第二章
私は思わず笑ってしまった。
「おかしいよね。私も今こうして話してておかしいもの。しかも、首から上は犬」とヘロネア。
「いや、ごめん。実際、夢はそんなもんだよ。誰かに語るにはあまりにも突飛で、どこかで辻褄合わせでもしないと、とても納得いくようなものじゃない」
「ほんと、そうなの。おじさんは専門家だから、話しやすいわ」
「で、その魔術師さんは、湖のほとりで何してたんだ?」
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かいつまんで話そう。
俺の家はアウクシュタシス湖のほとりにあって、そこにずっと暮らしていた。これは俺の悪い癖なんだが、あまりにも長い間魔術の稽古に没頭して、気が付けばほとんど歩くこともできないほど衰弱していた。
…確か水を飲もうと、湖に近づき、そこで俺の記憶は途切れていたのだ。
俺はようよう、上半身だけを起こし、湖に向かって手の甲を差し出した。
「Vandukas」
湖の水が盛り上がり、一口大の球体になり湖面に浮き上がる。
俺は手の甲を自分の方向へ返した。
「Vandiklis」
俺の口元へ、玉となった湖水が近づく。俺は喉を鳴らして飲み干した。
しばらく、俺は放心して湖をぼんやり眺めていた。
やがて、俺は空腹のあまり、猛烈な吐き気を感じ始めた。
かすれた声で、湖面の下に呼びかける。
「Karpulis」
目の前の波の下に、一匹のコイがいるのを感じる。俺は彼に大きな脅威を感じなかったので、持てる力を振りしぼり、拳を湖面に突き出し、再度呼び掛けた。
「Karpulytė」
湖面に背びれのようなものが見える。全身にコイの微弱な抵抗を感じる。拳を解き、掌を湖にかざし、呼びかける。
「Karp」
巨大な魚影が夕暮れの空に躍り上がり、俺の目の前でびちびちと跳ね回った。
俺はそいつに手を伸ばし、ウロコも取らずに身にかぶりついた。
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「それだけの夢なんだけど、あんまり変だから、私、途中で目が覚めて笑い出しちゃった」
ヘロネアはそう言って、実際におかしそうに笑いだした。
「魔術ねえ…。突然男言葉になったから、ちょっと面食らったよ」
「私たちの言葉は過去動詞が性変化するから、ミンダウガスの視点で語るときは、彼のジェンダーに合わせて話さないと、何だか気持ち悪くて。
おじさんはわかると思うけど、夢の間は、現実の私じゃなくて、全然違う人物になるってこと、あるよね。」
「うーん…どうだろう。俺自身、あまり夢を覚えてないからなあ」
「他者の視点で夢を見ない?例えば、女性になったり、猫になったり、どこかの僧侶になったり、とか」
「そうだなあ。あるような、ないような…」
「専門家なのに、だめね。それとも、夢は本来ボンヤリしてるものなのかな」
「なかなか、他人とは比較しにくいね。さっき言ったように、目覚めてから他人に語るために、無意識に整合性を取ってしまうことも、あるかもしれない」
「あ、それは確かに。私、昔から変な夢を見たら、ママや友達に話していたの」
私は自分で発した「無意識」という単語が、妙に心に引っかかるのを感じた。
「ところで、さっき出てきた”Vandukas”ていうのは?」と私。
「リトアニア語で”水”、なのかな。主格は”Vanduo”なんだけど。” Vandukas”なんて格変化、聞いたことがないわ」
「魔術師さんは水を飲みたくて、呪文を唱えて水を呼び寄せた…あれ?」
「どうしたの」
「そうか、” Vandukas”は呼格なんだよ」
「違うわ。”Vanduo”の呼格は”Vandenie”。複数呼格だって”Vandenys”だし」
「君の夢の中では、呼格はひとつじゃない。いくつもあるんじゃないかな」
「え、どういうこと?」
「俺の専門からは外れるけど、もともと呼格は文法上は意味をなさないから、格とは見なせない、という論文を読んだことがある。単純にモノ自体に呼びかけるための接尾辞ではないか、と」
「そうね。私たちの言葉にも呼格はあるけど、ただモノに対して呼びかけるだけよね」
「そう。君が最初に、葉に対して呼びかけたところから、少し気になっていたんだよ。
なぜ”モノ”に対してまで呼格があるんだろう?俺の名に”ミロシ”という呼格があるのはわかる。しかし”水”に対して呼びかける必要があるか?」
「うーん、詩や、童話で読んだ記憶があるくらいかな。日常生活で、”モノ”に呼びかけることなんて…そうね、独り言のときくらいかな」
「うん、魔術師さんも湖のそばに独りで住んでいるんだったね。なんだか君の夢は、リトアニア語という言語体系自体の意志が投影されているような…」
「ああ、ミロシ!いいわ。私は誰かに話したかっただけだから、分析はひとりになったときに、好きなだけやって」
「えっ、そんなに込み入った話は、してないはずだがなあ」
「これを元に論文を書くときは、ちょっとは私にインセンティブちょうだいね。”ミラノ”のカキ料理のコースがいいな」
朗らかな笑い声を残して、ヘロネアはすっきりとした顔つきで診療室を出て行った。
また明日、どうせおじさんも暇だろうから、と言い措いて。
(続く)