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Monad (ある精神科医の手記)  作者: 権兵衛
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第一章

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


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 一人称は複数を用うべし、とか、接続詞は文頭に置くべからず、とか、論文に求められるそのような約束事を一切無視し、いち精神科医としてではなく、ヘロネア・ブクルという女性の「証言」に興味を抱いたミロシュ・ヨヴァノヴィチという一個人として私はこの手記を書く。


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 背もたれに思い切り体重をかけ、力いっぱい伸びをする。

 訪れる患者が少ないのは、ここ最近降り続く雨のせいだけではない。

 あの忌まわしく長い内戦が終息し、精神を病む者が段々と減ってきたのだろう。

 それはそれで喜ばしいことだが、そうは言っても、「戦争状態にあれば、抑うつ状態の患者は相関的に減少する」という論文も読んだことがあったっけ。あれは、誰の主張だったか…。

 脈絡もなく、そんなことを考えていると、ドアのベルが鳴り、来客を告げた。

挿絵(By みてみん)

「こんにちは」女性の声。

「こんにちは、どうぞお入りください…あれっ」と私。

「おじさん、久しぶり。私の顔忘れた?」

「ごめん。ヘーロー。忘れてない。一年ぶりくらいじゃないか?」私は姪のヘロネアに椅子を促した。

「そうかも。パートタイムでレジ打ちの仕事、始めたの。それから、大学と家とスーパーと、本当、忙しくて」


 言いながらヘロネアは雨に濡れたコートを脱ぎ、襟を整えてハンガーに掛け、携帯用の櫛で手際よく髪を撫でつけて私の前に座った。


「コーヒー淹れるよ」私は椅子から腰を上げた。

「別にいいよ。大したお客でもないし…あ、患者さんでもないし」ヘロネアは笑った。

「わかってるよ。ちょうどコーヒー、淹れに行こうと思ってたところなんだ」私も笑って言った。


「どこのスーパー?」コーヒーの乗った皿をヘロネアの方に押し出しながら、私は訊いた。

「ルズヴェルトヴァとダルマチンスカの交差点の…」

「スーパー、あったっけ?そんな所に」

「元々、あそこ郵便局だったよね。戦争前は純然たる郵便局」

「えっ、あの郵便局、なくなったのかい」

「いや…まだ切手とか、売ってるからなあ。私は、スーパーだと思って働いてるけど」

「なくなったわけじゃ、ないようだね」私は苦笑した。「八百屋にCDだって、売ってる時代だ。別に驚かないよ」

「CDだって!それこそひと昔の話だよ」ヘロネアは笑う。「今日は、スーパーの話をしに来たわけじゃないの。特に話さなきゃいけないようなことは、起きてないし」

「ふうん」私はコーヒーに砂糖を投げ込んだ。

「それとは別の、相談事なの。友達や、それこそスーパーの同僚に話せばいいんだろうけど、それもちょっと、憚られる気がしたものだから」

「ふん」私はコーヒーをすすりながら、気のない返事をした。

「すごく変な夢、見るの。それもこの一週間、立て続け」

 私は思わずヘロネアの方を振り向いて、言った。「へえ?」


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 けど私、本当に患者じゃないからね。おじさんなら話しやすいと思ったし、話しちゃえばスッキリするの、わかってるからこうして話すの。

 あとから問診代ですって、請求書出されても困るよ。


 まず、うちの大学の立地なんだけど。

 ドナウ川があって、河岸がゆるい斜面になってて、そこにけっこう高いブナの木が疎らに植えられてるの。斜面の上が、私がよく講義受ける校舎。

 私、リトアニア語の授業もその校舎で受けてて、単語を覚えるときに、窓の外から見えるブナの木と関連づけて覚えていたの。

 バルト系の言語には、同じ語根の単語が山ほどあるの。私はブナの幹を語根に見立て、そこから延びる枝葉を派生語に見立てていた。

 そんな風にして、いつか視界に入るブナの林は、私にとって大きなリトアニア語の辞典になっていたわ。私は単語を思い出すとき、覚えず知らず、四方に伸びるブナの枝を思い浮かべるようになっていたの。


