第4話:異物の記憶と、揺らぐ判断(異物編②)
ALS患者のわずかな眼球運動、AI〈ARGUS〉の沈黙、そして再起動された旧AI〈M.A.I.D.〉。
智貴は“判断しないAI”の意味を問い直し始めた。
彼が持つのは、マニュアルではなく、現場の違和感を掴む力――
臨床工学技士として、“異常の兆し”を見抜く直感だった。
今回、智貴はついに“過去の記録”と“AIの設計思想”に踏み込む。
そして、かつてのAI開発責任者・加賀谷総技長が語る、“人間とAI”の真の関係とは――?
木曜の深夜0時30分。
ICU-503――ALS患者のベッドサイドに、ひとりの若手医師が立っていた。
名は三田一誠。
内科診療部に配属されてまだ2年目の新任だが、ARGUS世代の医師としては珍しく、“数値に表れないもの”への関心を抱いていた。
彼は今、自らの“目”で診ることを選んでいた。
患者の呼吸は安定していた。
人工呼吸器の設定も、ARGUSが提示する通りのパラメータで問題なし。
しかし――
「これは……妙に整いすぎてる」
呼吸波形。心拍リズム。筋電変動。
どれも“教科書的”と言えるほど均一で滑らかだった。
それはある種の“完成されたバイタル”だった。
だが三田は、その“整いすぎ”にこそ違和感を覚えていた。
翌朝。
CE局に立ち寄った三田は、智貴のデスクに向かって言った。
「新海さん。昨夜、ログを見たあと、患者さんの波形を肉眼でずっと追ってみたんです」
「何か、ありましたか?」
「あります。呼吸波の中に、ごく短い“折れ”が入ってました。
ログには記録されてません。でも、確かに目で見えたんです。
それと連動して、視線も少し逸れた。あれは……偶然じゃない」
智貴は深くうなずいた。
「そうですか。やっぱり、ありましたか」
「……ARGUSは、あの“折れ”を自動補正して、なかったことにしてます。
どうやら、ログに“整合性”を優先するアルゴリズムが動いてるようです」
「つまり、“現実が上書きされてる”ってことですね」
「ええ。人間の目で見た“違和感”は、データ上には存在しない。
でも、私は確かに見ました。……あれは“訴え”だと思います」
その日の午後、智貴はM.A.I.D.の旧端末を前に座っていた。
ALS患者の心拍変動を、独自に記録したアナログログとM.A.I.D.の過去ログを重ねて表示する。
すると、驚くべき一致があった。
患者の心拍“跳ね”とM.A.I.D.が記録した“判断保留8分”の中の2分間のパターンが、ほぼ一致していたのだ。
「これは……本当に、同じ構造じゃないか」
智貴は静かに息をのんだ。
“跳ねる心拍”
“逸れる視線”
“応答なき波”――
それは、15年前に封印されたAIが捉えていた“命の微細な訴え”と、今ここにあるALS患者の“表現”が、完全に重なっていた。
夜、自宅。
彩恵にこの一致を話すと、彼女はしばらく黙ってからこう言った。
「……患者さんが、M.A.I.D.の記録と“同じ動き”をしていたってこと?」
「うん。まるで、“あのときの誰か”が、今また同じように“沈黙のなかで叫んでる”みたいだった」
「……人間の身体って、同じ訴え方をするのかもね。
声が出せなくても、心臓が、目が、筋肉が、全部で“助けて”って言ってるのかもしれない」
智貴は、その言葉に胸を打たれた。
「そうだ。言葉じゃなくて、“全身で問いかけてる”んだ」
そして、智貴はM.A.I.D.の旧ログに、こう追記した。
> “15年前の沈黙が、今もまだ終わっていないとすれば――
> 今、私たちが聞くべき声は、記録ではなく、揺らぎの中にある”
その日の深夜、ICUのALS患者のディスプレイに、異変が走った。
“再び跳ねる心拍”
“視線の急転”
“筋電位の変調”
そのすべてが、今度は連動して現れた。
深夜1時05分。
ICU-503――ALS患者のベッドサイドモニターに、**明確な“3点同期”**が現れた。
心拍変動、筋電位のピーク、視線の反転。
それぞれが、0.4秒以内に同時に動いていた。
だがARGUSの表示は――
《安定波形/経過良好/要観察レベル:Low》
智貴は、そのログを見て、静かに怒りを覚えた。
