第六話 馬車と朝焼け色の青年
「それじゃ、そろそろいい頃合いだろうし。出発するよ」
「は、はい……!」
紫ドレスの上に黒いローブを身に纏ったヴェスティアは、これ以上になく緊張しながら深呼吸をする。
酒場の裏手には扉があり、そこは小さな水汲み場の広場に続いている。そこの家々の合間から覗く夜空は、憎らしいくらいに晴れ渡っていた。
幾度も深呼吸しているヴェスティアへ、見送りのメルルは呆れたように背中を叩く。
「もう、しゃんとなさいな。これから一世一代の大喧嘩をしに行くんだから、飲まれてたら何も言い返せないわよ」
「まあ、別にそれでもいいんだがね。あたしが全部やるから」
「ママが全部終わらせたら意味ないじゃない。この子が、自分の言葉で決別することが大事なんだから。今のうちにケジメをつけておけば、後々の人生が楽になるものよ」
バシバシと叩いてくるそれに咽せながら、ヴェスティアはやはり緊張したようにピーンッと背筋を伸ばして言う。
「わ、わかりました! 今夜という今夜は、あのいけすかない殿下の顔面にこの拳を食らわせて鼻血だらけにしてやります! この右ストレートで!」
「……少し前から思ってたけどアンタ、割と口が悪いわよね」
抑圧されていた反動なのか、感情を解放されたヴェスティアの言動がやや軽薄な感じになってきている。おそらくこっちが素なのだろう。
シャドーボクシングする伯爵令嬢へ生暖かい目線を送っていると、ノエスが煙管に火をつけながら言う。
「元気なのは良いことだよ。日和ったまま、自分のせいだと思い込みながら無理に忘れようとする方が不健康さね。相手をぶん殴れるくらいのじゃじゃ馬の方が、教育しがいがある」
「え、じゃじゃ馬ですか、私」
ショックを受けているヴェスティアを上から下まで観察してから、ノエスは黒い煙を煙管から出しつつ指摘する。
「格好は問題ないが、華やかさが足りない。ほら、餞別だ」
「わわっ!?」
煙がヴェスティアの身に纏い、胸の黒いリボンと髪飾りへと集う。次の瞬間には、鮮やかな紫色の薔薇が、胸元と髪飾りに生えるように付けられていた。
それに触れ、実態を伴うことに気づき、ヴェスティアは感心したように尋ねる。
「本物みたいです……これも魔法なのですか?」
「そうさ、魔女は時間を操ることもできる。時を止めた特別製の薔薇を、そこに出現させただけさね。……さて、それはともかく」
次いで、ノエスは更に煙管を大きく振って、朗々と告げた。
「さあ我が下僕達よ、古の契約により魔女にして主人である、我が命じる! ……さっさとここへ馬車を持って来な!」
前半はともかく、後半がかなり適当である。
面食らうヴェスティアの目の前で、黒色の煙が視界いっぱいに満ち溢れ、何も見えなくなる。
しかしその隙間から、煙の向こうで何かが出現する気配がした。
すぐさま散っていく煙の中から現れたのは、黒を基調とした金の縁取りの馬車。それを曳く馬は、ツノを生やした見事な黒馬。
黒き馬は嗎きを上げながら、一突きで刺し殺せそうな程に大きな角を揚々を掲げながら、こちらへ顔を向けた。
そして最後に、御者台の上から、見知らぬ人物が声をかけてくる。
「おお、ご命令にて参上いたしました、地底商会のブブルでございます! ノエス様、本日は当商会をご利用いただきまして、まことにありがとうございます」
「長ったらしい社交辞令は結構! まったく、深鬼ってのはどうしてこう、頭が硬い真面目ばっかりなんだろうかね」
御者は、緑の肌に短い角を生やした、紳士服と帽子を被る小さな小人だった。ゴツい顔つきは明らかに人外のそれで、鋭い下顎の牙に長い鼻は、まさに御伽噺のゴブリンそのものだった。
目をまん丸にして驚くヴェスティアへ、メルルが笑いながら声をかける。
「驚いたでしょ? ママは別大陸の小鬼と契約を結んでいるから、こうしていつでも召喚できるのよ」
「あの、ゴブリンではないのですか?」
ヴェスティアの小さな声に、メルルが慌てて耳を引っ張ってからヒソヒソと囁いた。
