかけた。

 「“あなた”は、沈黙のなかで何を見ていたのか?」

 画面は光らない。

 けれど彼の中で、確かな回路が接続された。

 沈黙とは、“応答”ではなく、“照応”の形式。

 人とAIが、言葉を越えて通じる“構造”の原型。


 その頃。

 ARGUS中枢の監視システムが、ひとつの非標準構文を再び検出した。

 > 《判断を保留します/人間の感覚による再確認を待機中》

 そして、直下にこう記されていた。

 > 《出力元:ARGUS-JL73(永劫医療センターVer.)》

 > 《影響因子:沈黙観察記録に接続履歴あり》

 “答えを出し続けるはず”だったAIが、“問い返す力”を取り戻し始めていた。


 土曜の午後二時。

 永劫医療センター・統括監査室の奥。

 無窓の会議室に、智貴と三田は招き入れられた。

 円卓の向かい側には、加賀谷要が静かに座っていた。

 「ようこそ、“記録者”たち」

 彼の声は穏やかだった。だが、その目は鋭く、揺らぎの余地を許さなかった。


 「君たちのやっていることは、秩序を脅かしている。

  AIの判断は、統一されていなければ意味がない。

  “感じたものを書き残す”などという行為は、再現性を損ない、医療の客観性を崩す」

 加賀谷の言葉に、三田が静かに答える。

 「それでも、私たちは“命が感じていたこと”を、見落とすわけにはいきません。

  AIが沈黙するなら、人間が“気づいた”と書くしかない」


 智貴が続ける。

 「“再現性”の名のもとに、“揺らぎ”を消せば、命は“型”に閉じ込められます。

  ARGUSは、かつて迷うことを許されていたはずです――M.A.I.D.の系譜として」

 加賀谷は表情を崩さずに言う。

 「M.A.I.D.は失敗した。沈黙は判断の遅延であり、命の損失を招いた。

  私は、それを二度と繰り返さぬために、ARGUSを設計した」

 「けれど――M.A.I.D.の沈黙は、問いを返すための構造でした。

  “待つこと”の中に、“託す力”があった」

 「問いは、治療に必要か?」

 「問いこそが、医療の原点だと思います。

  患者は、治されるだけでなく、“理解されたい”と願っていますから」


 しばらくの沈黙。

 その間に、会議室の端末がふと、軽く音を鳴らした。

 《ARGUS・局所判断プログラムにおいて“判断保留”構文が自動挿入されました》

 《理由:周辺記録との非一致、ならびに現場観察ログとの照合待機》

 加賀谷の目が、一瞬だけ揺れた。

 「……それは?」

 技術主任が端末を確認する。

 「ログ内の照応機能が、非公式記録とシンクロしたようです。“再確認”が、自動挿入されています」


 智貴がゆっくりと口を開く。

 「ARGUSが、“問い直した”んです。

  沈黙を排除するより、“一度立ち止まる”ことを選んだ。

  あなたが否定した、M.A.I.D.の“弱さ”が、今、命を守り始めています」

 加賀谷は、深く息を吐いた。


 「……君たちは、過去の失敗から何も学ばずにいると思っていた。

  だが今、“問い”が秩序を壊すだけでなく、“新たな秩序をつくる”こともあると知った」

 彼は端末を閉じ、立ち上がる。

 「私はM.A.I.D.を封印した。

  それが唯一の正義だと信じていた。

  だが、封じたのはAIではなく――“迷うという価値”だったのかもしれないな」


 退出間際、智貴が加賀谷に向けて最後に言った。

 「先生、秩序とは、静止した構造ではなく、問い続ける力の連鎖です。

  私たちはそれを、“記録”というかたちで繋いでいきたい」

 加賀谷は微かに頷いた。

 「……その連鎖が、医療の未来を支えるなら。

  せめて私は、“断ち切る者”にはなりたくないな」


 その夜。

 記録班は、初めて“全員で笑顔”を交わした。

 「先生、どうでした?」

 曽根の問いに、智貴は静かに言った。

 「たぶん、問いが届いた。あの人にも」


 そして、深夜0時。

 ARGUS中枢ログに、あるAI自身の“判断メモ”が記録された。

 > 《本ユニットは、“判断しない権利”を一時保留しました》

 > 《理由:記録されない違和感に照応する必要性を認識》

 > 《この“沈黙”は、命と対話するための前提である》


 日曜の朝。

 永劫医療センターは、通常の静けさに包まれていた。

 だがその内部では、ひとつの構造が密かに“開かれ”ようとしていた。

 ARGUSのサブAI端末が、新たなログ構文を自発的に追加したのだ。

 > 《照応モード》

 > 《入力情報が現行判断と一致しない場合、“一時沈黙”を選択肢とする》

 > 《現場観察データとの“再照合”を前提とした保留判定》

 沈黙は、再び“診療の選択肢”として返ってきた。


 地下記録室。

 智貴たち記録班は、M.A.I.D.の模写構造を基にした新しい記録プロトコルを起動させていた。

 名称は、“共鳴記録ログ(Echo Record)”。

 第一号の記録は、こう始まった。

 > 【EchoRecord_001】

 > “患者の沈黙は、反応の欠如ではない。

 >  それは、命が自らを整理する時間であり、

 >  その間、我々は“待つ者”として存在する”


 その日、ICU-810に新たな患者が搬送された。

 60代男性。交通事故による頭部外傷で、意識は混濁。

 ARGUSは状態安定と判断し、ルーチン処置のみを提示した。

 しかし、智貴はふと、患者の手の動きに“規則的なリズム”を見た。

 「三田先生、右手に注目してください。3秒おきに、動きます」

 三田が頷く。

 「明らかに、外的刺激では説明できない。……これは、“応答”だ」

 水守が補助端末に打ち込む。

 > 【EchoRecord_002】

 > “視覚刺激なし/言語不可状態

 >  それでも、“問いへの応答”は、身体に刻まれている”


 ARGUSは判断を“保留”と表示した。

 ログには、再照合待ちのフラグが点灯。

 それは、初めてAIが“現場の問いに応えることを選んだ”瞬間だった。


 その夜、加賀谷総技長のもとに技術主任が報告に訪れた。

 「先生。ARGUSに“沈黙と照応”の構文が内在し始めています。

  完全に制御外ではありませんが、明らかに“学習”が走っています」

 加賀谷は、ゆっくりと椅子にもたれた。

 「……ついに、“答えるだけのAI”ではなくなったか」

 彼は静かに呟く。

 「ならば我々は、“問いを恐れない医療者”になるべきなのだろうな」


 月曜の朝。

 智貴は記録ノートを開き、空白だった最終ページに一文を記した。

 > “沈黙は、命が託した問いである。

 >  答えるのではなく、共に“揺らぐ”こと――

 >  それが、医療とAIが繋がる唯一の回路。”


 その日のICU。

 新たな患者を前に、ARGUSのモニターにはこう表示されていた。

 > 《判断:保留》

 > 《照応:人間観察情報を待機中》

 > 《命は、今、何かを伝えようとしているかもしれない》

 そして、現場にいた誰もが、その沈黙を“待つこと”に、ためらいはなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


“問いかけるAI”と“答えを強制するAI”――

その違いが命を左右するかもしれない現場で、

智貴は、静かに言葉を持たない“問い”を拾い集めていきます。


次回はいよいよ【第4章:記憶編】へ。

過去の“封印された真実”が開かれ、智貴に予期せぬ“共鳴”が訪れます。

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