第二話 紅の地下神殿
意識が冴えわたっていく。毎朝6:40に起きるのが俺のルーティーンだ。
俺は意識を集中させて、自身の目を覚まそうとする。
昨日はひどい夜更かしだったから、放っておけばずっと夢の世界だ。
しかし、体の感覚が妙におかしい。
そもそも俺はベッドに横たわっていたはずなのだが、今は直立しているかのようだ。
俺はやっとの思いで目を開けて、周囲の空間を認識した。
「は?」
思わず漏れ出た声は、自分自身の声としてよく知る音より二回り低かった。
そして俺はたしかに直立していた。
しかしそんなことはどうでもいい。
最もおかしいのは俺の目の前に広がる空間が、片付けきれてない書類や洗濯物の散らばる狭いアパートの一室ではなく、東京ドームより広い巨大な半球の閉鎖空間であるということだった。
俺はこの部屋をよく知っている。
昨日倒した【破壊神ヴァスタトール】のボス部屋だ。
7か月ぶりにサ終間近のゲームを遊んだだけで、こんなはっきりした夢を見てしまうというのか。
俺は、ジェバル冒険譚によほど深い未練を残していたと見える。
これは明晰夢というやつだろう。
しかし眠りが浅くては明日の活動に支障が出てしまう。
俺は、左手で頬を思いっきりつねってみることにした。
カツン。
指は冷たい金属にぶつかる感触を示した。
それだけではなく、指そのものもそういう材質らしい。
どういうことだ。人間の皮膚は柔らかいから、まずこんな感触にはならない。
驚いて自分の手を震わせながら顔の前に持っていった。
それは鮮やかな血の赤の色をした、西洋甲冑のガントレットだった。
甲冑。なぜだ。
俺は茫然としてしばらく自身の手を見つめていた。
よく見れば形状も普通のガントレットではなく、指先や関節部の曲線的形状が異質だった。
「ヴァスタトール......の......」
我に返った最初にはそんな声が出た。
俺は頭を下に傾けて、自身の胴体や脚を覗き込んだ。
やはりだ。
この目に映る俺の身体は全てが真っ赤な鎧だった。
しかもそれは、あの時宝箱から入手した破壊神セット一式や、【破壊神ヴァスタトール】が着ていたのと何ら変わりのない外見だった。
右手に初めて意識を向けてみると、剣を握りしめていることがわかった。
俺は2、3歩を踏み出してみた。
ガツン、ガツンと金属と石畳がぶつかり、重く冷たい音が鳴った。
明晰夢とは、これほどまでに精緻な表現をしてくれるのだろうか。
奇妙な点もあった。
そもそも鎧を着ているはずなのに、身体が地面や空気に触れる感触はある。
いや、どうやら触覚そのものが鎧にあるらしい。
俺は、モンスター図鑑の【破壊神ヴァスタトール】の説明文に、破壊神は鎧が本体であり、中身は空虚な魔力の塊であると記されていたことを思い出した。
あぁ、これでは破壊神のコスプレをした人間じゃなくて、本当の破壊神になってしまったみたいじゃないか。
とにかく、この夢は簡単に覚めてくれないらしい。
ならば滅多にお目にかかれない体験を存分に楽しんでやろう。
そう思考をポジティブに切り替える。
俺は、はるか200メートルほどの先に見える、ボス部屋と他の層を接続する通路への入り口に視線を合わせた。
夢の身体で一人かけっこだ。
俺は小走りから始める。
さっきから薄々気づいていたが、このクソ重そうな鎧の重量を全く感じない。
まるで、自分が小鳥になったかのような軽やかさなのだ。
それでも地面と足がぶつかるたびに重い音がするから、俺の筋力が常識外れになっているということだろうか。
実際、破壊神になったならそうでないとおかしい。
俺は、思いっきり地面を蹴って速度の上昇を試みる。
「わっ!あああああああっ!」
石畳のタイルの目が、新幹線の車窓から見える景色のように過ぎていく。
そして、俺が足で地面を蹴るたびに後方から銃声のように鋭く大きな音がした。
冗談じゃない、人型の生き物が走って出していい速度ではない!
