第二話 魔女
ヴェスティアが目を覚ませば、そこは見知らぬ場所だった。
「あらん、目ぇ覚めたみたいねえ。ちょっとママー! 子猫ちゃんが起きたみたいよぉ!」
そして、視界に入り込んだそれに脳がバグった。
野太い声に、ゴツい体格、青髭を残す割れ顎の大男は、しかし露出過剰なミニスカドレスを纏っていた。あまりにもアンバランスで異様なそれに、ヴェスティアは一瞬で混乱の極地に陥った。
思わず悲鳴を上げて飛び起きれば、次いでその部屋が目に入って硬直する。
……そこは、薄暗いどこかの店内のようだった。大きな暖炉が赤々と燃え、天井の吊り照明が煌々と部屋を照らし出している。既に夜のようだ。
幾つかのソファとテーブルが置かれ、そこの一つに寝かせられていたらしい。隅には歌姫が歌うのだろうか、ステージのように一段高い空間もある。
そして、店の中央を占める位置にあるのは、酒類が並べられたカウンターだ。そこに佇んでグラスを拭いているのは、キラキラと煌くオレンジ色の髪に、赤い瞳の、美青年。
見知らぬ場所の、見知らぬ人間を前に、ヴェスティアは人見知りが発動して固まっていた。
と同時、自身のドレスが着替えさせられている事に気づいて、更なる混乱に陥る。首や腕を隠せる程に長い丈のそれは、痣だらけの腕を見られる心配は無いが、着替えた者は確実にそれを見ただろう。
羞恥心から毛布を掻き抱けば、青年がチラリとこちらを見て、すぐに興味を失ったようにグラスへと視線を戻す。まったく気にも留めない。
一体ここはどこで、彼は誰なのか、渦を巻く思考が茹だるほどに温まってきた時。
再び、先ほどの別の意味で暴力的な女装男が戻って来たのだ。
「あら、何してるのよ、そんな格好で」
「え、ええと……その、この服に着替えさせたのって……」
「あ、大丈夫よ。いくらアタシの心が女子でも、肉体的野郎に触られるのはイヤンでしょ? それに着替えさせたのはママよ」
「ま、ママ? それって、貴方のお母様、ですか?」
「いいえ? 実母じゃなくて、あだ名よ、あ・だ・な。ママは、このセカンドストリートのママよ。みんなそう呼んでるの」
手をヒラヒラとさせて楽しげに笑う。邪気のないそれに、思わず目を丸くしてしまった。
と、そこで奥から誰かが入ってきた。
白い髪を結い上げ、黒の瞳を眇めてやってきたのは、気難しげに顔を顰める老婆だった。
老婆はヴェスティアを目に入れて、片眉を上げてから皮肉げに口端を吊り上げた。
「おや、死にかけてた割にはピンピンしてるね。結構結構。若いねぇ」
「ママだったら倒れた拍子にポックリ死んでるわねぇ、きっと」
「お黙り、あたしはまだまだ現役だよ。……さて、お嬢さん。まずは……これとこれをっと」
老婆はカウンターの向こうでゴソゴソとやってから、棚の酒瓶の一つを手に取って、手元の何かに入れて混ぜている。
そして持ってきたのは、緑色に溢れたドロッとした液体。ボコボコっと泡を発するそれに、ヴェスティアは思わず顔を引き攣らせた。
だというのに、老女はお構いなしにそれをグイッと押し付けてくる。
「ほら、一気に飲みな」
「い、いえ、その……こ、これはいったい、何なんですか!?」
「ヤマゴウシの蜜とヒスシアの根っこを煎じて蒸留酒を混ぜた物」
中身を聞いてもさっぱりわからない。ヤマゴウシとは一体なんなのだ。
流石に見かねてか、女装男がぷりぷりと怒りながら肩を竦めた。
「ちょっとママ、性急すぎるわよぉ! ほら、状況が掴めずに困ってるじゃないの!」
「って、言ってもねぇ。あたしはだいたいわかってるから」
「そっちが良くてもこっちが悪いのよ。……ええとね、子猫ちゃん。貴女、道で倒れてたらしいけど覚えてる?」
「え……ええ、まあ」
ふと改めて問われて、心に影が差す。
あの悪漢どもはきっと、父の手の者だろう。屋敷内での余計なことを喋らないように、こちらを殺そうとしたに違いない。
あのまま死ねたらきっと、この暗い思いにも合わずにすんだのに。
暗い顔のヴェスティアを察したのか、女装男はカラカラと笑いながら続けた。
「ママがね、気絶した貴女を持ってきてさぁ、死なないように介抱してたのよ。貴女、泥だらけですっごい体が冷え切ってたし。ダメよぅ、乙女が体を冷やしたら。アタシみたいに丈夫じゃないんだから」
つまりは、恩人のようだった。
薄々と察してはいたが、あまり助けられた経験が少ないヴェスティアは、どうすべきかわからずにモゴモゴと唸った。
「え、ええと、あの……その、あ、ありが……」
「ああ、礼ならいらないよ。あたしもあんたを利用したいだけだから」
「え」
あっけらかんと言い放ち、老婆はニヤリと笑みを広げて言った。
「あたしは、わるーい魔女だからねぇ」
魔女。
