2150年 7月29日
「あー、ダメだぁ……」
それなりに値が張りそうな椅子に全体重をかけ、そこに腰掛ける女性は苦々しげに呻いた。
──アリサ・アレニチェフ。それが、彼女の名前である。成人女性にしては小柄な体格の所為で、年相応の評価をされづらい不遇な人物だ。階級は技術少尉。──これでも、軍属であった。
(今までのやつとは、格が違う──。この3つのデータ・ファイルだけ……まるで気合の入り方が違う……どうして?)
アリサ技術少尉は、今、前線基地でコンピューターと向き合っていた。画面には、一見意味がないかのような、文字の羅列がある。
ファシットが残した、生体兵器に関する暗号化データ。彼女が解読しているのはそれであった。
少し前──と言っても、「大戦」以前の話になるが──の時代では、このような暗号は専用のAIに解読させるのが定石であった。しかし、今は違う。ファシットが、AIプログラムに甚大な影響を及ぼす暗号データを開発したからだ。
それを読み込み、解読を始めたAIは、プログラムを侵され、無力化されてしまう。酷い場合には、AIが暴走させられ、周囲の関連機器のデータを根こそぎ破壊するようになるのだ。
だから、昨今の暗号化データは、人間が解読しなければならなくなっている。面倒な話ではあるが、AIに暴走されるよりは数段マシだ。
──今、彼女は、パスワードが設定された、三つ目のデータ・ファイルの前で、手を止めていた。いくらそれらしい言葉を入れても解除されないロックを前に、彼女は少しうんざりしている。
(ああ、そう言えば。小隊長さんが言ってたことがあったんだわ……)
そう言って、彼女は、現像された一枚の写真を取り出した。
それは、フォリオン神殿最上階にあった壁画の写真であった。プロテクターに備え付けられた、情報収集用カメラで撮影されたものである。
その美的センスは、やはりアリサ技術少尉にも理解しかねたが、しかし、荒次郎から、「解読に使えるのではないか」と言われたので、仕方なく持っているのだった。
(異形の生物と、自らを焼き切らんばかりに光り輝く星と、悲壮な顔をする人間……か)
そこまで思考したところで、彼女は、まるで天啓でも受けたかのように妙案を閃いた。
(そう言えば、この三つって、ファシット教の、フォリオン神話の中によく登場したものだったっけ……? まさかとは思うけど、登場ページがパスワードの一部になってる、とか──)
フォリオン神話は、描写が丁寧な神話だ。特に、人物に関してのシーンは手が込んでおり、少しくどく感じてしまうこともあるが、それでも、分かりやすい神話であることは確かである。
アリサは、ファシットの思想を理解するために、フォリオン神話を読んでいた。それで思いついたのだ。
彼女は、自分の荷物の中から、フォリオン神話の内容を記した本を取り出し、そこから、例の三体が登場するページの数だけをピックアップした。
(──ええと、確かフォリオン神話は、異形の生物が原初の地球に降り立ち、それに怯える人間が、星を見上げるところから始まった筈。じゃあ、順番はそれでいいとして……)
アリサは、宗教的観点に立って発想を捻り出し、次々と、ピックアップした番号を並べ替えていく。
そして、最終的にたどり着いたパスワードを、そのデータファイルに叩き込む。
──と、次の瞬間。除夜の鐘のような重低音と共に、障壁が突破された。
「や、やった………!」
そこから、アリサ技術少尉は、今までの停滞が嘘のようなスピードで解読を進めていった。その顔は、次第にほころんで行く。
しかし。データの解読が進み、内容が次第に見えてくると、その表情は崩れた。逆に、その顔にはどこか悲壮めいたものが浮かぶ。
「こ……これが………」
彼女は、本来ならば続くはずのその言葉の、「が」から先を紡げなくなっていた。
──その言葉は、本当ならばこう続く筈だった。「これが本当なら、防衛連合側に勝ち目などないじゃないか」と。
そこに記されていたデータは、どうやら、ファシット軍の、特定の兵士に関するもののようだった。生体兵器についての暗号化データの中にあったので、さしずめ、「8番目のシリウス」と言ったところなのだろう。
そこには、こう記されている──「遺伝子を改良された彼らは正に、神話上の半神のような力を持った、理想の兵士である。肉体、性格、精神、脳に至るまで、すべてが理想形だ。一人で一小隊分の働きをする、と言っても過言ではない、今までの常識を超えた精鋭達──」と。
それが、ファシット研究部による妄想である可能性は、実際のところ無に等しかった。アリサは認めなければならなかったのだ。目の前のデータがデタラメでもなんでもない事実で、敵は、それだけの力を持った相手だということを。
理想の兵士。そう呼称された者達は、一人で一小隊分の働きをする。それはつまり、防衛連合とファシット残党軍の間にある兵力差など、あまり意味がない、ということだ。
(──ん? あ、あれ……これは………?)
ふと。疑問符を浮かべたアリサの指が、意識せずに止まる。
今、画面に映し出されているのは、人間の遺伝子データのようだった。それは今までの文章と照らし合わせると、「理想の兵士」とやらの遺伝子データだと推察できる。
──これは言わば、敵に兵器の設計図を流しているのと同じことだ。遺伝子パターンさえ分かれば、防衛連合は今直ぐにでも、製造工程を編み出して「理想の兵士」を作り出すだろう。そしてそのことは、ファシット側も分かっていた筈だ。それなのに、どうして、わざわざそんな重要機密を公開したのか? アリサには、それが分からなかった。
しばらくして、そのデータ・ファイルの解読は終了した。
「──隊長さんに、報告しなきゃ……」
絶望的な真実を突きつけられて尚、彼女の目は気丈さをたたえていた。
その理由は、データ・ファイルの最後の行にあった。──そこには、はっきりと記されていたのだ。
ファシットの残党軍が、潜伏しているその場所が。
──ファシット要塞A-B1エリア。本来ならば存在するはずのない地下施設が、その潜伏場所なのだった。




