贈れなかった言葉
「綺麗なネイルですね」
4月の朝、会社のエレベーターで5階のオフィスに向かっていると後ろから突然声をかけられた。振り向くとリクルートスーツを着て髪を後ろで束ねた子が笑顔で立っていた。それが彼女との出会いだった。
かわいい女の子。
素直にそう思った。親から大切に育てられ真っ直ぐに育ったかわいい女の子。私とは違う眩しい子だと思った。
「ありがとう」
私も笑顔でお礼を言った。きっと新入社員なんだろう。ということは私の5つ年下か。上場企業じゃないけれど社員数がそこそこ多いうちの会社。きっと一緒に働くことはないだろうなと思った。
会社の人事通知に今年の新入社員の自己紹介が掲載されていた。いつもなら見ないけれど今回はちょっとだけ気になり見てみた。
「藤原かすみ」
一目でわかった。新入社員の写真の中で目立っていた。一番かわいい訳ではない。派手な雰囲気な訳でもない。でも、何故か彼女の写真は私の目を引いた。
国立大学卒業。イギリスへの留学経験あり。ハイスペックな女の子。顔もかわいい。なんだか羨ましいなと思った。
まあでも私には関係ないか。そう思い私は業務をはじめた。
「今日から経理部に配属となりました、藤原かすみです。よろしくお願いします」
5月のある日、彼女は私のいる部署に配属された。1ヶ月間の研修を終えて配属が決まったらしい。まさかうちの部署にやってくるとは思わなかった。
「菊池、お前今日から藤原の教育担当な」
突然部長に指名されて私はすぐに反応できなかった。
「……え?」
やっぱりかわいい女の子だなあ、なんて思いながらぼんやり見ていたら油断した。
「はい、じゃあみんな藤原さんのことこれから頼むぞ。じゃあ今日もがんばろー」
スキンヘッドの部長は私が拒否する時間を与えることなくそう言うとすぐに部屋を出て行った。
「あのハゲ丸投げかよ……」
思わず心の声が漏れ出た。今度の飲み会で酔ったふりしておでこに油性ペンで落書きしてやろうか。なんてくだらないことを考えているとすぐそばで気配を感じた。
「今日からよろしくお願いします!」
かわいい笑顔で頭を下げられた。
「こちらこそよろしく」
藤原かすみの笑顔は春の太陽のように優しく眩しかった。
「あの私、実は初出社の日に先輩にお会いしてて、その時すごくお洒落な先輩だなって思ったんです」
藤原かすみは更に眩しさを強めながらこちらが恥ずかしくなることをハキハキ言った。
「それはどーも。褒めてくれたの覚えてるわ」
あまりにも照れ臭くて素直に喜べなかった。冷めたリアクションになってしまった。冷たい人だと思われたらどうしよう。少し不安になった。でも、
「覚えてくださってたんですか! 嬉しいです!」
彼女はそう言いながら、とっても嬉しそうな顔をした。嬉しそうに笑う彼女を見て、私の中で何かが動くのを感じた。
「菊池先輩、なんでそんなに仕事早いんですか?」
藤原かすみの教育担当になって半年が経った。彼女は仕事の覚えが早く、すぐに一人でも仕事が回せるようになっていた。
「藤原も十分早いでしょ」
私がそう言って自分の担当分の経費処理を終えて次の仕事に取り掛かろうとすると彼女は口を尖らせた。
「いやいや、先輩に言われても嬉しくないですよ。ちょっとだけ手伝ってもらえません?」
「嫌よ、ほらさっさと自分でやんな」
私はそう言って右手をひらひらして雑にあしらった。
「はーい」
彼女は不服そうに自分の仕事を再開した。
教育担当を半年してわかったことがある。それは彼女は本当にかわいいということだ。外見だけでなく中身も子どもっぽくて純粋なんだ。
彼女は性別、年齢に関係なく社内の多くの人に好かれていた。社内のアイドル、とまではいかないけれど人気者になった。そんな彼女が私に懐いてくれたので実は誇らしいなと思っていた。本人には絶対に言えないし、誰にも言わないけれど。
彼女が私に話しかけてくるたびに私はつんとしてしまう。つんとしているにも関わらず彼女は毎日私に絡んでくる。そんな関係が心地よかった。
「あのハゲ絶対に仕事してませんよ!」
ワイングラス片手にぷりぷり怒っている。怒っているのはもちろん藤原かすみ。私はそれをまあまあと宥める。仕事帰りに寄ったワインバーで私は彼女の愚痴を聞いていた。
