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冷凍保存された湯島先生と左利きの猫

作者: 村崎羯諦

 あの優しかった湯島先生が冷凍保存されてから、今年でちょうど十年が経つ。


 十年も経てば世界地図の国境線は変わるし、子供の頃に遊んだ空き地は有料駐車場になったりする。十年も経てば、十年前は元気だった人も死んでしまったりするし、あれだけ嫌いだったセロリが食べられるようになったりする。


 そして、十年も経てば小学生だった僕たちは大人になって、働いていたり、大学生になったり、若くして死んでしまったりする。


 十年ぶりに訪れた冷凍倉庫。湯島先生はあの日と同じ格好で冷凍保存されていた。十年という月日が色んなものを変えていく中で、湯島先生だけはあの日からずっと時が止まっている。関節や首は本来は曲がらない方向へ曲がり、頭には血の跡が残り、それから、両腕の隙間には一匹の猫が収まるくらいの空間があった。湯島先生は僕の人生で出会ってきた人の中で一番優しい人だったし、優しさとは何かということを教えてくれた人だった。湯島先生は小学生時代という短い短い時間の中で、僕たちの人生に大きな財産を残してくれた。湯島先生は、そんな先生だった。


 十年前。木の上から降りられなくなっていた猫を助けるために木に登り、そのまま足を滑らせ、頭から真っ逆さまに落ちて死んでしまった湯島先生。助けられた猫が目に止まらぬ速さで逃げていく中、僕たちは先生の元へ駆け寄って、あの優しかった先生があっけなく死んでしまったという現実を突きつけられた。


 先生の優しさを一生忘れないためにも、先生を冷凍保存しよう。


 一体誰がそんなことを言い出したのか。覚えていない。むーちょ? てっちゃん? 青山さん? それとも、隣のクラスの担任だった宮脇先生? だけど、僕たちは真剣に話し合って、先生を近くの市場にある冷凍倉庫で冷凍保存してもらうことを決めた。だけど、冷凍倉庫へ運ぶために、校庭にやってきたフォークリフトが湯島先生の死体を持ち上げたとき、同じクラスの青山さんは声をあげて泣いた。その時、青山さんの家はめちゃくちゃな状態で、湯島先生はそんな青山さんを支えてくれたたった一人の味方だったから。


 置いていかないで! 青山さんは湯島先生の死体を運んでいくフォークリフトを走って追いかけ、途中で転んでしまう。宮脇先生が慌てて青山さんに駆け寄って、泣きじゃくる青山さんを抱きかかえてあげるのが見えた。校門の段差を乗り越える時、フォークリフトががたんと音をたて、湯島先生の死体がそれに合わせて揺れる。置いていかないで。フォークリフトの姿が見えなくなった後、青山さんは宮脇先生の腕の中でもう一度そう呟いた。


 それからも僕たちの日常は続いていったし、一日、また一日と大人の階段を登っていった。だけど、僕たちの心の中からあの優しかった湯島先生の存在が消えることはなかった。湯島先生のことを思い出さなくなったとしても、それは湯島先生の存在が僕たちの無意識に溶け込んで、わざわざ思い出す必要すら無くなっただけ。


 それでも、僕たちが冷凍倉庫に眠る湯島先生のもとに訪れる間隔は少しずつ開いていき、一人、また一人と先生に会いにいく人はいなくなっていった。結局最後まで残ったのは、僕と青山さんで、僕たち二人が最後に冷凍倉庫で顔を合わせたのは、中学受験を控えた中3の冬だった。


 冷凍倉庫の中、青山さんは分厚いダウンを着込み、マフラーと手袋で完全防寒をしていたけど、身体は寒さで震えていて、口からは白い息がタバコの煙のようにこぼれ出ていた。絵本を書いているの。県外の有名私立へ受験するという青山さんは冷凍倉庫の中でそれを教えてくれた。題名は『ヒステリックキャラメルとメランコリックバター』という名前で、物語にはヒステックもキャラメルもメランコリックもバターも出てこないらしい。


「ひょっとしたらだけど、キャラメルは出てくるかも。でも、こういうのって実際に書いてみないとわからないじゃん?」


 それが僕と青山さんの最後の会話だった。青山さんは無事に受験に合格して県外に出ていき、僕は第一志望の高校に落ちて滑り止めだった県内の私立高校へ入学した。


 湯島先生のクラスのクラスメイトが今、どこで何をしているのか。いまだに親交のあるてっちゃん以外、僕は全く知らない。てっちゃんは高校を卒業した後、レンタル彼氏として生計を立てている。お金を稼げるのは若いうちだけだし、資格を取るなりして手に職をつけておいた方がいいんじゃない?と僕がてっちゃんに言うと、てっちゃんは俺に指図するなと言って僕をボコボコに痛めつけてくる。


