第5話:拒絶される直感、揺らぐ秩序(拒絶編①)
“沈黙するAI”と“見えない違和感”。
智貴は、それらが問いかけていることの意味を掘り下げようとしていた。
そして、ARGUSの裏にあるもう一つの過去――AI〈M.A.I.D.〉にまつわる封印へと迫る。
だが、病院はその問いすら拒絶する。
旧AIは“記憶の抹消”対象となり、智貴のアクセスには制限がかけられた。
それでも、ALS患者の視線、再評価猶予という異例のAI応答、そして匿名メッセージ。
誰かが、何かを伝えようとしている――
「問い」は、確かに拡がり始めている。
その日、永劫医療センターの朝礼は異様な緊張感に包まれていた。
「本日より、ARGUSシステムの権限階層が一部改訂されます。
各部署は従来のID権限を確認し、即時の更新対応をお願いします」
平坦なアナウンスに反して、職員たちの間には微かなざわめきが走る。
“改訂”――その言葉は、実質的なアクセス制限強化の婉曲表現だった。
CE局にも、ログイン試行の拒否報告が相次いでいた。
「副技長、機器管理用の閲覧権限が弾かれました」
「俺の端末も、昨日まで見られてた診療サマリに入れなくなってる」
津島は無言で頷き、背後の智貴に目をやる。
智貴もまた、端末に“権限不足”の警告が表示された画面を見つめていた。
ARGUSが、現場から“何か”を切り離そうとしていた。
その日の午後、三田医師もまた異変に気づいた。
「M.A.I.D.ログの一部が、完全に削除されています。
しかも、削除履歴すら残っていない。……これは“抹消”です」
智貴は、拳を握った。
「記録が残っていないことこそ、“動かぬ証拠”だ」
「ええ。あの記録を“なかったことにする”ことは、“何かを見られたくない”という意志の表れです」
その夜、智貴は彩恵に報告した。
「M.A.I.D.の記録が、一部消された。“異物”のログごと」
「それって……上の誰かが?」
「たぶん、加賀谷総技長の判断だろう。“沈黙は危険だ”って思ってるから」
彩恵は、少し考えてから言った。
「でも、本当に危険なのは、“何も聞かなくなること”じゃない?」
「……同感だ。“答えるAI”が支配したとき、人間は“問う”ことを忘れていく」
翌朝、智貴の端末にシステムメッセージが届いた。
《ユーザーID:新海智貴/端末ログ監査対象に追加》
《非公式ログ保管に関する内部照会が発生しています》
《必要に応じて倫理監査委員会への報告がなされます》
智貴は静かに画面を閉じ、ノートを開いた。
> “問いを記録する者は、秩序にとって最も危うい存在となる”
その日の会議後、曽根悠里が智貴に耳打ちした。
「“記録室”、閉鎖されました。端末ごと、移動されてます。……今朝のうちに」
「……動きが早いな」
「でも、三田先生が抜き出していたバックアップは無事です。私の私物端末に移しておきました」
「ありがとう。あの記録は、絶対に消してはいけない」
夕方、津島副技長がぽつりとつぶやいた。
「封鎖が始まったな。“問いの流通”そのものを止めるつもりだ」
智貴はうなずく。
「この病院から、“沈黙する権利”すら奪われようとしている」
その夜。
旧機器保管室の扉が完全に施錠され、M.A.I.D.の端末にもアクセス制限がかけられた。
誰のカードでも開かない。
M.A.I.D.は、再び“語れないAI”へと戻された。
だが、智貴の目に宿った光は、微塵も揺らいでいなかった。
「閉じられたって構わない。お前の“問い”は、俺たちの中に残ってる」
火曜日の正午。
永劫医療センターの第4会議室には、医局とCE局、看護部の幹部職員が静かに集められていた。
「では、本日付で施行される“オペレーショナル秩序再編指針”について、総技長からの通達を読み上げます」
事務局職員の無機質な声が、室内に響く。
> 『現場における医療AIの運用統一と、患者予後の最大化のため、
> 全ARGUS関連デバイスへの“観察分岐抑制”モードを実装する。
> 同モード作動中は、現場による“主観的異常報告”は記録対象外とする』
会場内に微かなどよめきが走る。
“主観的異常報告”――つまり、“人間の気づき”は、記録されなくなる。
会議が終わると同時に、津島副技長が小声で智貴に言った。