 変な夢を最初に見たのは先週、大学で。午前中の講義のときだった。

 人類学だったか、経済学だったか忘れたけど、前の日が友達の誕生パーティで、けっこう飲んでしまっていて、頭が痛かったものだから、教授の話なんか上の空。

 たまたま、物静かな、穏やかな話し方をする先生だったから、私は窓際の席に突っ伏すようにして、知らないうちにうたた寝を始めていた。


 気がつくと…変な言い方なんだけど、この変な夢は、いつも夢の側で目が覚めるところから始まるの。

 気がつくと、私はブナの林の中にいた。あの、ドナウ川と大学の間にある。

 どれも私がリトアニア語の授業を受けながら、単語を覚えるために使った木ばかり。

 起き上がった私は嬉しくて、ひとつひとつ木を見ては、これは空腹。これは怒り。そんなふうにリトアニア語の単語を反復しながら歩いたわ。

 木を見上げると、それぞれの語根から派生した単語が、やっぱり現実と同じように枝を四方に伸ばしていた。

 しばらく歩くと、まだ私が記憶に使っていない、大きなブナの木があった。

 私は、その木の前に立って、一つ一つ格を唱えてみた。


「Medis」リトアニア語で「木」。これは主格。

「Medio」、属格。

「Mediui」、与格

「Medį」、対格。

「Mediu」、具格。

「Medyje」、位格。

「Medi」、呼格。


 最後の格を唱え終わると、なんだか心が、ざわざわした。


「Medytė」、「Medutė」、「Medulė」…


 習ってもいない、知らない格が、私の口を突いて出た。


「Medelė」、「Medulytė」、「Medukas」、「Medučiukas」、「Medužė」、「Medužytė」…


 夢の中でもびっくりしたわ。リトアニア語の格変化は、七種類。セルビア語と同じ。だから八以上も出てくるなんてことは、あるはずがない。

 ジェマイティア方言では格が十もあるんだ。ひまな奴らだ、なんて先生は冗談めかして言ってたけど、そんな方言はもちろん私、習っていないわ。


「Medulyte」「Medunė」「Medatė」「Meduku」「Medyte」「Medon」「Meduze」「Med」「Medanė」「Medulis」「Medaša」「Medulė」「Meduliukas」「Medutė」「Medute」「Medukė」「Medos」「Medule」「Medy」「Meduliuku」「Medyčiukas」「Medulytė」」…


 やがて、紡ぎ出される格の数は、もうブナの葉の数よりもずっとずっと多くなっていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()

 すると、葉は風になびく方向を変えることで、私に答えたような気がした。

 私は嬉しくなって、ブナの木全体に呼びかけてみたわ。


「Medaitė」

 ブナの木は、揺すられたように枝を振るって、私の頭上に葉を落とした。


「Medeliukas」


 ブナの木は、まるで楓のようにその葉の色を血のような赤に染めた。


「Medūnė」


 ブナの木は、私に言った。

「林を降りなさい。お前はもはや"Pasaulis"の住人となったのだ」


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「"Pasaulis"っていうのは?」私はヘロネアにたずねた。

「リトアニア語で”世界”」とヘロネア。

「世界か…。それから?ブナの木に話しかけられて、君は?」

「そこで目が覚めたの。だから、一回目の夢は、これでおしまい」

「夢なんだから仕方ないけど、ずいぶん尻切れトンボな気がするな」

「私もそう思ったよ。目が覚めたら、まだ教授の講義は半分も終わってなかったし。何かの邪魔が入って起きたわけでもないし。

 でも、講義が終わって、お昼を食べて、もうひとつ講義を受けて家に帰って。その晩寝たら、夢の続きを見たの」

「続き?」

 口をつけたコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。

「二回目の夢も、眠りから覚めたところから始まった。私は土手を降りて、ドナウ川のほとりで横になっていた。

 …でも、夢の中のドナウ川は、湖になっていたわ。対岸はずっと向こうにあり、水は静かに波立つだけで、どの方向にも流れていなかった。

 でも、もっと違ってたことがあったわ」

「何?」

「私はミンダウガスという名の男性で、魔術師だったの」


 (続く)

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