 僕はてっちゃんに殴られている間、何回殴られたのかを数えるようにしている。たまに意識が飛んで、数え漏れてしまうことがあるけど、僕は回数をきちんと頭に刻みつけ、自分の手帳に殴られた数を書き留める。


 1、3、5、5、17、6、3、2、14、8、9、7……。


 日記には、そんな数字が飛び飛びで記されている。この数字を将来何かに使うわけではない。でも、僕は数字を記録し続ける。殴られて腫れた頬をさすりながら。


 1、3、5、5、17、6、3、2、14、8、9、7……。


 湯島先生。僕は先生のような優しい人間になれてるでしょうか?





*****





 あの青山さんから久しぶりに会わないかという連絡は、突然やってきた。


 だから、僕は怪しい宗教に勧誘されるんじゃないかとか、高額な壺を買わされるんじゃないかとか、そんなことを考えてしまった。でも、地元の落ち着いた喫茶店で再開した青山さんは昔の面影を残したままだった。脛まである長いスカートも、ソファにもたれることなくピンと伸ばした背筋も、ムラなく塗られたネイルも。大人にはなっているけれど、それら全てがあの頃の青山さんを思い出させた。


 ただ、彼女の左手へ視線を落とした時、彼女の手の甲に人の形をしたタトゥーが彫られていることに気がついた。模様でも文字ではなく、人の形をしたタトゥー。シルエットは大人の女性で、髪は肩まで伸びていて、こちらに背を向け、足を崩して座っている。しかし、じっとそのタトゥーを見つめていると、そのタトゥーはゆっくりと動き出し、こちらへと振り返る。それから足をさすりながら立ち上がって、それから僕に呼びかけるように両手を大きく頭の上で振った。


「私の姉なの」


 僕の視線に気がついた青山さんが、少しだけ恥ずかしそうに教えてくれる。


「私の姉は救いようもないくらいにひどい人だった。平気で人を傷つけるし、自分のためだったらいくらでも嘘をつけるし、人を裏切ることができる。色々話し合って、喧嘩をして、でも、どうにもならなくて……結局最後は、生きたまま私のタトゥーにすることにしたの。まだ生きてるからタトゥーになっても動き続けられるし、私の体のあちこちを這い回ることができる」


 そういうと青山さんは僕の右手を掴んで、自分の左腕をゆっくりと触らせた。タトゥーになった青山さんのお姉さんは僕に少しでも近づこうと手の甲まで這いつくばるように登っていく。お姉さんの右手にはスプレー缶のようなものが握られている。なんだろうと思ってじっとお姉さんを見つめていると、彼女は持っていたスプレー缶で、皮膚の内側から外に向け、黒色の文字を書いていく。


『HELP』


 気にしないで。掠れるようなその文字を見続けていた僕に、青山さんが小さくつぶやいた。


「生きたままタトゥーにされたお姉ちゃんを可哀想だって思うかもしれないけれど、でも、少なくとも、今までお姉ちゃんがやってきたことを償うまでは、ここから出ることは許されない」


 スプレー缶で描いた文字が霧のように、少しづつ輪郭を失い、消えていく。タトゥーになったお姉さんは両腕をだらんと垂らし、文字が消えた場所をただじっと見上げていた。


「優しくない人は嫌い」


 青山さんが言った。


「でも、優しくない人が一人残らずいなくなったとしても、悲しみがなくなることはないし、この世界が優しさで満たされることはないんでしょうね」


 タトゥーのお姉さんが膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き始める。青山さんの言葉が僕に向けられたものなのか、自分の姉に向けられた言葉なのか、わからなかった。静かな喫茶店の中。僕たちは何も言わずにじっとタトゥーになった青山さんのお姉さんを見つめ続ける。静寂の中耳を澄ましていると、お姉さんが啜り泣く悲しい声が、耳の奥から聞こえてくるような気がした。






*****





 十年前に湯島先生に助けてもらった猫です。僕の家に突然やってきた同い年くらいの女性は、僕に向かってそんなことを言ってきた。


「結局その一週間後に車に轢かれて死んでしまったんですが、お礼も何も言わずに逃げてしまったことがあんまり良くなかったらしくて……罰として人間に転生させられてしまったんです。感謝の気持ちがあるわけではないんですが……せめて形だけでもお礼を言っておかないと、来世もまた人間にされてしまうんです」


