第三話 伯爵令嬢、ブチ切れる
「……ぷっ、あっはっはっはっは!!」
不意に、老婆は弾けるように大笑いした。
思わずビクリとするヴェスティアへ、ひとしきり笑った老婆は、あくどい笑みを広げて煙管の先を突きつける。
「やっぱりあんた、本当はわかってるんだねぇ。あんた自身、あいつらが大っ嫌いだってことに」
「な、なに、を……」
「普通、自分が好いた人間が証拠も無しにあらぬ疑いを掛けられれば、例え疑惑を抱いていたとしても、まず最初に出てくるのは『あの人がそんな事をするわけがない! 何かの間違いだ!』ってな言葉だろうに。なのにあんたは王子を庇うでもなく、まず自分が悪いと来たもんだ! それはもう、自分の心の内を言ってるようなもんさね」
ドクン、と、心臓が大きく高鳴った。
視界が明滅する、呼吸が大きくなる。
心の奥底に封じた杭のような楔が、老婆の言葉に反応して、大きく揺れているのを感じる。
明らかに動揺するヴェスティアを見ながら、老婆は少し思案してから、良いことを思いついたように口端を上げた。
「そうだねぇ、徹底的に調教されているあんたのような人間は、凝り固まった束縛思考から逃れることすら難しい。だから、その枷という呪いを解こう」
魔女が何事かを呟けば、煙管から現れた煙がヴェスティアに纏わりつく。
思わず吸い込んだそれに、ヴェスティアは胸の内から草の香りがして、スッと思考が晴れてくる。常に暗雲が立ち込めている、いつもの自分とは違う精神状態に、何かをされたのだと危惧した。
思わず相手を見返すも、意にも返さず老婆は淡々と事実を述べ始めた。
「実の父親はあんたを道具としてしか見ない。伯爵家の娘なのに、父親の都合で生まれたのに、檻の中の動物のように飼われる毎日。いつか自分も、母親だという女と同じように緩やかに殺されるに違いないと思っていた」
それを聞いて、揺れるヴェスティアの胸の奥で、誰かが声を上げていた。
小さなそれは、しかし淀んだ感情を抱きながら、はっきりと響いてくる。
どうして父は私を愛してくれないんだろう。貴方が作ったのに。嫌がったという母を脅して、手籠めにしたくせに。愛せもしないくせに子供を作って、利益の為に売り飛ばすのが親のすること? それは養豚場の豚の扱いと、果たしてどう違おうか。
「あんたの周囲の人間は、あんたを見下して悦に浸っていた。自分より下の人間を作り出して雑に扱い、時には慈悲を与えて『自分はいい人だ』という自己満足に耽った。この国で一番愚かで哀れな女、それがあんたの扱われ方だ」
違う、自分は愚かでも可哀そうでもない。小屋で飼い殺されていた時よりも、ずっと多くの事を学んだ。
学園では座学に励み、成績も上位へと食い込み、教師からの覚えも良かった。
礼儀作法だって、誰よりも真剣に取り組んで物にしてきた。
好きではなかったけども、お茶会だって積極的に参加して、友達を多く作ろうと頑張った。
人より遅れていたという自覚があったからこそ、将来、この国を立つ王子の隣に立てるように必死になって学び、努力し、力に変えてきた。
なのに、その教師や友達もまた、アルストールやアイシャの態度を見て、掌を返したのだ。
「あんたの王子は、あんたを玩具としてしか見ていない。アイシャが現れるかどうかなんて関係ない。それ以前から既に、あのボンクラはどうしようもなかった。歪んだ性癖を満たすためだけに、捕まえたネズミを甚振るように、あんたを苦しめて仄暗い喜びに満足していたんだよ」
薄暗い衝動が、ジワジワと身の内を食い破ってくる。長らく封じられていたそれは、決壊するダムのように、理性という防波堤を崩していく。
そして防波堤の奥底で、誰かが叫ぶ声がする。
徐々に大きくなってきているそれは、這い寄るようにヴェスティアの背後に現れて、その喉首を捕まえてくるのだ。
「アイシャだってそうさ。最初っからあんたを目に仇にしていた。あんたを排除して、この国一番のお姫様になるんだって。だからあんたの評判を暴落するように画策し、冤罪を仕掛け、処刑するように催促したのに、国王がストップを掛けたせいでそれすら出来なくなった。で、追放ってわけさ。正確には国の法ではなく、あんたの家が行う私刑でしかないけどね。ま、それに判を押したのは、間違いなくあんたの実の父親なんだけども。こうして、晴れてあんたは公認サンドバッグから浮浪者へ転落ってわけさね。明日までの猶予はあるけどもね」
「……さい、うるさい」
もう、たくさんだった。
人形として扱われるのも、こちらを怒らせようと嘲笑する悪意も、なにもかも。
老婆の言葉で打ち崩された壁の奥、幼少期から積りに積もっていた憎悪という感情は、一瞬で彼女の身の内を食い破るように溢れ出した――
