前書き・幼少期〜小学生期
この自叙伝は、エリートになろうとしてもなれない、陽キャになろうとしてもなれない、スポーツをしようにも才能がない、モテモテになろうとしてもなりきれない挫折ばかりのごく普通の20歳大学生、おれが書く中途半端なストーリーである。
特にだれかに見せたいだとか後世に残したいだとかそのような大層なものではない。
20にしてまだなんの起伏もない人生だが、それなりに苦しく、また楽しく生きさせてもらってきた。
幼少期などは頭に残っている記憶はあまり多くはないが、印象的だったシーンをかいつまんで話していきたいと思う。
この自叙伝は、大きく幼少期、小学生期、中学生期、高校生期、大学生期の節に分けている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〜幼少期〜
1999年6月某日、京都のある病院にて生まれる。
難産で、帝王切開により出産した。
第一子からそのような苦難を乗り越えてくれた母にはとても感謝している。
性格としては穏やかであり、しっかりしていたとよく聞く。また非常に甘えたがりでもあった。
アレルギーを多く持ち、アトピー持ち、喘息持ちなどなかなか弱い体で生まれた。
生まれてすぐ、のちに某有名国立大学の教授となる父の仕事の都合でアメリカに渡り、2年ほどそこで過ごしていた。
父はともかく母は言語もままならない中で、子育ても大変だったと思う。
そして父の日本での職が決まり、2歳にしてようやく日本での生活がスタートすることになる。
実家は京都ではなく、父方の両親が住む大阪に住むこととなった。
3歳になり、幼稚園に入学する。
おれは幼少期から変態だった。
今の時点でとても記憶に残る出来事といえば、好きな女の子のスカートに潜り込んだこと、先生のおっぱいをツンツンしたことである。
幼い頃からすでに性的な目覚めがあったのかもしれない。
なぜこの記憶のみが現在まで残っているのかも不明である。
基本的にやんちゃなタイプではなかった。
それに加えて甘やかされて育ったため、のちの小学生期ではなかなかのおデブちゃんになってしまうこととなる。
教育の一環としてこの頃からバイオリン教室に通わされる。喘息の治療のためスイミングも始めるが毎日行くのが憂鬱でしかたなかった。
武勇伝があるとすれば、参観日に地球が自転していることについて発表した際に驚かれたことぐらいだ。(自慢)
〜小学生期〜
小学校に入学し、一年生になったある日、幼稚園の頃から仲が良かった女の子に太ったから嫌いという理由でなぜか振られる。
ここで自らが太ったことを初めて自覚する。
しかし痩せる方法もわからずそのまま太り続ける。(小6でのあだ名は白ブタ。)
小学3年生になったとき、人生で1番の転機が訪れた。
階段の3段ぐらいからつまづいて転げ落ち、左大腿骨を骨折する。
2ヶ月間寝たきりの入院生活だったのだが、ここで自分がいかに甘やかされて生きてきたのかを身をもって実感することとなる。
入院初日、病院に行くとたまたま、全く同じ箇所を骨折した年下の男の子が全く同じタイミングで入院してきた。
当然男の子とおれの治療方法は同じで、膝上に骨と垂直に鉄の棒を貫通させて引っ張りながら吊り上げて治す、という方法なのだが、麻酔がかかっていてもちょっと痛い。
じんわりと脚に穴が開く感覚がある。見るなと言われて思わず目を閉じる。
骨に到達し始めたとき、痛みで思わず叫びをあげてしまう。
まるでだだをこねるかのような叫び。
「いだい〜いだい〜ママ〜〜」
まさにこんな感じ。
絵に描いたような甘えんぼ。
治療は無事終わったが、おれは号泣していた。
治療してくださった先生には感謝もせず。
一方、同時期に入ってきた男の子は涙ひとつ流さず、治療後には先生に感謝もちゃんとしたという。
このように同じ怪我であるが故、この後も比較されてしまうこととなる。
その後も不安からかなにかあればまるでナースコールのように「ママ〜〜!」と院内に響き渡るほど大声で呼び、時々号泣しては母を困らせていた。
もちろん一方の男の子はそんなことはせず静かに過ごしている。
これを見かねた院長は、母に、
「あなたのお子さんは教育が全くなっていない。」
とはっきり言ったそう。
それを母がおれに伝えたときは、正直ショックだった。
自分自身では気付けなかったのだ。
猛反省した。
この時、はじめて人間として少し成長した気がする。
2ヶ月後、晴れて退院することとなった。
しかしここで再び事件が発生する。
骨折した箇所に再び痛みが現れる。
その痛みは引くことなく徐々に強くなる。
足の長さのバランスもおかしくなりはじめた。
おれと母は前の病院に内緒で他の病院で足の様子を診てもらうことにした。