彼女の教育担当になってからお昼ご飯を一緒に食べるようになった。そしてそれから仕事帰りによく飲みに行くようになるのにはあまり時間がかからなかった。
「面倒なことぜーんぶ部下に丸投げして自分は何もしてないじゃないですか!」
会社では絶対に人のことを悪く言わないのにお酒が入るとたちまちスイッチが入る彼女。頬を膨らませながらぶーぶー文句を言う姿は何度見ても飽きない。
「まあ、そう言わないの。ハゲも私たちが知らないところで頑張ってるかもしれないでしょう?」
そう嗜めるが彼女の怒りは収まらない。
「あのハゲ頭、絶対にいつか紙やすりで磨きまくって真っ赤に染めてやる」
「ちょっと、やめてあげてそんな痛そうなのは。それにそんなの見るのも嫌よ」
たまに過激になる彼女。私はそんな彼女も嫌いじゃなかった。表現が独特と言うか怖い時もあるけれどそんなところもかわいく思う。でも、思うだけ。伝えるつもりはない。だって恥ずかしいから。
一緒に仕事をして、お昼を食べて、飲んで帰って、たまに翌日二人とも二日酔いで仕事をして、ごくたまに飲み過ぎて記憶を無くして、ごくごくたまに終電を逃して朝帰り。そんな日々をだらだらと過ごした。
こんな日常がずっと続くと思ってた。ずっと続けばいいとも思ってた。でもそんな生活は1年で終わった。私が昇進とともに異動になったから。
「こないだもまたあのハゲ余計な仕事を増やしたんですよ。本当に信じられない」
私が人事部に異動してからも藤原かすみとの関係は続いた。でも部署が違うのでお昼はばらばらだし飲みに行く回数も減った。もちろん二日酔いで仕事をする日も。
「まあまあそんなカリカリしないでさ、ビール飲んで忘れちゃいなよ」
相変わらず愚痴を言う時に頬を膨らませてぶーぶー言う彼女はかわいらしい。つい頭を撫でてやりたくなるが我慢する。
私が異動してから2年が経つが今も月に1,2回のペースで飲みに行く。
「そうだ! 先輩にお知らせがあります」
突然にひひひと彼女は笑い出した。
「何かいいことあった?」
「それがですねー、先輩ってまだ部下いませんよね?」
確かに彼女が言う通り私にはまだ部下がいない。人員と業務の調整がつかないので待ってくれと部長に言われていた。
「それがどうしたの?」
私が聞くと彼女はますますにやにやしはじめた。
「実は先輩の部下が決まったんです!」
「あら、そうなの? え、ちょっとなんで知ってるのよ」
私の頭の中で疑問符が踊り回る。
「なぜなら、今日私が内示で人事部に行くことになったと言われたからです! しかも、新しい上司は菊池先輩だってハゲが言ったんです!」
「あら、そうなの?」
私はびっくりして頭の処理が追いつかず、あっさりしたリアクションになってしまった。心の中で『ハゲ、たまにはやるじゃない』と思った。でもよく考えたらハゲは上の人たちの言いなりだからたぶん関係ないだろうなと考え直した。前言撤回だ。
「あの、もうちょっと喜んだり泣いたりとかってないんですか? こんなに後輩が嬉しそうに発表してるのに」
口を尖らせる彼女。
「喜ぶはまだわかるけど泣くは考えられないわね」
私がそう言うと彼女は更に口を尖らせぶつぶつなにか呟き出した。
「ごめんごめん、そんなに口を尖らせたらブスになるわよ。ほら、ビール奢るから許してよ」
私がそう言うと彼女は嬉しそうに目を輝かせて居酒屋の店員さんに声をかけた。
「先輩、私には男心がわかりません」
藤原かすみが私の部下になってから1年が経った。以前のようにお昼を一緒に食べて仕事帰りに飲みに行くようになった。二日酔いで仕事をする日ももちろん再び増えていた。
変わったことがあるとするならば彼女の愚痴の内容からハゲの存在が消え去りカレシの内容ばかりになっていた。
「そんなの女の私も分かるわけがないでしょう」
私がそう言うと彼女はしょんぼりしながらビールを飲み干した。
私が異動してから彼女が私の部下になるまでの2年の間に彼女はカレシとのお付き合いを始めていた。カレシの存在は知っていた。彼女が「お付き合いはじめました!」と飲みに行った時に言っていたから。
カレシはいい男なのだが頼り甲斐がないそうだ。一度だけ見せてもらった写真はかっこよかった……と思う。ちゃんとは見なかったからよく覚えていないけれど。