その言葉に、ヴェスティアは驚くべきか警戒すべきか迷い、結果として何も言わずに布団を口元まで引っ張り上げた。
――魔女
それは、この世界に存在する数少ない異世界との交流者であり、超常の力を思うがままに振るえる、超越した存在のことだ。かつて文明が崩壊する以前、人類は異世界と交流する術を持っていたそうなのだが、星が落ちてからというもの、そのような技術は伝説の彼方に消えている。
そして魔女は、未だに残り続ける、その伝説の一端だ。
箒に乗り、杖の一振りで不思議を起こし、言葉を聞かせるだけで呪いをかける。気まぐれに世を乱しては、無邪気に人を破滅させる邪悪な存在。
それが魔女への一般認識。
だが、何事にも例外があるように、個人的に国へと仕えて助言や問題解決を行う、国専属の顧問魔女と呼ばれる存在もいる。非常に利己的で気ままな、女しか存在しない魔女という種族の中では、下等な人間へ力を貸すなど、まず無いことなのだが。
そこまで思い出してから、では、目の前の御仁はいったい誰なのか、ヴェスティアは考える。
この国、ゼータシアに仕える顧問魔女は、建国時から王家と密接な関係を築いているとされている『黄昏の魔女ラライア』ただ一人である。王以外の前に姿を見せることは稀で、国の難事にようやく姿を現し、その力を振るうという。十年前の戦争時に、姿を見せたのが最後のはずだ。
故に、ヴェスティアは首を振った。
「あ、あの、貴女様はいったい、どうして私のような者を助けたのでしょうか。見たところ、在野の魔女様と見受けますが」
「公式の場でもないのに、そんな敬語なんか止めちまいな。アタシはね、そういう上部だけ繕った無意味なモンが大嫌いなんさね」
「え、えぇ……」
「で、あんたはどうして、あたしが在野の魔女だと思ったんだい?」
「だって……この国の顧問魔女様は、一目で人を虜にするほどの美しさを持つ、黒髪金眼の魔女様だとお聞きしておりますから……」
そう、顧問魔女である魔女ラライアは、毒婦の如き美貌を持つ、竜を従えた強大な魔女なのだ。間違っても目の前の、普通の容貌をした枯れ木の如き老婆では無いはずだ。
そう告げるヴェスティアへ、老婆はニヤッと笑う。
「噂じゃ頭が足りないと、さんざっぱらな言われようだったが、最低限の判断力はあるようだねぇ」
「…………それは、どこで」
「もちろん、あんたの学園の噂。ああ、お貴族様の婦人会ではもっと酷い言われようだったよ。あんな卑屈で下賎な輩などが国母にふさわしいはずが無い、時代錯誤のしきたりでのし上がった癖に調子に乗ってる売女の娘、文字通りの能無し、……なんてね」
どれもこれも、聞き覚えのある内容だ。ほぼほぼ、ヴェスティアを貶めているのが共通点だが。
黙するヴェスティアへ、老婆は椅子に座りながら、テーブルに置いた緑の液体を指さす。
「で、あんたに渡したそれは、滋養強壮薬だよ。あんた、栄養状態がまったくよろしくない。いったい何食べてりゃそんなガリッガリになっちまうんだか」
「ええと……その、小食で」
正確には、幼少期のひもじい食生活の影響で、多くの肉やら魚やらを食べることに抵抗がある、というのが本音だ。
あと、屋敷では出された食事を少しでも多く取ると舌打ちをされる。手つかずの残りは、掃除夫や洗濯女などの日雇い人たちが密かに食べているのを見たことがあった。貴族出身の多い正規の使用人には、知る由もない事だろうが。
そんなヴェスティアへ、女装男がクネクネしながら言う。
「あぁらダメよ! 肉付きの良さは美の基本、貴女はもっと食べて国一番の美人さんにならないとね。貴女、素地が良いし造形も綺麗、それにこの黒い髪! まるで魔女ラライアみたいな美しい髪じゃないのぉ! あぁん、アタシもこれくらい綺麗な髪だったら良かったのにぃ!」
「え、ええと、その、ありがとうございます? あ、貴方の御髪も綺麗ですよ」
「んもぅ! お世辞でもうれしいわぁ。ありがと!」
長い金髪を結いあげている女装男は、やはりクネりながら喜んだ。格好はアレだが、今までヴェスティアが出会った連中よりかは、かなりマシな人柄である。
ともあれ、介抱して更に心配までしてくれる相手へ、ヴェスティアの心はかなり安心したようだ。
目の前の御仁が信用する老婆の薬、ならば、と覚悟を決めて、その得体の知れない緑の液体を、一息でグイっと飲み干したのだ。
お~、と女装男が見守る中、ヴェスティアは得も言えぬもったりとして苦味と甘さと喉奥でツンとくるそれに目を見開く。
「あ、おいしい!」
薬臭いそれは、幼少期に庭で食べた草の味に似ていた。腹が減り過ぎたあまり、通いの使用人に内緒で草を湯がいて食べた、あの頃の味わいであった。あと、花に毒性があったので数日間は腹を下して生死をさまよった、あの彼岸の味にも似ていた。