俺がそのことを理解した時には、壁がすぐ目の前まで迫っていた。
「止まれっうおっうわわわわわ!」
減速を試みる前に、俺は情けない悲鳴を上げながら通路の少し横側に正面衝突した。
エジプトのピラミッドもかくやとばかりの重厚な石の壁が、大爆発と共に豆腐のように崩壊していく。
瓦礫の中でうつ伏せの大の字になり、自分が完全に停止したことを確認した俺は立ち上がって状況を確認した。
厚さ3メートルほどもある壁はすっかり崩落して大穴をつくり、岩盤の壁がその向こう側に露出していた。
この最難関ダンジョンの名前は【紅の地下神殿】だから、つまるところ地下の岩盤が露出したということだ。
そして奇妙なことに、俺は全く痛みを感じていなかった。
いくら鎧を着ていたとはいえ、人間があんな速度で突っ込めば今頃は挽肉の塊だ。
これが夢の中だからなのか、はたまたこの肉体では石の塊に飛び込むのもカラーボールのプールに飛び込むのも同じことなのか。
「そういや、ゲームではこんなふうに壁が壊れたりしなかったな......」
ゲームは無駄なことにリソースを割り当てていられない。
魔法の爆発があちこちを飛び交っても、戦場が焦げたり穴ぼこまみれになるということはなかった。
それに比べてこの夢は、夢にしても気持ち悪いくらいにリアルだ。
俺はますます変に思った。
人の脳がこれほど精密で合理的な表現をできるだろうか。
まさか、俺は夢を見ているのではなく本当にジェバルの世界に来てしまったのか。
「いやいや!まさか!」
あまりに突拍子もない話に走ってしまうのは、錯乱している証拠だ。
冷静にならなくちゃいけないな。
俺は右手が剣を握っていることを確認する。後でこいつも使ってみたい。
瓦礫の山から下りると、俺は暗い通路に入っていった。
通路を抜けた先の光景も、ゲームで見たダンジョンと違いはなかった。
最高レベル帯のモンスターの派手な攻撃を存分に生かせるように、このダンジョンは通路でさえ極端に大きく設計されている。
ボス戦前のセーブポイントに佇む女神像もそのままだった。
セーブができないかと祈ってみても反応はなかった。
俺は剣を構え、軽い気持ちで振り下ろしてみた。
腕は恐るべき勢いでビュオンと風を切って動き、勢いのあまり俺は前に転びそうになった。
しかし身体が覚えているかのように両足が自然と地面を踏みしめ、俺は転倒を免れた。
振り下ろした剣は、宙を斬っただけではなかった。
刃の形をした真っ赤な衝撃波が射出され、轟音を立てて地面を切り裂きながら銃弾のような高速で飛んだ。
俺の動体視力は、何故かそんな斬撃でも余裕をもって捉えられた。
時間の進みが遅くなったような感覚だ。
衝撃波が壁にぶつかって深い亀裂を残し、消滅するところまでをきっちり観測できた。
今、俺の手前にあるのは巨大な地割れと、巡航ミサイルが激突したようにえぐれた壁だ。
これが剣の一振りで作られた痕だと言われて信じる者はいないだろう。
正直なことを言うと俺も信じたくない。
「嘘だろ、本当に......!」
俺が驚愕の色を見せたのには、斬撃の威力の派手さを目の当たりにしたこと以上に強い理由があった。
それは、【破壊神ヴァスタトール】の通常攻撃がこのような赤い衝撃波を発生させていたということだ。
しかもゲーム内のジョブの中にこのような技を使えるものは存在していなかった。
となれば、最初に俺が閃いたことは正しかった。
俺は本当に今【破壊神ヴァスタトール】そのものとして動いているようだ。
自分が破壊神として動いているということを受け入れた俺は、続いてあの真っ赤な翼を生やせないかと試みる。
破壊神がやっていたように肩をいからせたポーズをして、力を込めてみる。
変化はない。