今までカレシの話は滅多に出てこなかった。なのに、彼女が異動してきてからはもっとカレシにあーしてほしい、こーしてほしいと話す彼女を私は宥めることが増えた。今までハゲのストレスでカレシに対するストレスは目立っていなかったのかもしれない。
今でも彼女との時間は楽しい。でも、なにも感じないと言ったら嘘だ。話の中身からハゲが消えてカレシになった。ただそれだけなのに、それがじくじくと胸に棘を刺す。
激痛ではない。ちょっと紙で指を切ったぐらいの痛み。我慢できないわけではないけれど地味に痛い。
私はその痛みを見て見ぬふりをしながら彼女と上司部下の関係を続けた。
「私、結婚することになりました」
藤原かすみが私の部下になって3年の月日が流れた。彼女以外にも部下が増え、私は仕事が忙しくなっていた。
仕事が落ち着き久しぶりに彼女と飲みに行った居酒屋で、私は彼女の発表を聞いた。その瞬間、頭の中で交通事故が起きたような感覚に襲われた。
「そうなんだ。おめでとう」
私は冷静なふりをしてお祝いの言葉を言った。
「ありがとうございます!」
嬉しそうに、でもどこか恥ずかしそうな彼女。結婚相手は別れることなく付き合い続けたカレシだった。
「それで、あの、先輩にゲストスピーチをお願いしたいんですけどお願いできませんか?」
いつも堂々としている彼女がおずおずと聞いてきた。そのことも驚いたけれど、スピーチを依頼されたことにより再び私の頭の中で大きな衝撃が走った。
「ええ、もちろん」
私はすぐに返事をした。もちろん笑顔で。でも、その後彼女と何を話したのかは全く覚えていない。
結婚の話をされた翌日。私は再び異動の内示を受けた。そして異動先の部署で膨大な仕事を任され藤原かすみとお昼に行くことも飲みに行くこともできなくなった。
そうこうしているうちにまた時間は過ぎていき、ポストに結婚式の招待状が届いた。もちろん送り主は彼女とカレシ。
他人の結婚式なんてこれまで何度も出席してきた。そして結婚式に呼ばれるたびに、私には関係のないイベントだと思っていた。単にお金と時間がかかる面倒くさいイベント。
でも今回は違った。招待状を見た時から感情が乱れた。乱れに乱れもうどうしようもなくなり私はその晩ベッドで泣いた。涙が枯れるまで泣いた。
当たり前だけれど泣いても現実は変わらなかった。でも、少しだけ気分は晴れた。
招待状を受け取ってからも仕事が忙しく、私は一度も藤原かすみとまともに会えないまま結婚式当日を迎えた。いや、会おうと努力すれば会えたのかもしれない。そこは自分でもよくわからない。
何の滞りもなく式は進んだ。天候に恵まれ、青空の下、真っ白のウエディングドレスを着た彼女の笑顔は本当に美しかった。もう息を呑むぐらいに。記念写真を撮る時、私は自分の視界がぼやけるのを感じた。
そして改めて思った。私は彼女のことを……
披露宴も粛々と進行した。
同じテーブルにいた会社の人たちとお話ししながら食事をとりつつ私は自分の出番を待った。
スピーチで話す内容は昨日の夜に考えた。何度も何度も考え直し、まとまった時には深夜だった。何をやっているんだろうと思わず自分自身呆れて笑ってしまった。
司会の人が進行を再開し、式場のスタッフの人が私を呼びに来た。私は席を立つとスタッフの人とともにマイクスタンドの位置へ向かった。
今日、この日のために買ったネイビーのドレス。彼女はどう思うだろう。おしゃれだと褒めてくれるかしら? そんなことを考えながらマイクの前に立ちお辞儀をした。
「本日は、誠におめでとうございます」
とびっきりの笑顔で言った。本当に心を込めて言った。新婦を見ると嬉しそうに笑ってくれた。私はその笑顔を見て心が満たされるのがわかった。
スピーチは噛むことなくスムーズに話すことができた。昨日散々悩んだけれど、結局当たり障りのないありきたりな内容にした。何度も何度も考えたからか全て暗記することができていた。
「……本日はお日柄もよく、新郎新婦、ならびにご両家の皆様に心よりお祝いを申し上げます」
スピーチを終え、私はマイクの電源をオフにした。
私は藤原かすみを愛している
結局一度も言うことのできなかった言葉。それを私は胸の奥底にしまいながら、私は会場に向かってお辞儀をした。