三十八話
鼓膜を揺らす遠吠え。
瞳に映り込む陽炎——無数の〝炎狼〟。これが幻影であると言われても信じて疑わないような幻想風景がそこには広がっていた。
「流石は……元将軍さん」
もし、当初より慢心を捨てて相対していたならば、私も危なかったかもしれない。
何より、目の前の男——ガヴァリスの年齢の目算は恐らく、40過ぎ。
全盛はとうの昔に過ぎている筈だ。
私と全く同じ条件で剣を合わせていたならば、きっと結果は違った事だろうに。
そんな言っても仕方のないような同情の念を向けながら私は、柄を握る手に力を込めた。
「だけど、もうやられてあげるわけにはいかないんだよねこれが」
自嘲気味に笑いながら、私は言う。
「何より、同じ人間に自分の死に目を二度も味わわせるとか、私もそこまで鬼畜じゃないし」
聞き間違いだったかどうかはまだ分からないけど、もし仮に私の事をアメリアと認識している場合。そんな事をしてしまえばきっと私は呪い殺されでもするだろう。
だって、私がヴァルターの立場だったなら、私は迷わず呪うだろうし。
「だから、さ、早いところ————もう、終わりにさせて貰うね」
マナを纏っているが為に青白く輝く無銘の剣。
その光に視線を向け、僅かに目を細めながら、私は感情を削ぎ落とした声音で告げる。
「斬り裂けろ」
技だとか、そんな大層なものはない。
ただ、己が望んだ現象を実現させる為だけに、言葉を口にした。
「……は、ぁ……っ?」
横一文字に、一閃。
言葉に続かんと、真横に振るったひと振りは目の前で否応無しに存在感を強く主張していた〝炎狼〟を。目の前に映る光景をただ一つの例外なく、断ち斬った。
聞こえる素っ頓狂な声。
それは、ガヴァリスのものであった。
今、まさに私に対して猛威を振るおうとしていたであろう〝炎狼〟の大半がたったひと振りにより、上下に分断。直後、掻き消えてしまう。
そして、何より
「く、そが、っ……」
泣き別れるガヴァリスの上半身と、下半身。
口端から血を溢しながら険しい顔を此方へ向ける彼の表情が瞳に映っていた。
「良い師に恵まれていたなら、また結果は違っただろうにね」
————己にとって最大の敵は、己である。また、己にとって最大の味方も、同様に己なのだ。
それは、父の言葉。アメリア・メセルディアの父であった男の言葉。
『場数と経験が、己にとっての自信を構築する。しかし、それ故に慢心が生まれる。それ故に致命的な隙が生じる。だからこそ、己にとって最大の敵は、己であり、最大の味方もまた、己なのだ』
謙虚たれ。どこまでも。
それが、耳にタコが出来るほど聞かされてきた父からの教えであった。
とはいえ、私の場合はただ単に自信を持つ機会に全くと言っていい程恵まれなかっただけなのだが、運も実力のうちなどという言葉もある。
「さよなら——〝鬼火のガヴァリス〟さん」
斬り裂いた眼前、ではなく、背後から迫っていた〝炎狼〟の姿が大きく揺らぐ。
そしてそれは儚く薄れ、消えてゆく。
まるで、死にかけの己の主人——ガヴァリスの死期と同調でもするかのように。
「んー……」
私は小さく唸りながら、身体に纏わせていたマナを解除。そして左の掌をぐー、ぱー。と閉じて、開いてという動作を二度、三度と繰り返す。
「割とギリギリ、だったかも」
じん、と微かに痺れが残る手を見遣った。
マナを使用していたからこそ、その感覚はなかったが、先の数度のやり取りだけで私の細腕は限界近かったのだろう。胸中で危ない、危ないと言葉をこぼしながら私は苦笑い。
「偶々相性が良かったからいいものの……」
基本的に、保有する魔力を自身の戦闘スタイルの主軸として考えてる人達に対してであれば、私は優位に立つことが出来る。