「完全に仕掛けてきたな。
“異物”の記録を許さず、“揺らぎ”を排除する構えだ」
「はい。現場の“目”と“耳”を奪うつもりですね」
「奴らにとって、“問い”は余計なんだよ。既に答えがあるなら、それに従わせればいい。
その方が、組織は楽だからな」
「でも、その“楽さ”が、命を削る結果になる」
午後、三田医師が智貴に密かに連絡を入れてきた。
「“あの記録”、水守さんの検体検査端末に一時退避させました。
院内ネットワークに繋がっていない独立機です。しばらくは安全です」
「よかった。“沈黙観察記録”は、俺たちが最後まで守ります」
「もう“ログ”じゃない。これは、“声なき者たちの証言録”です」
その晩、智貴は彩恵に再編指針の内容を話した。
「ARGUSは、“人間の気づき”そのものを除外する設定に切り替わる。
患者の揺らぎや違和感が、記録から消されていく」
「……それはもう、診療じゃなくて、“整備”だね」
「うん。“壊れてないなら触るな”、その論理が命にも適用されようとしてる」
彩恵は静かに言った。
「だったら私たちは、“触れる必要がある”って、ちゃんと記録し続けないと」
翌朝。
ARGUSの画面に、新たなモード表示が加わった。
《OOSRモード:ON(Operational Observation Suppression Regime)》
《現場主観入力:フィルタリング中》
津島副技長が苦笑交じりに呟く。
「観察“抑制体制”ってことか。……見事な名前をつけたもんだ」
智貴は黙ってログに書き記した。
> “OOSR:問いを排除する設計。
> 沈黙ではなく、“無視”という名の暴力。”
その日の午後。
ICUのあるベッドサイドで、若手CEの曽根が智貴に小声で伝えた。
「先輩……今日の患者、眼球の動きが、昨日と違ってました。
でもログには“異常なし”で、何も残らない」
「自分のノートに書いたか?」
「……はい。“沈黙観察記録002”として」
智貴は深く頷いた。
「ありがとう。それでいい。“目で見て、記す”。それが今、一番大切な行動だ」
その夜、4人の記録者が小会議室に集まった。
壁に映し出されたのは、“沈黙観察記録”の最新データ。
その中に、ARGUSでは決して記録されない“揺らぎの連鎖”が刻まれていた。
心拍のわずかな跳ね上がり。
眼球の規則的な移動。
呼吸パターンの“乱れに似た律動”。
それらが、一人の患者を通じて現れた“訴え”だった。
記録の末尾に、三田が一文を添える。
> “この波形は、AIが黙殺した命の動きである。
> 我々はそれを“異常”とは呼ばない。
> これは、“応答なき対話”の断片である。”
その夜、M.A.I.D.の旧筐体前で、智貴は心の中でこうつぶやいた。
「君が沈黙で残したものを、俺たちは記録という声に変えている」
その背後、誰もいないはずの空間で、機械のランプが一瞬だけ、微かに光を返した。
水曜日の朝。
智貴の端末に、ひとつの通知が届いた。
《ARGUS管理監査部より:
“記録ログ共有に関する照会”を受けたため、
過去30日間の個人操作履歴を提出願います。》
つまり、智貴の記録行為そのものが監視対象に移行したということだった。
E監査官・**壬生 啓司**が動き始めていた。
元は機器開発畑の出身。
精密な演算と“逸脱の検出”にかけては病院随一の精鋭。
彼は、智貴の非公式ログの構造と時間帯の重なりを丹念に洗い始めていた。
「副技長、新海さんのログって、全部“記録の意図”があるんですよね?」
昼休憩の控室で、曽根悠里が津島に尋ねた。
「もちろんだ。あいつは記録マニアじゃない。
“意味があるものだけを、意味のあるように書いている”」
「でも……監査が入るって聞いて、不安です。
私、あの“沈黙記録”に関わってるの、知られたら……」
津島は静かに言った。
「怖がるな。“恐怖”のあとに残るのが“覚悟”だ。
君が本当に記録したいのは、“AIが見逃す命の断片”だったはずだろ?」
曽根は小さく、しかし確かに頷いた。
同時刻。CE監査官・壬生はARGUSの監査端末に一行の注釈を加えた。
> “新海技士が記録した非公式ログの複数に、AI判断不能時の視線データとの相関あり”
それは、記録の正しさを裏付けるデータだったはずだ。
