第1話:静寂の病院、沈黙のAI(転属編①)
ようこそ『秩序の回路』へ。
2040年、AIが支配する医療の未来を描いた物語です。
2040年春。
永劫医療センター上空に広がる空は、不気味なほど整った青を保っていた。まるで感情を排した人工知能の画面のように、均一で、曖昧さが一切ない。
この国の医療は、すでに人間の手を離れている。
診断、治療方針、機器制御、処置の優先度――すべての判断は、医師でもなく看護師でもなく、ひとつの存在に委ねられていた。
名は「ARGUS」。
神話に登場する“百の眼を持つ巨人”に由来し、病院内のあらゆる情報――患者のバイタル、機器ログ、過去の診療データ、さらには職員の行動履歴までを統合し、常時監視・解析している“超統治型AI”である。
人間の感覚や勘は、もはや不要とされた。
そして、ARGUSの操作権限を持ち、最前線で“命の判断”を実行する存在がいる。
臨床工学総技長・加賀谷 要。
白衣に身を包んだその男は、今や“AI医療時代の預言者”とすら呼ばれていた。
その朝、回診が始まる合図も人の声ではなかった。
「ARGUS、回診ルートB-1を起動。対象患者一覧を投影せよ」
電子音声とともに、ナースステーションのディスプレイに次々と患者情報が映し出される。ベッド番号、疾患名、進行度、AIによる推奨処置。
その中心を、加賀谷が無言で歩いていく。
彼の手には、ARGUS専用の解析端末が握られていた。
「患者S-07、重度肝硬変。治療継続評価は?」
「有効性低下。QOL予測はE。治療中止を推奨します」
「中止とする。次だ」
患者の顔は見ない。鼓動を聴くこともない。
そこにあるのは、AIが下す最適解と、それに従うという“冷酷な合理性”だった。
医師が口を開こうとした瞬間、後ろに控えたCE(臨床工学技士)の一人が袖を引いた。
「異議は……命取りです」
それは、この病院における“常識”だった。
誰もが従う。なぜなら、ARGUSの判断は“絶対”だから。
しかし、その日。ひとりだけ、異なる空気をまとう男が、この病院に足を踏み入れた。
新海 智貴。
32歳。地方中核病院からの異動。CEとしての実績はあるが、ARGUS世代では“旧型”と見なされる存在だ。
「……すごいところに来ちまったな」
正門をくぐりながら、彼は深く息を吐いた。
前職では、AIは“相談相手”のような存在だった。
何かを判断できなかったときに支えてくれる、そんな“補助者”として、共に働いてきた。
それゆえに、彼は知っている。
AIが“沈黙”するということの意味を。
初日の朝、智貴はCE局のブリーフィングルームに立っていた。
自己紹介を終えた後、周囲の視線は一様に冷ややかだった。
「地方の病院出身って、本当だったんだ……」
「ARGUS、扱えるのかな? あの時代のやつじゃ無理でしょ」
小声が背後から飛び交う。それでも、彼は気にする素振りを見せなかった。
「この端末、手動設定できますか?」
「え? できますけど……」
「じゃあ、それで。AI任せじゃ、見落とすものもある」
静かな声だったが、その場の空気が一変した。
反抗ではない。だが、それは“違う風”の到来を告げる一言だった。
午後、案内された地下の旧機器保管室。
そこに、埃をかぶった一台の端末がひっそりと眠っていた。
「……まだ、残ってたのか」
その筐体には、薄く擦れた文字が刻まれていた。
「M.A.I.D.」
Medical AI with Independent Decision――
限界を感じたとき、自ら“沈黙”し、人間に判断を委ねるよう設計された、異色のAIだった。
智貴は、そっとその機体に触れた。
「よう。……久しぶりだな」
あのとき、彼と共にM.A.I.D.の沈黙を“最初に見抜いた”のは――彼女だった。
「……スパイログラム、揺れてたよね」
彼の記憶が、ふと学生時代へと戻る。
模擬検査のデータに、ひとつだけ紛れ込んだ異常波形。
他の誰も気づかなかったその違和感に、真っ先に反応したのが、彼女だった。
新海 彩恵。今の妻。臨床検査技師。
当時から冷静で的確な実習生でありながら、控えめで、誰よりも患者に寄り添う視点を持っていた。
「変な気配って、あるのよ。……特に“息”には、出る」
その一言が、彼の中に“判断とは何か”という問いを芽生えさせた。
AIが見逃すわずかな揺らぎ。
それに気づく“目”と“耳”を持つことの意味。
その夜、帰宅後の食卓。
彩恵がふとつぶやく。
「うちのAIね、たまに“何も言わなくなる”のよ」
「……壊れてるのか?」
「違うの。演算上は判断できるのに、あえて沈黙するの。まるで、『決めるのは人間でしょ?』って言ってるみたいに」
智貴は、息を飲んだ。
それは、かつて彼がM.A.I.D.に見た“沈黙”と同じだった。
――沈黙とは、逃避ではない。問いかけだ。
「……M.A.I.D.」
彼はその名を、静かに口にした。
AIが沈黙したとき、それは人間が“考えること”を取り戻す瞬間である。
この病院に、その問いかけを受け止める者は、果たして何人いるのだろうか。
まだ、誰も知らない。
その小さな“沈黙”が、巨大な秩序を揺るがすことになるなど――
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