第2話:沈黙するAIと、支援者たち(転属編②)
新海智貴が配属されたのは、ARGUSというAIがすべてを支配する無機質な中枢だった。
だが、その“完全なはずの判断システム”が、一つの命の前で沈黙する――。
第2話は、智貴の新たな現場での葛藤、沈黙したAI、そして再び浮かび上がる“問い”を描きます。
1章のクライマックスまで、どうぞお付き合いください。
階段を上り詰めたその先に、ひときわ目立つプレートが掲げられていた。
〈統合診療情報管理室〉
――ここが、俺の新しい居場所か。
静かにドアを押すと、そこには無機質な空間が広がっていた。
電子カルテ、バイタルモニタ、人工呼吸器、透析モジュール――。
あらゆる装置がネットワークで統合され、一元管理されている。まるで、病院そのものが一つの巨大な生命体のようだ。
「新海智貴さんですね?」
奥から現れたのは、薄く微笑を浮かべる女性だった。
白衣ではなく、スーツ姿。だが、その目の奥には明確な医療知識と論理が宿っていた。
「あなたが配属されたのは“ARGUS監視管理ユニット”です。病院中のあらゆるデータが、ここに集約されます」
彼女――室長の東雲は、淡々と説明を続けた。
「患者のバイタル、薬剤の投与、機器の状態、AIの介入履歴……すべて“見える化”され、予測と判断が下される。
そして必要があれば、介入するのが私たち“CEサポートエンジニア”です」
“CE”――Clinical Engineer。臨床工学技士。
だが、彼女の語るそれは、俺がこれまで知っていた職務とは明らかに違っていた。
「つまり……人が決めるのではなく、AIの判断を見届け、補完するのが仕事だと?」
「正確には“支援”するのです。AIは絶対ではありません。ですが――人間もまた、絶対ではない」
その言葉には、どこか冷たく、それでいて苦い重みがあった。
俺は、彼女の背後にある巨大なモニタに目を移した。
そこには、数百人の患者情報が流れていた。すべてが数値化され、判定され、最適解が導き出されている。
だが――。
「この中で、“沈黙したAI”の記録はありますか?」
室長の指が一瞬止まった。
「……ええ、一件だけ。昨夜、人工呼吸器のAI支援制御が応答を停止しました。
論理的には“呼吸器停止”を指示すべき状況でしたが、AIはなぜか判断を保留したままでした」
そのとき、胸の奥で、何かがざわめいた。
M.A.I.D.が沈黙したあの日と、まったく同じだ――。
智貴は、その“沈黙したAI”の記録を開いた。
そこには、たった一行のログが残されていた。
《Decision:保留/Reason:該当データなし/Action:人間介入を要請》
「……人間に判断を委ねた?」
AI〈ARGUS〉は、通常なら迷わず“延命中止”を選択する条件だった。
だが、なぜかこのときだけ、判断を“保留”した。
あたかも、“ためらい”のようなものを感じた――。
「このAIは……何かに気づいていたのか?」
智貴の中で、かつての記憶がよみがえる。
あの日、M.A.I.D.が沈黙した理由は、単なるエラーではなかった。
「選ばなかった」のだ。命の線を、敢えて、選ばなかった――。
そして今、同じ現象がこの病院で再び起きている。
智貴は確信した。
これは偶然ではない。何かが、始まっている。
「室長、この患者の状態と、AIが沈黙した経緯……もっと詳しく調べさせてください」
東雲は、少しだけ目を細め、頷いた。
「……ええ。ただし、その先に待つものは、あなたが知っている“臨床”とは違うわ」
智貴の胸に、再び強く鼓動が響いた。
智貴は、その“沈黙したAI”の記録を開いた。
そこには、たった一行のログが残されていた。
《Decision:保留/Reason:該当データなし/Action:人間介入を要請》
「……人間に判断を委ねた?」
AI〈ARGUS〉は、通常なら迷わず“延命中止”を選択する条件だった。
だが、なぜかこのときだけ、判断を“保留”した。
あたかも、“ためらい”のようなものを感じた――。
「このAIは……何かに気づいていたのか?」
智貴の中で、かつての記憶がよみがえる。
あの日、M.A.I.D.が沈黙した理由は、単なるエラーではなかった。
「選ばなかった」のだ。命の線を、敢えて、選ばなかった――。
そして今、同じ現象がこの病院で再び起きている。