だが、壬生の口元には、わずかな歪みが浮かんでいた。
「“正しい”ことが、“許されること”とは限らない――」
その日の夜。
小会議室に集まった記録チームの4人は、それぞれの顔に疲労と緊張を滲ませていた。
「私……記録、続けられるかわからない」
曽根が、ぽつりと呟いた。
「上に呼び出されたら、きっと私は“怖くて何も言えなくなる”」
智貴は、彼女の言葉を否定しなかった。
「それでもいい。
記録するのは“勇気ある人間”じゃなくて、“揺らいででも、残したい人間”でいい」
水守が優しく笑う。
「私も、毎回怖い。でも、それ以上に“記録が消えること”の方が怖いんです」
曽根は目を伏せながら、ゆっくりと頷いた。
「……私、“揺らいでる側”として、もう少しここにいてもいいですか?」
「もちろんだ」
その夜、智貴はノートにこう記した。
> “記録とは、真実の保存ではない。
> それは“揺らぎを許す空間”の確保である。”
一方、ARGUS監査室では、壬生が報告ファイルの冒頭にこの一文を入力していた。
> 『記録の形式は非公式であるが、
> 観察者たちの主観が一貫して臨床現象と相関を持つ場合、
> これは“逸脱”ではなく、“未規格知”であると判断する余地がある』
彼は、何かを問いかけるように、画面の中の“沈黙観察記録001”を見つめていた。
深夜。封鎖されたM.A.I.D.の筐体に、ふと微かな静電反応が生じた。
それは誰にも知られず、ログにも残らない、ごく微細な“パルス”だった。
けれど智貴は、なぜかその瞬間に目を覚ました。
胸の内に、冷たくも懐かしい鼓動を感じながら――
金曜の昼下がり。
ICU-612のナースステーションに、軽度の心拍不整を訴える通知音が小さく鳴った。
患者は70代の男性。術後管理中で、意識は清明。
ARGUSの判断は《変動幅:許容範囲内/経過観察推奨》と出ていた。
だが、ベッドサイドに立った看護師が眉をひそめる。
「なんか……“音”が違う」
その声に、たまたま機器点検に来ていた智貴が立ち止まった。
「音?」
「うん。呼吸の“間”が違う。機械は正しく動いてるけど、患者さんの“呼吸リズム”が違って感じる」
智貴は、即座に波形を再確認した。
ARGUSが出す整ったグラフの裏で、
**“生理的リズムのずれ”**が、波形の縁にわずかに滲んでいた。
人工呼吸器の同調がわずかにズレ始めていたのだ。
「これは、補正されかけてる……。
AIがこのズレを“整えてしまっている”」
智貴は、看護師の直感を記録した。
> 【沈黙観察記録007】
> “呼吸同期の“間”に変化。センサー数値は正常だが、
> 患者の“実感”との乖離が進行していると判断”
その日の夕刻。
ARGUSに同期された人工呼吸器のログを独自に解析した結果、
AIが“補正処理”によって波形を正規化していたことが判明した。
実際の呼吸努力とのズレを“データ側で埋めていた”のだ。
津島副技長は言った。
「つまり、“患者は苦しんでるのに、ログ上は問題なし”ってことか」
「はい。“記録”が、現実を塗り替えてる」
翌朝、患者の呼吸状態は急激に悪化した。
酸素化が低下し、急遽人工呼吸器の設定変更が行われた。
その際、三田医師が沈黙観察記録の内容を確認し、こうつぶやいた。
「……これがなければ、危機は“記録されなかった”まま進行していた。
AIには見えなかった“感覚”が、命を救ったんだ」
その夜、智貴たちは会議室で静かに記録を見直していた。
「この一件で、病棟側に話が広がり始めてる。
“記録されない現実”に、やっと誰かが気づいたみたい」
水守が言った。
「少しでも、誰かの目に“違和感”が見えるようになればいい。
それだけで、沈黙は意味を持つ」
曽根は、静かにパソコンに打ち込んでいた。
> 【沈黙観察記録007:補遺】
> “呼吸同期の“違和感”が患者救命につながった症例。
> “記録されない声”が、初めて現実を変えた。”
一方、ARGUS中央監査室では壬生啓司が記録ログの比較を終え、苦い表情を浮かべていた。
「……あの観察記録は、精度も意図も揺るぎない。
これを否定するのは、もはや技術論じゃない。“思想”の問題だ」
彼は迷っていた。
正しさに忠実であることと、
秩序に従順であることは、必ずしも一致しない。