 湯島先生のところへ連れていってほしい。猫は僕にそうお願いしてきた。別に断る理由はなかったし、僕たちは電車とバスを乗り継いで、湯島先生が冷凍保存されている冷凍倉庫へと向かうことにした。


 バスにのり、最寄りの駅へ辿り着き、改札を通る。その後、猫は僕の方を見て、自分は左利き何だと脈絡もなく教えてくれる。


「たとえばさっき通った電車の改札があるでしょ。あれは右側に切符を入れたり、ICカードをかざす場所がついてる。右利きの人は楽かもしれないけど、左利きの人にとったら不便。この社会では、いろんなものが右利きの人を前提に作られている。昔、左利きの人は早死にするなんて言い伝えがあったけど、そういった小さなストレスが溜まって、早死にしちゃうのかもね」


 どうしていきなりそんなことを話してくるんだろう。僕が不思議に思っていると猫は自分の髪を撫でながら言葉を続けた。


「優しい人って、左利きの人と似てるなって、思うの。優しい人間でいるってことはさ、右利きを前提とした社会で、左利きとして生きるみたいなことだと思うの。それに……気が付けば左利きになっているみたいに、自分から進んで優しい人間になる人なんてほとんどいない」


 猫の言葉に僕は何も言い返せなかった。駅のホームには少しずつ人が増えていって、真上にある電光掲示板がもうすぐ電車がホームにやってくることを知らせる。遠くから踏切が締まることをつげる警報音が聞こえてきた。それから僕たちは言葉少ななまま、電車に揺られ、湯島先生が冷凍保存されている冷凍倉庫へ辿り着く。猫はどうして湯島先生が冷凍保存されているのかなんてことも聞いてこなかったし、木から落ちたあの日のままの先生を見ても、別になんとも思っていなさそうだった。寒いね。猫は両手で両腕をさすりながら笑いかけてくる。


「私は今優しくされたんだって気が付くためには、何が優しさなのかを知っておく必要があるわけでしょ? でも、これが優しさなんだよってことは誰も教えてくれないし、教科書にも書いてない。一般的には、誰かに優しくしてもらって、優しさが何かってものを少しずつ知っていくことができるんでしょうね。でもね、誰からも優しくされたことがなければ、優しさがなんなのかを知らずに生きていくしかないの」


 猫が僕の目を、それから僕に優しさを教えてくれた湯島先生の方をみて、言葉を続ける。


「私は誰からも優しくされたことがない猫だったから、どうか悪く思わないで。それから……前世の私みたいに何が優しさなのかさえ知らない人がいたら、何が優しさなのかを教えあげてね。あの先生みたいに」


 それから猫は笑って、手を合わせる。湯島先生、ありがとう。心のこもってない、形だけのお礼をした後で、猫は帰ろうと僕に提案する。猫が僕の手を握った。寒い冷凍室の中で握った猫の手はとても柔らかくて、だけど氷を直接握っているかのように冷たかった。


 帰ろっか。猫は僕にそう呟く。


「家で旦那が待ってるから、早く帰んないといけないの」


 それから僕たちは冷凍倉庫を出て、途中まで同じ電車に乗って、そのまま連絡先を交換することなく別れた。


 僕は湯島先生のことを思い出す。昔は生きていた頃の湯島先生の姿の方が多かったけれど、今、思い出す湯島先生の姿は、冷凍倉庫で保存されている姿のことが多い。でも、冷凍保存されている湯島先生の姿も、僕は嫌いじゃない。腕の中の猫が傷つかないように受け身すら取らず、頭から真っ逆さまに落ちて、帰らぬ人となった先生。この世界は先生みたいな人を前提とした作りにはなっていないし、先生みたいな人は、きっと生きていくだけでも大変だと思う。


 前世の私みたいに何が優しさなのかさえ知らない人がいたら、何が優しさなのかを教えあげてね。あの先生みたいに。左利きの猫が冷凍倉庫の中で僕に言った言葉を思い出す。家に帰り、僕は日記を開き、そこに書かれた数字を目で追っていく。


 1、3、5、5、17、6、3、2、14、8、9、7……。


 湯島先生。僕は先生のような優しい人間になれることを、願っています。いつまでも、いつまでも。

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