しかし頭の中で自分が翼を生やしたイメージを練っていると、突然肩甲骨の辺りに違和感が走って何かが体内から飛び出ていく感触を覚えた。
横を向くと、天使の翼を血に浸したかのような翼が立派に伸びていた。
なかなか禍々しくてキモいな。
でも、少し神々しさも感じる。神の翼という体だからだろうか。
バサリ、バサリと俺は翼を動かしてみる。
不思議なことに、翼は腕のように自由に動かせる。
翼が生える前は、第2対目の腕を操作する感覚など想像することもできなかっただろうに。
また、翼にはその根元から末端へと力が漲るような、感じたことのない感覚もあった。
そして俺はその力の流れる向きを操作できるようだった。
俺は何となく力の向きを下向きに操作してみた。
「うわっ!」
俺は電磁カタパルトで射出されたかのように飛び上がり、凄まじい加速を維持して垂直上昇した。
反射的に力の操作を停止させたものの、減速には至らず頭から天井に深々と突き刺さった。
衝撃で天井から石の欠片がボロボロと床に落下する。
「もごもご、どうなっでる、だずげてぐれ」
足をジタバタさせながら、上半身の埋まった俺はくぐもった声で困惑の言葉を発した。
視界は真っ暗だ。
「ふんぬっ!」
俺は腕に力を込めて、石材を押しのけてみた。
途端に天井には大きな亀裂が入る。
なんという身体能力だろうか。ゴリラでもこうはいくまい。
崩落と共に解き放たれた俺は、重力で落下していく。
ここから落下してもこの体では傷ひとつもらわないだろう。
しかし俺は、落下しきる前に翼を流れる力の流れを再び操作してみた。
今度は優しく、慎重に。
下方向への加速が止まり、続いて俺の速度は完全に0となった。
空中制止だ。
なるほど、翼はこうやって使うんだな。
力を右にかければ右に、左にかければ左に推進した。
ちょっと練習しただけで、俺は壁にぶつかることなく翼を手足のように操って飛べるようになっていた。
まるで最初から身体が覚えていたみたいだ。
すっかり飛行を覚えた俺は、急旋回や宙返りなどの無駄な動きをしながらダンジョンの通路を進んだ。
急加速と急減速を繰り返し、縦横無尽に宙を縫う。
後ろを振り向くと、翼から放射された力の奔流が絡まった糸のような軌跡を残していた。
人間ならとっくにGで死んでいる。戦闘機でも不可能な動き方だ。
しかし、この身体は平気なのだ。
正直すげえ楽しい。
通路を飛んでいると、俺は広間に飛び出した。
前方に力をかけ、急停止する。
ここもダンジョン攻略時に通った記憶がある。
妖しく光るルーンの紋様が床と壁にびっしりと入った不気味な空間だ。
そして、さっきのボス部屋が大きく見えないほどに広い。
俺は浮かれていたので、再び加速して広間を高速で飛び回ろうとした。
しかし広間に奥にいるものを見て、すぐにそれをやめた。
それは、高さが500mほどもありそうな、この桁違いに大きな広間の天井にさえもうすぐ頭が届きそうな巨人だった。
赤黒い炎に全身を包み、底なしに真っ黒な四つの目でこちらを見ていた。
巨人は腕だけが異様に長い。胸には無数の顔のようなものが蠢いていた。
このダンジョンの敵の中ではボスを除けば一番ステータスが高い、中ボスのような立場の敵。
【文明喰らい】。
一匹放っただけで一つの大陸が死の世界になるとかいう恐ろしい説明文が図鑑にあった気がする。
しかも図鑑には、同じくらい物騒なことがこのダンジョンの雑魚敵すべてについて書いてあった。
最高難易度ダンジョンの設定のインフレぶりを俺は静かに実感する。
しかし、いいか巨人よ。
こっちとくれば、すべての破壊を司る神にしてお前らのボスだ。
しかもお前の技を全て把握している。
ならば負けたり引き返す道理はない。
身体の扱い方にも慣れてきたから、こいつに正面から挑んでみよう。