反対に、魔力の助けを必要とするどころか、剣一本でマナを扱う連中と同等の位置までのし上がった頭のおかしいヤツらと私は相性が最悪だった。ちなみに、アメリア・メセルディアの父だった人間がそこにピッタリと合致する。おかげで勝てた試しなど一度として記憶にない。
そして、今の状態でそんなヤツらと相対出来るかな、なんて馬鹿な考えを脳裏に浮かべ——無理、と即座に答えを出す。
「やっぱ17年もアレはさぼり過ぎたかなあ」
あはは……、と空笑い。
アレとは言わずもがな、メセルディアに籍を置いていた頃のような地獄の特訓——ではなく、のほほんと過ごしていた日々の事である。
とはいえ、そのおかげでフィールのような友達を持てたので私としては悪くなかった。
そう、締め括る。
「これからも護衛を続けるのなら……鍛え直さなきゃ色々と厳しいねー……」
ま、死ぬよりはマシでしょ。
と、私は自分を納得させる事にした。
そんな、直後であった。
熱気を伴った風が私の髪を撫でる。
「このままやられたフリをしてくれさえすれば、見逃してあげても良かったのに」
馬鹿だねえと侮蔑の意を込めて呆れ混じりに言葉を発する。そして、ため息を一度。
次いで再度、腕と脚に向けてマナを巡らせた。
「いい、や……、せめて、テメェを道連れにでもしねぇとオレの気が済まねえッッ!!!」
声が聞こえた方へ振り返りざま、膝上と膝下でぱっくりと身体が泣き別れし、今にも死にそうな程、顔面を蒼白にしたガヴァリスが私の視界に映り込む。
足もないのにどうやって移動してるんだと疑問に思うも、よくよく見れば炎で出来た足がガヴァリスに生えているではないか。
……そんな事も出来るのッ!?
その諦めの悪さは最早、脱帽ものである。
だけれど。
「……まぁ、別に好きにしたらいいとは思うけど、立ち向かうだけが戦いじゃないよ」
これは流石に、舐めすぎだ。
態勢を立て直し、機を窺う。
本気で倒したいと願うならば、一度限りの不意打ちでは無く一旦、引き下がるべきであったのだ。
ただ、再度こうして剣を向けられたからには斬り捨てる他ないだろう。
そうでもしなければ、間違いなく収拾がつかないだろうから。
「それじゃあね。今度こそ——」
————終わりだよ。
そう告げようとしていた私であったが、そこに割り込む苦悶の声。
「ッ、ぐぁっ……!?」
痛苦に塗れた声と共に、私の下へ迫っていたガヴァリスの身体が突如として反れた。
「……私、助けなんて求めてないんですけど」
「遅過ぎる。グダグダやってないでさっさと終わらせろ」
その理由は、銀の髪を靡かせる男——ヴァルターの仕業であった。
背後からの、一撃。
ガヴァリスの身体からこぼれ落ちる赤い液体。
目にも留まらぬ速さで肉薄し、神速とも言える袈裟懸け————一閃。
その様を初めて目にし、誇張抜きでヴァルターってもしかして本当に強い……?
なんて感想を思わず抱いてしまう。
意識してなかった事が一番の理由だろうけど、速過ぎて殆ど残像しか目に入らなかった。
「あの、私、数日前までただの貴族令嬢だったんですけど……」
「知らん」
そんな私が将軍位にいた人間をここまで追い詰めてただけでも凄すぎない?
と、言外に訴えかけてみるも、無情に一蹴。
しかし、である。
ガヴァリスと戦いながら、ちらりとヴァルターの方を横目に確認した際、副官であるフェリドと彼らは彼らで剣を合わせていた筈である。
もしや、ほったらかしてこっちに来たんじゃないだろうなと思いながら確認。
視線の先には地面に倒れ伏し、既にくたばっているフェリドの姿があった。
……うそん。
誤字報告いつもありがとうございます!