――その瞬間、ヴェスティアの身体から、ドス黒い霧がブワリと湧き上がったのだ。
「うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいっ!!!」
ガシャンッ!! と、ヴェスティアが持っていたグラスを地面へ叩きつけた。
唇は真っ白になるほど噛みしめられ、端から血が流れている。
その形相は引き攣り、滲み、ギラギラとした金の瞳だけが不気味に輝いていた。
「わかってたわよ……そんなこと、わかっていたに決まっているじゃないっ!! 私がどんな扱いをされて来たのかなんて、そんなの私が一番わかっているに決まっているじゃないの!!」
彼女が叫ぶ度に、黒い靄が次々と狼頭の人型のような姿となる。
赤い瞳をギラつかせるそれは、まず目の前のテーブルに拳を振り上げ、叩き壊す。
「でもね、それじゃあどうすれば良かったっていうの!? 生まれた時から疎まれて、蔑まれて、馬鹿にされて! 誰も助けてくれない! みんな笑っているだけ!! 私を見ているのに見ているのはそうじゃない、愚かで可哀そうで殴りやすいヴェスティアというお人形よっ! 私に選択権なんて一度も渡された事なんてなかったっ!! 一度も、そう、一度も! 服だって選べないし勉強だってお父様のさじ加減一つ、学園での勉強だって全部そう!! 私には、何一つ与えてくれなかったっ! それどころか、お父様には捨てられた挙句に、さっきは殺されかけたのよっ!! もういらないから、ガラクタは壊してゴミ箱に片付けようってね! ふざんけんじゃないわよっ!!」
暴れ回る黒い影の群れは、机を引き裂き、ソファを叩きつける。天板が真っ二つに裂け、脚が無残に折れ曲がって飛び散り、地面にガラクタとなって転がった。
そんな惨状を目にも入れずに、ヴェスティアはただ叫ぶ。
虚空へ向けて、淑女の礼儀など知るかというかのように、大口を開けて叫び続ける。
「私はいったいなんなの!? 私の人生はいったい何だったというのよ!? ただ殴られるためだけに生まれたのが私だって言うの!? 私にだけ苦しい思いをさせるくせに、自分たちは好き勝手に生きて笑って幸せになるって? そして私を過去の女にした挙句に、思い出しもせずに自分たちだけの幸せを謳歌しようって? ふざけるのも大概にしてっ!! 私の、私の人生はいったい……」
そして拳を握り、血を吐くように呻く。
「……いっそ、生まれない方が良かったわ、こんな人生、こんな結末……どいつもこいつも、クソよ。みんな死ねばいい、クソに塗れて息絶えろ、汚物共め……!!」
「……ひぇぇ~……完全に呪詛ってるじゃないのぉ……」
「こりゃあ重症だねぇ、解放させたあたしが言うのもなんだけど」
ヴェスティアが呪詛を吐き出す度に、黒い靄が溢れては人狼の姿を取る。
それに、老魔女が溜息を吐きながら煙管を杖のように振れば、その先から吸ってもいないのに黒い煙が溢れ出し、吹き荒れた。
煙は周囲全ての黒い靄を捕らえ、押さえつけ、一瞬で相手を覆い尽くして消し飛ばす。
そして煙は最後にヴェスティアへ纏わりつき、黒い靄を霧散させないように押しとどめている。
一瞬でそれをこなした魔女は、眉を顰めながら、静かな口調で言った。
「お嬢さん、そのままで良いから、よくお聞き。あんたはね、魔女の才能がある」
「…………魔女?」
ヴェスティアが顔を上げる。
先ほどまでの気弱な顔ではなく、どこか据わった眼をしている。
ギラつく金の瞳を見せる彼女へ、老婆は店内を指して巡らせる。
「ご覧、これがあんたのやった事さ。魔女はね、感情で魔法を使うことが出来る。だからあんたの感情がようやくダダ洩れて、この有様さね。まったく、掃除が面倒じゃないかい」
ようやくヴェスティアは気が付いたように、ゆるゆると顔を上げた。
店内のあらゆる装飾は倒れて落ちて、テーブルもソファもガタガタに壊されている。グラついた机の上の花瓶が、ヴェスティアの呆気に取られた様子に呼応するように、ガシャンと水を散らせて広がった。
その惨状を見せながら、老婆は言う。
「いいかね、あたしがあんたを探し出して保護したのも、あんたのその才能のせいさ。この国での金の瞳は、魔女の血を持つ証。古来、異界の魔物との契約によってのみ発現した、普通には存在しない瞳の色は、血によって現れることもある。あんたは生まれながらの、魔女という種族なのさ」
「…………魔女、私、が……」
「しかも強力な、ね。……まったく、もしあんたがどこかで爆発してたら、この惨状の比じゃないレベルの暴発になっていただろうさ。そうすれば、あんたは国を脅かす悪い魔女として処刑される。……ったく、昨夜スヴェアノーラがあんたを保護するように相談して来なかったら、どうなってたか、肝が冷えるねぇ」