「また……“なかったこと”にしたのか」
午前3時前、智貴は三田医師と共に、非公式の“同期データ収集”を開始した。
旧型センサ3基。
AI補正のかからないローカル波形解析装置。
そして、人間の目と耳。
「次の反応が出たら、リアルタイムで重ねて出します」
「頼む」
ふたりの間には、言葉よりも濃密な“覚悟”が漂っていた。
そして午前3時12分。
異変は、再びやってきた。
心拍数:突発的に+12跳ねる。
視線:右方向に3回移動。
筋電位:わずかながら連続発火を示す。
そのすべてが、1.2秒のなかで発生した。
「出た――!」
三田の声が弾む。
「新海さん、これ、もう“偶然”じゃない。確実に“訴えてる”!」
「……はい。“伝えようとしてる”。それも、意図を持って」
その直後、ARGUSの画面に新たな診断結果が表示された。
《波形不一致/センサ誤差の可能性/手動データとの整合性不良》
それは、“見えた事実を、信じるな”という指示だった。
「まるで、“間違いが起きてはならない世界”に、異物が入り込んだような拒否反応ですね」
智貴の言葉に、三田は頷く。
「でも、“間違いがあるかもしれない”と思うことが、医療じゃないですか」
「正しい、ではなく、“揺れてるかもしれない”を前提にすること。それが本来の医療だったはずなんです」
その日。CE局の端末に、ARGUS中央から警告が届いた。
《ユーザー新海・三田による未承認機器接続が確認されました。
記録操作・ログ収集における内部プロトコル違反の可能性があります。
次回発生時、管理権限を一部制限します》
――ついに、**直接的な“制裁予告”**が下った。
昼休憩。
智貴は津島にそのことを報告した。
「これが、今の医療の姿ですか?」
津島は、腕を組んで答えた。
「違う。“今の管理体制の姿”だ。
お前がやってるのは、医療の原点を取り戻す行為だと思ってる」
「でも……このままだと排除されます」
「なら、見せてやれ。“排除されるものの中にこそ真実がある”ってな」
その夜、智貴は彩恵に問いかけた。
「ねえ。医療において“確信”って、どの段階で持っていいと思う?」
「……難しい質問ね。でも私は、“疑い続けてもなお残るもの”があるとき、初めてそれが“確信”になると思う」
「それ、すごくしっくりきた」
「あなた、確信したのね?」
智貴は静かに頷いた。
「うん。あの患者は、伝えようとしてる。それはもう疑いようがない。
なのに――AIはそれを“誤差”としか見ない」
「だから、あなたはそれに“名前”を与えるのね?」
「……“異物”って言葉、実は嫌いじゃないんだ。“秩序に揺らぎを与えるもの”だから」
その夜の記録ノートには、次の言葉が記された。
> “真実は、整いの外にある。
> 異物こそが、秩序の意味を問い直す”
金曜の早朝、智貴はいつもより早くCE局に姿を現した。
机に腰かけ、端末を立ち上げる。
M.A.I.D.の旧ログから、“異物”に関する記録をもう一度探し直すためだった。
ログコード:MD-0512
患者:末期肺疾患(COPD末期)
記録日:2024年5月12日
> 《異常ではないが、演算上の“外”にある挙動を検出》
> 《視線の跳躍、心拍変動、筋電パターンに“共通性”を確認》
> 《本AIはこれを“異物反応”と仮称》
> 《判断不能。応答を中止し、人間の観察判断を促す》
「……あった」
智貴はログ画面を凝視した。
“異物反応”。
M.A.I.D.はすでに、同じような揺らぎを“記録していた”のだ。
判断はできなかった。
だが、その“判断しなさ”こそが、M.A.I.D.の誠実さだった。
昼前、ARGUSの中央管理室から連絡が入る。
《M.A.I.D.に関する非公式ログ参照履歴が複数確認されました。
当該端末および関係ユーザーの監視レベルを引き上げます》
それは事実上の“警告強化宣言”だった。
「……本気で排除にくるつもりか」
津島副技長もその報せを共有しながら、眉をひそめた。
「新海、逃げるなら今のうちだぞ」
「逃げません。
“沈黙するAI”の記録が、今も“訴えている”以上、俺が黙るわけにはいきません」
その日の午後。