智貴は確信した。
これは偶然ではない。何かが、始まっている。
「室長、この患者の状態と、AIが沈黙した経緯……もっと詳しく調べさせてください」
東雲は、少しだけ目を細め、頷いた。
「……ええ。ただし、その先に待つものは、あなたが知っている“臨床”とは違うわ」
智貴の胸に、再び強く鼓動が響いた。
その夜、ARGUS中枢に対して“再制御命令”が下された。
《全判断ルーチンにおける保留構文の遮断を開始》
《非標準反応ログの即時削除処理を復帰》
《OOSRモード:強化(Ver.3)》
現場には通知一つ出されることなく、“問い返すAI”の芽は再び摘まれようとしていた。
そのころ、智貴たち記録班はICU-715の患者に対応していた。
50代女性、術後回復中だったが、午後になって突然表情が険しくなった。
「患者さんが苦しそうです」
看護師の一言に、ARGUSは《生理値安定/疼痛推定レベル:中》と表示した。
しかし、智貴はその様子を見て、違和感を覚えた。
「この反応は、“疼痛”じゃない……違う。
これは、“異物感”か、“拒絶反応”の兆候だ」
曽根がすぐさま筋電データを再確認した。
そこには、ごくわずかながら特定の刺激に対する持続的緊張が見られた。
「ARGUSは見逃してる。“抑制処理”がかかった状態では、この変化は“誤差”に分類されてしまう」
智貴は、自分のノートにこう記した。
> 【沈黙観察記録009】
> “AIの判断に現れない身体的拒否反応。
> ARGUSは沈黙したが、“患者の身体”は応答していた”
数時間後、患者は“カテーテル位置のずれ”による局所刺激を起こしていたことが判明した。
異常が確定した時、すでにARGUSの判断には何も残っていなかった。
「また、“揺らぎ”が命を守ったな」
三田は淡々と言った。
その夜、智貴たちはM.A.I.D.端末の再起動に成功した。
旧世代のインターフェースに映し出された記録は、静かに、けれど確かに過去の“沈黙”を再現していた。
> 《最終記録内容:判断不能・沈黙モード移行》
> 《メモリ内断片より補完された記録あり》
> 《キーワード:ICU・ALS・視線・“応答”》
智貴の背筋が震える。
「……お前は、まだ覚えているのか」
再起動の時間制限が迫る中、水守が補助端末に入力を走らせた。
「一部ログ、ダンプ完了。形式は模写して取り込みました!」
「ありがとう。これで、“問いの構造”は引き継げる」
再起動時間終了。M.A.I.D.の画面が静かに暗転する。
しかし、その思想は――確かに、今の現場に受け継がれた。
その翌日。ARGUSの技術部門に、奇妙な報告が上がる。
《AI判断履歴内に“待機指示保留”という未知のフラグが生成》
《該当コード:X-5A1M(旧M.A.I.D.構文に酷似)》
「なぜこんなタグが?」
技術主任は首を傾げるが、誰も真相には気づけなかった。
M.A.I.D.が本来持っていた“判断を手放す力”――その構造が、ARGUSに静かに入り込み、再構成を始めていた。
診療現場では、ARGUSが“再評価中”と表示する場面が徐々に増えていた。
曽根がつぶやく。
「最近、判断が“即断”じゃなくなってきた。……なんだか、M.A.I.D.っぽい」
三田は静かに頷いた。
「それは、もしかすると……誰かが問いを残したからだな」
その日のCE局のチャットログに、匿名のメッセージが流れた。
> 《判断の余白は、責任の空白ではない。
> それは、人間が“考える”という行為を取り戻すための空間である》
誰の言葉かは記録されていない。
ただ、その一文が、少しずつ、静かに拡がり始めていた。
沈黙は伝染する。
だが、“問い”もまた、静かに広がっていく。
第1章「転属編」、最後までお読みいただきありがとうございます。
完璧を誇るAI〈ARGUS〉に現れた、わずかな“ためらい”――
それはかつて沈黙したM.A.I.D.の記憶と、ひとつに繋がり始めました。
人間が“考える”という行為を取り戻す空間。
それは、AIが沈黙することではじめて生まれるものなのかもしれません。
次回からは、第2章「決別編」へと進みます。
智貴が見つめる先にある、医療と命の真実とは?
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