「違うわ、彼らは地底に住まうディープラルドという種族よ。間違ってもゴブリンと呼んじゃダメよ。しばらく丁寧口調で罵詈雑言を放たれるから」
「は、はぁ」
メルル曰く、ディープラルドは手先が器用で技術力がずば抜けて高く、別大陸では人間と交易して生活をしているという。そしてゴブリンとは昔年の仇敵同士であり、似た容姿から間違われることすら嫌がるという。
「その、他大陸にはゴブリンがいるのですか?」
「いるらしいわよ、こっちじゃ御伽噺だけど。ま、大海原を安定して越えられるようになれば、御伽話が現実になるでしょうけど」
なんとも不思議な話だが、きっと過去にその大陸からやって来た人間が、こちらへゴブリンが登場する物語を広めたのだろう。それが広まるも、誰もゴブリンを見たことがないため、御伽噺になったのだ。
なんとも世界の広さを実感してしみじみと感心していたのだが、その間にノエスはこちらへ声をかけた。
「さて、それじゃあんたはこれに乗って、城までおいで。あたしは先に行ってるからさ」
「あ、ノエスさん!?」
見ている合間に、ノエスはどこからか取り出した箒に横座りで乗ってから、ふわりと浮かんで夜空へ旅立つ。
本当に空を飛ぶ姿を目の当たりにして、ヴェスティアは間の抜けた声しか漏れない。
そんなヴェスティアへ、御者であるディープラルドのブブルは、急かすように声をかける。
「さてさてお嬢さま、パーティの時間まであまり猶予はございません。ささ、お早くお乗りくださいませ」
「あ、はい……って」
扉を開けようとした途端、扉が中から開かれ、顔を出した相手へヴェスティアは硬直する。
朝焼けと同じオレンジの髪と赤い瞳の青年は、なぜか黒い一丁羅を着込んで、こちらへ手を伸ばしてきたのだ。
困惑しながら手を取れば、力強く馬車の中へと乗せられ、チョコンと椅子に座らせられる。
「では行ってくる。あとは頼んだぞ、メルル」
「はいは〜い、パーティを楽しみすぎて靴を落とさないようにねぇ〜」
バタンと扉が閉じられ、黒い一角獣のいななきと共に、ふわりと浮遊感が襲う。
ハッとなったヴェスティアが窓から外を覗けば、馬車はまごうこと無く空中に浮かび上がり、円を描きながら広場から夜空へと脱出していた。
眼下で手を振るメルルをポカンと見送ってから、ヴェスティアは眼前の無愛想な青年へ目を向ける。
「あ、あの!」
「ああ」
「馬車が浮いてるんですけど……! 馬車って浮くものでしたっけ?」
「ディープラルドの加工した魔石を用いた馬車と、魔女の力があれば可能だ。魔法具を作り出すのも魔女の技術だからな」
「……本当に、魔女様なんですね」
煙を操るのは何度か見たが、あらためて突きつけられる魔女の偉大さに、ヴェスティアは徐々に不安に駆られた様子で呟く。
「……私などが、魔女になれるんでしょうか」
「それはお前次第だ」
返答など無いと思っていただけに、その予想外の返答にヴェスティアは顔を向ける。
アマルと呼ばれていた青年は、ヴェスティアをじっと見つめながら続けた。
「あいつも、俺と契約した時に似たようなことを言っていた。婚約破棄された自分などが、奴らを見返せる魔女になれるのだろうか、と」
「……え、ノエスさんも?」
「そうだ。既に亡国となっているが、彼の国であいつは手ひどく裏切られた。召喚された俺はあいつを気まぐれで助け、魔女に……結果として、魔女にした。ほんの千年ほど前の話だ」
まるでつい最近のような物言いに、ヴェスティアはなんとなく、それを口に出していた。
「あの、貴方は……ノエスさんの、使い魔なのですか?」
魔女の言い伝えにある、異界の存在と契約した後、両者は力と命を共有するという。故に、常に魔女は契約者、すなわち使い魔と共に生き続けるという。
予想通り、アマルは窓の外を見ながら頷く。
「あいつと共にこの世界を随分と回ったが、この狭間の世界は不可思議な法則で定まっている。歪みが発生して土地が丸ごと消える事もあれば、いつの間にか見知らぬ土地が生成されている。他世界から何かが漂着する事もある。そして何より、今の世界は球形ではない」