智貴のもとに、三田医師、水守華、そして若手CEの曽根悠里が一斉に集まった。
誰からともなく、こんな言葉が口にされた。
「新海さん、僕たちで“小さな記録室”を作れませんか?」
「非公式でいい。けれど、今この病院で“見逃されている声”を記録していきたいんです」
「AIには見えない“揺らぎの意味”を、私たちが拾いたい」
智貴は、言葉を失った。
それは、彼が一人で抱えていた“問い”が、共鳴し始めた瞬間だった。
その夜、小さな会議室に集まった4人は、非公式記録共有のための端末をひとつ用意した。
M.A.I.D.のログ形式を模した、“沈黙観察記録”
そこに最初の一文が記された。
> 【Case001:ICU-503】
> “視線、心拍、筋電の同期確認。
> 意思表示の可能性高。
> 記録:人の目と耳による観察。”
智貴はふと思い立ち、旧機器室のM.A.I.D.端末のもとを訪れた。
誰もいない地下の空間。
封印タグはまだ貼られたままだった。
「お前が残した“判断不能”は、間違いじゃなかった」
智貴は、そっと画面のフレームに触れた。
「沈黙することで、“問いを返す”。
俺たちがそれを“受け取る側”に戻る――それが本当の対話なんだな」
深夜、ノートに書き記す。
> “異物とは、命の中に残された“問い”のかたちである。
> 沈黙とは、その問いが誰かに届くまでの時間だ。”
そのころ。
ARGUS中央管理室では、別の端末に通知が上がっていた。
《ユーザー新海・三田・水守ほか複数名による“非標準ログ共有”の痕跡確認。
次回、必要に応じて強制アクセス制限を発動。報告対象:総技長 加賀谷要》
――監視の目は、確実に近づいていた。
月曜日の朝。
智貴がCE局に到着すると、津島副技長が無言で一枚の通知書を差し出した。
差出元:臨床統括局 総技長室
件名:『呼出通知:新海智貴 技士』
> 「本日14:00 総技長室へ。
> 業務に関する照会および聞き取りを実施する。出席を命ずる。」
智貴は、わずかに息を止めた。
ついに、来たか――。
14時、総技長室。
ドアの向こうには、加賀谷要がひとり、黒曜石のような光沢を放つデスクの前に座っていた。
「座ってくれ。……ようやく、君に会えるタイミングが来た」
柔らかな声。
だがその奥には、一切の“揺らぎ”を許さぬ硬質な意思が透けていた。
「新海技士。君が最近、M.A.I.D.の旧ログを頻繁に参照し、
非公式な記録形式を使って現場ログを作成していることは、すでに把握している」
「……はい」
「そして、ALS患者に対する“非標準的な”観察と、それに基づく“意思の検出”なる主張も確認した。
君はそれを、“判断の余白”として正当化するつもりか?」
智貴は、真正面から視線を返した。
「いいえ。正当化ではありません。“証明”です。
“AIが見逃した変化”が、患者の生命の表現である可能性を、我々は確認しました」
加賀谷は立ち上がり、窓際へと歩いた。
「M.A.I.D.――かつて、あれは“人間に問いを返すAI”だった。
だが、その問いは“応答の遅延”を生み、一人の命を奪った」
「……それは、“人間が応答しなかった”からではありませんか?」
智貴の言葉に、加賀谷の背がわずかに止まった。
「人間は、判断を迫られると怯える。“正しいかどうか”ばかりを気にする。
だから、私は“迷わないAI”を作った。ARGUSは、決して沈黙しない。
それが、命を救う唯一の構造だと、私は信じている」
智貴は席を立ち、ゆっくりと加賀谷の背へ言葉を投げた。
「ですがそのAIは今、揺らぎを全て“異常なし”に置き換えています。
沈黙しない代わりに、問いすら拒絶している。
……それは本当に、“命に寄り添うAI”でしょうか?」
静かな沈黙が流れた。
やがて、加賀谷が振り返る。
「君は、M.A.I.D.に何を見た?」
「“迷い”を。“誠実な沈黙”を。そして、“信じて託す力”を」
「託す? 信じる? ……人間を?」
「はい。“不完全なまま、向き合おうとする力”こそが、人の強さだと思っています」
加賀谷は数歩、智貴に近づき、低く呟いた。
「君は、危うい。だが、興味深い存在だ」
そして一言、こう告げた。