それを美味しいと言い切るヴェスティアへ、女装男は結構ドン引きしていた。
「ママの薬をおいしいと言い切る人間を、始めて見たわぁ……」
「飲んだのなら結構。それで、あんたに話があるんだがね」
老女は懐から取り出した、長い煙管に指先一つで火を点けて、それを吐き出す。白い煙の尾が引くように天井へと上がっていくのを尻目に、老女は言った。
「あんた、あいつらを破滅させてやりたくはないかね」
「……え」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
だが、胸中で呟く。魔女は人知を超える存在、時空を捻じ曲げて過去を覗くことなど難しいことではない、と。ならばこちらの事情も、あちらの胸の内に知られていると思うべきだ。
そして魔女の問いに、胸の内のお人形が囁く。
復讐など何も産まず、不毛だ。そんなものを肯定するのは、非常識な人間だけだ、と。
一つ息を吐き、ヴェスティアは無感情に顔を上げて言う。
「いいえ、私は彼らへの断罪など、望んではいません」
「……へぇ、アレだけのことをされてかい? 言っちゃなんだが、あんたの周囲の貴族は腐っちまってる。特権の上に胡坐を掻くことに慣れ過ぎて、人道を忘れちまったのさ。そんな連中、とっとと潰しちまった方が楽だろうに」
「それでも、そんな事はしてはならない事です。貴族として、上に立つ者として、他者を貶めるような行動など取るべきでは……」
「この国の王子は、あんたを貶めたのに?」
その一言に、グサリと胸を抉られた気分になる。
「貴族ってんなら、その親玉は王族だ。その王族が罪も無い他人を陥れて蹴落とす、そんなことが許されるっていうのかい? そもそも、あんたにそれを教えた連中は、本当に貴族足りうる清く正しい行動をしていたのかね?」
「それ、は……か、家庭教師の皆さまは、私に良くして……」
「『この程度も出来ないだなんて、お嬢様はなんて無能なのでしょう。同じ年頃の子供たちはみーんなこの程度の事はお出来になっていたのに!』」
「っ!!」
「『ああ、お嬢様、貴女が悪いのではありません。誰だって生まれついての性質がありますから。ええ、貴方のお母さまがどれほど頭が悪かろうと、それは貴方の非ではございませんとも! 全て、貴方のどうしようもない、お母様の問題ですから。母親がアレだと、娘の頭のネジが外れても致し方ない事、ネジの締め方など頭のお医者にしか出来ない事ですから。もっとも、貴女のそれは重症ですけど! おほほほほっ!』」
老女の口から吐き出される、それ。
聞くに堪えない罵倒の嵐は、ヴェスティアの胸をいつものように軋ませる。
それを眺め、老女は煙を吐き出している。
「毎回毎回、よくまぁあんな性悪ブス共の相手をしていられたねぇ。あたしだったら初回の時点で丸々太った豚に変えて丸焼きにしてやったのに」
「…………」
「さて、改めて聞くけども。こんな性悪の言葉を真に受ける気かい? 上に立つ者の義務? 人道? 倫理? そんなもん、あんたを貶めた連中の口に中に放り込んじまいな」
「……で、でも!」
それでも尚、ヴェスティアは首を振る。
冷や汗をにじませたそれは、何かを堪えるかのように硬直している。
「す、全て、私が悪いんです。私が至らないばかりに、皆様をイライラさせてしまったから……しょうがない事なのです。私が悪いんですから」
「だから、罵倒されるのは当然だって? じゃあ聞くけども、あいつら……あんたの王子さまは、あんたを憂さ晴らしの玩具にして、留飲を下げてたんだよ。王宮であんたが待たされてる間、部下にあんたを見張らせてその様子を報告させて、憔悴する姿を知って笑ってたのさ。それでも尚、あんたが悪いってのかい?」
「……そ、う、です……」
「あんたが学園で苛められてるのを知っていて、見て見ぬふりをしていた。それどころか、率先してあんたの私物を捨ててたんだよ。あんたを苦しめる為だけにね」
「…………」
薄々は気づいていた。ヴェスティアの私物や教科書は隠されてしまうので、以前に一度、全て別の場所に隠したことがあった。しかし、それらも全て壊されたこともあって、或いは、という可能性を考えたことがあった。
その隠し場所は以前、たまたま出会ったアルストールに見つかっていたから。
だから、アルストール以外の人間が、知る筈もないのだ。
それら諸々の事を理解したうえで、それでもなお、ヴェスティアは動悸と息切れを繰り返す中で、叫ぶ。
「それでも! それは、私が悪いんです! 私が殿下の気に障るようなことをしたから……あの人を怒らせてしまったから! わ、私の、私自身の問題なんです! だからこれ以上……部外者の貴方が勝手なことを言わないでくださいっ!」