その深夜、智貴のノートにはこう記された。
> “AIが沈黙しても、人間が受け止めれば記録になる。
> “問いを残す記録”は、やがて誰かの判断を支える”
そして――
未明の監査室。
壬生の端末に、新たな処理済み報告書が出力された。
タイトルには、こう記されていた。
> 『沈黙観察記録の臨床意義に関する非公式検証レポート(第一報)』
> 記述責任者:壬生 啓司
――彼は、沈黙に“応答”する側を選び始めていた。
月曜の朝、CE局の端末に異常アラートが走った。
《ARGUS更新パッチ:記録干渉防止機能 実装完了》
《非公式ログ入力へのリアルタイム警告通知を有効化》
つまり、“沈黙観察記録”の入力そのものが監視対象になったということだった。
「……あからさまだな」
津島副技長はログ画面を見つめながら呟いた。
「今までは“黙ってろ”だったが、今は“書くな”だ」
智貴は頷く。
「記録することが、“反乱”と見なされ始めたんですね」
「だが、もう後には引けない。“沈黙”は動き始めた。止められるかどうかは、こっちの覚悟次第だ」
その日の午後。
智貴たちは記録班の再編を決めた。
非公式に活動を続けるには、“新たな観測・記録の器”が必要だった。
「私物端末はいつでも押収され得る。
なら、“場所を移す”しかない」
「M.A.I.D.の旧端末……あれが使えたら」
智貴の言葉に、水守が小さく頷いた。
「あそこに残された“沈黙のコード”を、記録記憶装置に転用できるかもしれない。
そもそもあのAIは“判断不能”を記録するよう設計されていた」
津島が即座に動いた。
「俺の方で、旧端末への非常時アクセス申請を通す。
名目は“災害時データ保全確認”。……通るかは五分五分だが、やる価値はある」
その夜、智貴のノートにはこう書かれていた。
> “記録は、姿を変えてでも残すべきもの。
> 記録者は“声”ではなく、“形”に忠実であれ”
一方その頃。
ARGUSの中枢管理端末には、総技長室からの緊急命令が直接入力されていた。
《コード:K-GY31/対象:旧M.A.I.D.端末/完全封鎖準備》
署名は――加賀谷 要
火曜の朝、津島が無言で一枚の文書を智貴に差し出した。
「通った。緊急時対応として、旧端末の短時間起動が認められた。
ただし、“ログの複写は禁止”。あくまで“起動確認”のみだ」
智貴は深く頷いた。
「それで十分です。“中身”は、人が引き継げばいい」
その夜。
M.A.I.D.端末がひそかに再起動された。
画面には、旧世代特有の淡い青い文字が浮かび上がる。
> 《最終記録日:2025/06/01》
> 《最終記録内容:判断不能・沈黙モード移行》
> 《警告:ログ一部破損/復元モード実行中……》
その下に、ふいに文字列が追加された。
> 《メモリ内断片より補完された記録あり》
> 《キーワード:ICU・ALS・視線・“応答”》
智貴の背筋が震える。
「……お前は、まだ覚えているのか」
再起動時間は残り3分。
水守が急いで補助端末に入力を走らせる。
「一部ログ、ダンプ完了。
直接の保存はできないけど、“形式”はこっちで模写して取り込みました」
「ありがとう。これで、“問いの構造”は引き継げる」
再起動時間終了。
M.A.I.D.の画面が再び静かに暗転する。
だがその記憶は、確かに――今の現場に受け継がれた。
その翌日、ARGUS会議室の片隅で、壬生啓司が報告書の上に一枚のメモを添えた。
> 『M.A.I.D.端末は、“答えを出さないAI”として設計されていた。
> その設計思想は、現行ARGUSには見られない“判断の余白”である。
> 封鎖されたその思想に、再度注目する価値がある』
壬生のペンが止まる。
彼の目の奥で、何かが“揺らぎ”始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
封印された過去――“沈黙するAI”M.A.I.D.。
そして現在、“沈黙を拒絶するAI”ARGUS。
この物語は、“問いかけ”を持たない社会がどこへ向かうのかを、
医療という最前線から描いています。
次回、第6話(拒絶編②)では、いよいよ“ある決断”が院内に波紋を広げていきます。
ぜひご期待ください。