すると案の定「繊維整骨異形成症」という、骨がもろくなる、という良性の腫瘍が左大腿骨にできていたことが発覚した。
それを前の病院に告げて、おれは国立の病院で手術、入院することとなった。
手術は割と長時間にわたるものであり、痛みも伴うものであると説明された。
それは、脊髄に直接麻酔薬をチューブで流し込む、というものだからである。
神経に直接触れるわけだから、たとえ麻酔が効いていても痛いものは痛い。
それを聞いていたおれは、同時に前の病院での男の子のこと、院長に言われたこと、治療の時のことを思い出していた。
手術当日、たしかにクソほど痛かった。
でもよく考えたら叫ぶほどでもない。
そう思った。
チューブが背中にねじ込まれる。
感覚がないながらにかすかに感じるものがある。
そして麻酔が流れてゆく。。
麻酔によって、おれは徐々に眠りにつく。。。。
目が覚めると手術は終わっていた。
まだ目が覚めるのが早かったのか、吸引式麻酔を無理やり吸わされる。
気持ち悪くて思わずえずく。
再び目が覚めるとそこは病室のベッドだった。あれだけびびらされた割には案外一瞬で終わったな、と思った。
後から聞いた話では、あの手術は大人でも思わず泣いて叫ぶほどの痛みらしい。
子供なのに何事もなかったかのようにしていたのはすごい、と褒められた。
前の二の舞にならずによかったと心底安堵した。
月日が経ち、足も完治し出した頃、おれはもう小学5年生だった。
ここでおれはスクールカーストというものを体感する。
学期末にはいわゆるお楽しみ会というものがあり、それぞれがグループを作って担当の出し物をする企画がある。
その時のグループは、お笑い係、怖い話係、装飾係、その他いろいろ。
おれは最初、お笑い係に所属していた。
しかし、見た目はデブでメガネ、髪型もオン眉のどちらかというとインキャと呼ばれる立場であったおれは、陽キャたちで構成されているお笑い係にコンビやトリオを組んでくれる友達がいなかった。
はぶられる形となってしまったのだ。
さすがにピンは嫌だと思い、先生に話して怖い話係に転向させてもらった。
次の日、みんなが怖い話を考えてきた。
もちろんおれも、当時国語の時間にタイムリーで勉強していた「ごんぎつね」のパロディーの怖い話を考えてきたのだが、それを怖い話係の前で発表した時に、怖い話係のリーダー格、スクールカースト上位に位置するいじめっこイケメン君がひとこと、
「人の作品をそんなふうに悪く変えちゃダメでしょ。却下。」
周りの女の子たちもそうだそうだと言わんばかりに便乗する。
他の案を出しても、適当な理由をつけて、却下。
そこで気づいた。
ここはイケメン君とその囲いで構成されたグループだったんだと。
そして自分のスクールカーストは明確にこいつよりも下に位置するのだと。
他の男の子たちもイケメン君に媚び諂っているようにも見える。
だがそいつらも明らかにおれを下に見ていた。
こいつらよりもおれは下なんだ。
吐きそうだった。
そのグループに嫌気がさして、先生に、やっぱりお笑い係に戻りたい、と話した。
そんなわがままが何度も通用するとおもうなよ、と少しお灸を据えられたが、お笑い係には戻してくれた。
ピンでやるしかない、と思っていたが、そこにもともとトリオでやっていたものの、まとまりがなさすぎて一人で抜けたというYがコンビを組まないか、と言ってきた。
今思えばYの優しさだったのかもしれないが、とても心強かった。
クラスでもトップレベルで面白いYとのコンビ漫才。
ここがおれが漫才の楽しさを知るきっかけとなる瞬間だった。
おれたち二人は空き時間があれば常に漫才を練習した。
おれがツッコミで相方がボケ。
コンビ名は「ボンバーズ」。
爆発的な笑いをかっさらうという意味を込めていた。
ネタ帳も作って本番に向けて着実に仕上げていった。
本番当日、見事にウケた。
むちゃくちゃウケた。
一位だった。
最高だった。
おまえって面白かったんだな、と何度も言われた。
スクールカーストが少し上がった気がした。
その後おれたちは漫才にしばらくハマって毎休み時間漫才を廊下で練習していたが、やがて相方が飽きて実質解散となった。
しかしここでおれがお笑いという道に目覚めたことはのちのインキャ下克上をする上で重要なセクションとなる。
インキャ下克上とはなにか、については中学生期で話そうと思う。
また、小学6年生になると、中学受験する子たちはより勉強に励み出す。
おれは中学受験はしなかったものの、この頃から行きたいと思っていた、エリート街道を歩む父が昔通っていた進学校の高校があり、そこを目指して勉強していたり、そこそこの頭もあったので、成績は常に良い方をキープしていた。
しかし、中学生期では、その例のインキャ下克上活動によって成績が徐々に下がりはじめてしまう。。。
〜続く〜