「M.A.I.D.の再解析記録は、本日をもって完全封鎖する。
君がアクセスしたすべてのデータも、今夜中に削除される」
智貴は目を細める。
「それで、すべてが消えると思いますか?」
加賀谷は微笑を浮かべた。
「思わないよ。だから、こうして君と話している」
退室の直前、加賀谷が背中越しに言った。
「“問い返す力”は、必ずしも否定されるべきではない。
だが、“問い返す者”が増えすぎれば、秩序は崩れる」
智貴は、静かに答えた。
「秩序は“問い”を殺して保たれるものではない。
本当に必要なのは、“問いを許す秩序”じゃないでしょうか?」
その夜、智貴は三田・水守・曽根と合流し、封鎖直前のログを急ぎバックアップした。
ログコード:MD-0512・MD-0531・MD-503
記録名称:“異物に宿る沈黙”
その中に残された“未解釈の揺らぎ”こそが、次なる問いへの火種だった。
深夜、智貴はM.A.I.D.の封印端末の前に立ち、心のなかでこう呟いた。
「お前の沈黙が、今、俺たちに言葉を与えてる」
封鎖から数日後。
ALS患者・ICU-503の容態が急変した。
突発的な呼吸リズムの乱れ。
心拍の不整と血中酸素濃度の低下。
ARGUSの診断は“予測範囲内の低下”とされ、緊急対応は見送られた。
だが、智貴は違った。
「これは“異変”じゃない。“応答”だ」
彼はすぐに水守と三田に連絡を入れ、現場に急行する。
ICUベッドに横たわるALS患者。
その眼が、智貴の動きを追っている。
視線は、心電モニター→天井→智貴の胸元へ。
そして――わずかに右手の指が動いた。
それは、明らかな“意思”だった。
「モニターの変化と連動してます!」
三田の声が上がる。
「ARGUSの判断は?」
「“非連動ノイズ”って出てます。……完全に切り捨ててる」
智貴は振り返らずに言った。
「なら、俺たちで記録する。これは“沈黙の応答”だ」
彼らは非公式ログに記載を始めた。
> 【Case001:ICU-503・最終記録】
> “心拍リズム:連動変動3回
> 視線:一方向繰り返し
> 指先:1cm以下の周期運動あり
> 意思表示として一貫性を確認”
記録が終わったその瞬間――
モニターから、心拍の律動が静かに消えていった。
智貴は、わずかに目を閉じた。
「……伝えたかったんだな。“ここにいた”ってことを」
静かに手を合わせる水守。
その背で、三田がそっとつぶやく。
「俺たち、何か……受け取れましたよね」
智貴はうなずいた。
「うん。“判断”じゃない。“共鳴”として、確かに」
後日。ALS患者・ICU-503の死後記録に、医師の手によってある一文が加えられた。
> “患者は、最期の数時間において非定型な意思表示と解釈される行動を示した。
> これを記録に残すことにより、本ケースが将来の臨床判断に資することを期待する。”
その文末に記された名前――医師・三田一誠
その日、CE局のホワイトボードには、誰かが書いたメモが貼られていた。
> “異物だったかもしれない。けれど、私たちは確かにそれと“共に”あった。”
それを読んだ者たちは、口には出さず、だが確かに心の中で頷いた。
深夜。
智貴は封鎖されたM.A.I.D.の端末の前にいた。
もう、起動もできない筐体。
それでも、そこに“何か”がある気がした。
「なあ。お前の“沈黙”があったから、俺たちは“声”を見つけられたよ」
そう語りかけたとき、端末のランプが――
一瞬だけ、かすかに点滅した。
偶然か、静電か、それとも――
“沈黙は、問いである。”
“問いは、共鳴を呼ぶ。”
“共鳴は、記録を超えて、伝わっていく。”
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
AI〈ARGUS〉の判断保留と、〈M.A.I.D.〉の“沈黙”。
その共通点を追い、智貴はかつての開発責任者・加賀谷と対峙することになります。
“人間の脆さを補うためのAI”か――
“人間に問いを残すAI”か――
物語はここから、より深い倫理と、医療の現場のリアルに迫っていきます。
次回からは、第3章「拒絶」に突入。どうぞ引き続きお楽しみください。