老女はやれやれと首を振る。
次いで、傍に来ていたオレンジの髪の青年へ、肩を竦めた。
「悪いね、アマル。助かったけども、できれば店内全ての物にまで結界を張ってくれれば言うことなしだったんだがね」
「下手に抑え込めば大規模に爆発しかねなかった。これが一番、被害が少ない対処法だ」
綺麗な声で宣う青年は、床にへたり込むヴェスティアへ目線を向ける。
冷たい、赤い瞳だ。
「一つ言っておくが、もし『ノエス』へ何かしたら……俺は貴様を魂ごと食らいつくして消滅させるからな」
そうとだけ言い、アマルと呼ばれた青年は背を向けて、箒を持ち出して掃除を始めた。
そんな青年へ、ノエスと呼ばれた老女は眉を上げる。
「ま、気にしなさんな。あいつなりの挨拶みたいなものだから」
随分と物騒な挨拶だな、とヴェスティアは場違いな感じに思った。
「ともあれ……さて、魔女未満のお嬢さん。今まで誰もあんたに選択を与えなかったようだから、今ここであたしが与えよう」
ノエスがパイプを振れば、ヴェスティアの前に煙の影が形作られる。人形めいたそれは、散る事もなくその場で滞空していた。
「まず一つ。このまま国を出て、好きな場所で生きる。ただし、この場合はあいつらへの復讐は、あたしが許さない。他国人が王族を害するなんて粛清対象だからねぇ」
家の下、村娘が静かに佇んでいるシルエット。
「二つ目、は選択というよりは諦めるって事だが。自殺するって手もある」
涙を流す雲の下、首を括る少女のシルエット。
どこか物悲し気なそれに、ヴェスティアは思わず胸に手を当てる。
「そして三つ目……このままあたしの弟子となり、連中への復讐を果たす。当然、復讐方法はあたしが決める。殺すのはご法度だ」
魔女帽子を被った少女が、箒に跨って空を飛んでいる。
まるで絵本の中のようなそれに、ヴェスティアは思わず見つめた。
そんなヴェスティアを見つめながら、ノエスは朗々と告げる。
「ただし、三つ目は茨の道だ。普通とは違う人生。魔女という種族だと知れ渡れば、あんたは各国から狙われるかもしれない。未熟な魔女の卵なんて、早々に出くわす事はないからねぇ。国によっては非人道的な実験なんてのも行われる。だから元来魔女は、未熟な状態でこちらへ来る事はない。……そのリスクを、あんたは受け入れられ」
「受けます」
気づけば自然と声を出していたようだ。
思わず口元を押さえるヴェスティアは、ゆるゆると首を振ってから、恥じたように目を伏せる。
「……正直、生きるのが辛い。清く正しく生きるべきならば、一つ目の選択しかあり得ない……でもそれは、私が耐えられそうにない。あの人たちがのうのうと生きているのを想像するだけで……ハラワタが煮えくり返りそうなくらいに、憎い。これなら死んだ方がマシだと思うくらいに」
暗い情念が宿った金瞳は、しかし場違いにも美しく輝いている。
「でも、死ぬのは嫌。こうして選択を与えられて……自覚したの。私、本当は生きたいのね。自分の好きなように選択して、人生を歩んでみたい……それがどんなモノなのか、まだわからないけども。それでも、きっと死ぬよりはマシ」
故に、結果的に答えは一つしかない。
ヴェスティアは自嘲するように笑みを零し、眉尻を下げる。
「滑稽ですね、貴方へ貴族の義務とか、清く正しくなんて偉そうに言ったくせに、それを捨てるなんて……本当に、私には芯が無い。他人の言葉だけで着飾っていて、自分という物が、ない」
「これから作ればいいんさね、そんなもん。魔女の生は長いんだし、あんたはもっと若い。失った時間の分だけ長生きすれば、嫌でも出来るもんだよ」
「ふふ……あの、ノエス様、で宜しいのでしょうか?」
「公的な場でもないのに様付けはいらないよ。あたしゃ、うわべだけ着飾った言葉が大嫌いでね」
「ええと……」
ヴェスティアが困ったように小首を傾げれば、ガチャガチャと花瓶を拾う女装男が横合いから口を出す。
「気楽にすればいいのよぅ、気楽に。あ、アタシはこの店一番の売り子のメルルちゃんよぅ! シクヨロ~」
「し、しくよ、ろ?」
「メルル、異世界ジョークは受けないよ。あと死語だよ」
「……あの、そういえばこのお店って、いったい何なのですか? 酒場に見えますが、大衆酒場とはまた違った感じで……」
「ああ、今日はスナックバーだよ」
「え?」
まったく聞き覚えの無い言葉に首を傾げるヴェスティアへ、老女はニヤッと笑みを深めて、両手を広げた。
「男と女が乳繰り合う、魔女と元異世界人が経営する『日替わりバー・グランメルル』。あたしゃ、ここらの連中からは『セカンドストリートのグランマ』と呼ばれている。ま、弟子になるからにはここでビシバシ働いてもらうから、覚悟しとくんだね!」