「……え、世界って平らですよね?」
「いいや、この世界は北に進めば南に出る。ドーナツ型なのだ」
歪みというのは、この世界で稀に起きる災厄だというのは聞いたことがあるが、ドーナツ型というのは初耳だ。
理解できずに脳内でお菓子のドーナツを思い起こす。あんな奇妙な形を、世界はしているというが、実感が湧かない。
「なんで、私たちはドーナツの上から落ちないんですか? それに空も、お日様はどんな風に動いているんでしょうか? 北と南の合流地点で天を仰げば、世界の向こうが見えたりするんでしょうか?」
「……実際に見に行ってから考えてみるんだな」
「勘違いでなければ、今面倒だから説明を放棄しませんでしたか?」
「事実、面倒だ」
もはや視線すら合わせようとしない。
良いところで答えを言わない相手に、揶揄われたかとヴェスティアは半眼で見やるも、相手は屁でもないようだ。
されどその視線に多少は気が向いたのか、青年は小さく一言だけ付け加える。
「星が落ちて穴が開いた、言えるのはそれだけだな」
「星が落ちて……って、大昔の伝説ですよね? 世界が壊れかけて無数の国々が滅んだとは聞きましたが、ドーナツ? どうしてそんな形に?」
「さあな」
答えをはぐらかす相手にムッとしたヴェスティアが何とか話題を聞き出そうとするも、相手は歯牙にもかけない様子である。
人外な相手に胆力の脆さを期待するだけ無駄と悟り、ヴェスティアはため息混じりに話を戻した。
「それはともかく……ノエスさんは婚約破棄されたのでしたね。あの方は、高貴な身分のお方だったのですか?」
「らしいな。あの国では王子とは従兄弟同士だと言っていたか」
「ものすごく高貴な方じゃないですか。お相手はいったい何を考えて婚約破棄なんて」
「さあな、人間どもの考えることなど、俺には理解する価値すらない」
朝焼け色の使い魔殿は、主人の来歴に心底から興味がなさそうだった。
だが、ヴェスティアは考える。似たような境遇だったらしいからこそ、気になるのだ。
「王子と従兄弟……文明崩壊以前の国が今と同じ身分制度なら、おそらく公爵家か、それに類する身分。お相手もきっと同じくらいか、あるいは王族の可能性も。……でも、伯爵家などよりもずっと高貴のはずなのに、どうしてああまで蓮っ葉な感じに……」
「あいつは最初からあんな口調だった。人それぞれに得手不得手があるのだろう」
「そう言うものでしょうか」
得手不得手に関わらず、自身の意思関係なしに礼儀作法を強要されてきたヴェスティアとしては、そう言うものだとは思えないのだが。
「やはりメルルさんと同じく、前世持ちだから、でしょうか。前世、ニホンという国……どんな場所なのでしょうか」
メルルといいノエスといい、ニホンという国はこの世界よりずっと先進的で、刺激的な世界なのだろうか。メルルの言い分を見るに、人々は生きる権利を与えられ、貧乏人でも身を売ったり餓死する事は滅多にないのだろう。
それはとても……羨ましく感じた。
自身の奥底に潜む淀んだ影が、ヴェスティアの金の瞳を曇らせる。それは身を焦がすほどの熱を持って、腹の底で熱く煮えたぎっているのだ。
「もしも、私がニホンに生まれていたら……こうして、憎悪を抱かずに済んだのでしょうか」
「さあな。だが、一つ言えることは……人生をやり直せたら、などと考えて実際にやり直したところで、必ず幸せになれるとは限らない、ということだ」
アマルの言葉に目を向ければ、アマルは瞑目しながら嘆息している。
「生存とは痛みの連続だ。生きるために他者を食らい、同時に他者によって一部を食われる。別の人生を歩んだところで、その連鎖から逃れる術はない。別の人生は、別の苦しみだ」
「……そういうもの、なのでしょうか」
「人生を終えた人間が、記憶を継承したまま新たな人生を歩んだところで、別の部分で齟齬が生じる。メルルを見ればわかるだろう。肉体の齟齬、価値観の齟齬、法則の齟齬、それらありとあらゆる齟齬に一生を苛まれ続け、解放される術はない」
「解放は、されないのですか? 慣れたり、受け入れ続けることはできるのでは」
「どうだろうな。人間の受け皿には決して変わらぬ部分があると、俺は見ている。慣れる部分もあるだろうが、根底に残る違和感は、こびり付いたままだ。特に、自己と認識していた肉体と違う体というものは……想像を絶する違和感だそうだ」
性差だけでなく、構造や手指の長さ、或いは五感すら違う部分があるかもしれない。元来の自分ではないという認識は、思いの他、人間の精神に負担をかける物だという。
アマルが語るところ、メルル曰く、自分の喉や頭を引き裂いて中身を取り出してやりたいと思ったことは数知れない、という。慣れた今でも時折、人形の中に閉じ込められたような感じがするらしい、と青年が語る言葉に、ヴェスティアはなんとも言えずに目を細めて、自身の手を見つめる。
「確かに、私は私、この肉体も丸ごと含めて、私です。その一部が消えるだけでも、きっと不安で仕方がないでしょう。全てが消えてしまったら? それは果たして、私なんでしょうか?」
「ノエスも悩んでいた。今の自分は、果たしてかつての自分なのだろうか、と。……だからか、彼女はいくつかの姿を持つ。かつての自分の姿を模倣し、年を重ねた姿を常に纏っている。違和感を少しでも減らすためにな」
「あの姿は、偽りなのですか? では、本当のノエスさんの外見は、もっとお若い?」
「ああ、とても美しい。が、あいつはそれに喜ばないだろう。あいつにとって、千年経ってもこの世界の姿は未だ、偽りだからだ」
なんだか業の深い話だ、とヴェスティアは思った。魔女であってしても、前世に囚われ続けているのだから。
また同時に、ノエスを深く理解するアマルへなんとも言い難い感想を抱きながら、それとなく言う。
「ノエスさんを、信頼していらっしゃるのですね」
「ああ、愛している」
遠回しに言った言葉へ直球ストレートが投げ返されてきた。流石に予測できずに顔面デッドボールである。
一瞬で顔を真っ赤にしたヴェスティアへ、アマルは平然と小首をかしげる。
「人間の言葉では、そう言うはずだったが? 俺は彼女を愛しているし、永遠を添い遂げたいと思っている」
「え、ええと、その……と、とても深く愛されているのですね! きっと、ノエスさんもアマルさんをとっても愛していらっしゃるのでしょう!」
「彼女は俺へ愛していると言ったことはない。俺もな」
「ええっ!?」
思わず聞き返すヴェスティアへ、アマルはやはり気にもしない。
「言葉で伝える物ではない、これらは互いに理解し合う物だ。互いがそこにあることが普通だと、黙していても至上の信頼感を感じ取れる間柄だからこそ、言葉にする必要すらない。むしろ、言葉として伝えてしまえば呪いとなる。そういうものだ」
「はぁ……私には、まだまだ理解できない域の話ですね」
人間とは違う、長い年月を生きる存在同士だからこその、愛の形なのだろうか。いつか死ぬ人間とは違い、魔女や使い魔とは不変な存在。いつ双方の心が別れても良いように、愛を互いの枷にしたくないのだろう。
未だ人間気分なヴェスティアは、胸中でそう納得する。
果たして、自分もいつか、そう思い合える存在と出会えるのだろうか、と、未来への一抹の不安を抱くのである。
「ええ〜、お客様がた〜、王城前へと到着いたします。どうか下車のご準備を〜」
小窓から響いてきたブブルの声に、ヴェスティアは我に返って、外を見る。
晴れわたる銀河の大空、そこここで明かりの灯る都市の夜景、そして月明かりに反射するのは、通い慣れた王城。
そこで行われているのは、王太子が主導で開催している、学園の卒業パーティ。今年だけ盛大に行われるそれには、学園に通っていたさまざまな王侯貴族の親族たちが、こぞって参加しているはずだ。
それを見下ろし、ヴェスティアは喉を鳴らして、両手を握る。
さあ、ここからが踏ん張りどころだ。