最終話 あの日の教室で *
「…………は?」
「だから、そのままの意味だよ。桜井さん、転校するって聞いた」
岸川の横顔は実に冷静で、述べている事実とのギャップは凄まじい。しかし、おかしいとは感じなかった。それより先に、数多の疑問が押し寄せたからだ。
「て、転校……って、そんなこと聞いてない! だって、先生も言ってなかったし、桜井さんもそんなこと……」
「学年の変わり目だったのと、あとは本人がお願いしたのかもしれねぇ、わかんねぇけど」
「でも桜井さん家、俺ん家の近くだから、引っ越しなんてしてたら気づくし!」
「俺も詳しいことは知らねんだよ。でも、引っ越すってのは本当だぜ」
ふざけて言っているようにも見えない。自身が何の情報も持っていない以上、この発言を信じるしかない。だが、信じたくはない。
心の中に、言いようのない反発のようなものが生まれた。それに突き動かされ、または身を任せ、次々と疑問を投げ掛ける。
「俺は当然聞いてないし、友達にも話してなかった。誰にも言わずに引っ越すなんて、そんなの有り得ないだろ!」
「確かに変だけどさ、有り得ないことはないだろ。なんか言いにくい事情でもあるんだよ、多分」
「事情ってなんだよ、なんなんだよ!」
「俺に聞くなよ! てか放せ!」
言われて始めて、彼の胸ぐらを掴んでいたことに気づいた。小声で謝り、急いで手を放す。
分からなかった。彼女が引っ越す理由、それを誰にも言わなかった理由が。普段の彼女なら、大切なことはしっかり伝えて──
そこで彼は、もう1つ疑問を増やすことになった。果たして自分は、"普段の彼女"を知っているのか、と。
普段から話し合う程の付き合いでもなく、彼女に関する情報もほとんど知らない。彼女の趣味や得意教科、どんな友達がいるのかも。ただ何となく"クラスで人気の人"だと思っていただけで、彼女個人を見ていた訳じゃない。
知っていることと言えば、「同じゲームを進めていた」ことと、テニス部に所属していることくらい。それも自分から尋ねたのではない。相手から聞かれたり、周囲の話から情報を得たりで知ったことだ。
そんな自分が、何を断言できるというのか。
もしかしたら本当は、彼女は怖いのかもしれない。誰にも知られず、察されずにいなくなる方が、気を楽にしていられるのかもしれない。
あるいは彼女は、引っ越したくないのかもしれない。受け入れたくない事実だから、他人にも話さない。話さないことで、事実を限りなく遠くへ押し留める。そうして平静を保っているのかもしれない。
思考はさらに続いた。
自分は1度でも、それを考えたことがあっただろうか。寧ろ大した根拠もなく彼女に疑念を持ち、逃げていた。そんな自分が、残酷な事実に対して怒っていい訳もない。
そして今、また逃げようとしている。彼女を知ろうとしなかった自分を棚に上げ、目の前の友人に無茶苦茶を言い、攻撃的になることで受け流そうとしている。
ここで逃げたら、もう彼女に合わせる顔がない。
この後何年も時間が経っても、どれだけ年を重ねても、文字通り顔を合わせられない。
「……岸川、いつ引っ越すのかは知ってるか?」
小声でボソリと呟いた。それが最後に残った疑問だった。
「詳しくは知らない。でも、お前の言う通りまだ引っ越してないなら……今日、だろうな」
一瞬、息を詰まらせた。言葉が出ない。
既にあの家を去っていたらどうしようもないが、まだ彼女が残っているとしたら、今からでもギリギリ間に合うかもしれない。
二度と取り返しのつかなくなる前に──
「…………桜井さん……っ!」
ようやくそれだけを口にし、彼は走り出した。友人を河原へ置き去りにして、堤防を駆け上がり、舗装された道路へと入った。背中から掛かる言葉にも、もう意識を割いていられなかった。
空から雫が降り注いだ。夕立だろうか。彼の心情を憎らしい程正確に表した風景だ。
足がもつれる程の限界速度で坂を降りる。食品店や服屋など、建物が数を増やしてゆく。河原へ向かう時に見たトラックは、彼女の家へ行ったのかもしれない、と走りながら予想した。
彼女が背中を預けて待っていた校門を通り過ぎる。ふと振り向いた先に、教室の窓が見えた。
あの時の彼女は、まだ笑顔だった。他愛もない会話なのに微笑み返していた。一緒に帰宅した日は、夕陽のせいもあってか一段と笑顔が輝いていた。
信号が点滅するが、迷わず交差点を渡る。雨のせいで視界は悪かったが、幸い車は通らずに衝突もしなかった。
走る度に、抱えきれない程の想いが溢れ出した。疑問や疑念ではない。今になるまでずっと、彼女の心情を理解しようとしなかった、愚かな自分への怒りだ。
(どうして……俺はどうして無視したんだ! 彼女は何か悩んでいるはずなのに、俺は話し掛けるどころか、あの日のプレゼントにも応えてない!)
怒りはすぐに悔しさに変わった。
事の真相を尋ねておけばよかった、と思った。無粋だとか失礼だとかいう考えは、決して思い遣りではなく、建前を付けて回避する為の手段でしかない。その実、"自分へ向けられた気持ちじゃない"と勝手に決めて、怖いからと話しを切り出さなかっただけ。
その原因は間違いなく自分の弱さだ。傷つきたくない、失いたくないと思うだけで、何も努力をしなかった怠けた根性のせいだ。
どれもこれも全て、遅すぎる後悔だった。
そうして彼は走りながら泣いた。1粒の涙が横に飛んだ瞬間、次々と両目から流れ出してゆく。そしてその1粒1粒が、雨水に紛れて消えてゆく。
水滴の降り注ぐ音の中に、カラスの鳴く声が聞こえる。猫が道を横切り、柵に登ってゆく。家の庭に停まっている赤い車の影から、犬がこちらに何度も吠える。普段の街並みを目にする度に、彼の呼吸は更に激しくなっていった。息が上がり、膝に手を付いて嗚咽を堪え、また立ち上がり駆け抜けていった。
別れ道に入り、あのトラックが見えた。
本当は一刻も早く右へ、彼女の家へ行きたかった。もうそこに見えているのだから。
しかし、このままでは向かえない。まだ"お返し"をしていないから。
彼が自宅を飛び出したとき、既に雨は止み、空は真っ赤に染まっていた。あの日と同じ位の時間帯だが、季節の影響で少し明るい。
急いで別れ道の分岐点まで戻り、向こう側が見える直前で速度を落とす。服装は濡れた状態だが、取り繕う余裕などない。Y字路の分岐点のブロック塀は、景色を隠すのには十分な高さだ。
そこから少しだけ顔を出すが、その場所はまだ見えない。加えてもう半歩ほど踏み出す。
トラックが見えなかった。まさか、あの短い時間で移動してしまったのか、と焦りが生じる。
だが、まだ諦められない。怖くても先へ行かなくてはならない。いなかったとしても、それを受け止めなければならない。
もう一歩、彼は踏み出した。
「……あっ」
捉えたのは、髪を後ろで結び、いつもの制服とは違う若草色の上着と茅色のスカートを身に着け、夕陽を見つめる少女の姿。
間違いない。
「桜井さん!」
叫ぶと同時に走り出した。彼女は反応してこちらを向くと、目を見開いたまま呟いた。彼がいること自体に驚いたのか、ずぶ濡れの姿に驚いたのかは分からない。
「山下くん……」
彼女の元へたどり着くと、お互いに同じタイミングで何かを話そうとした。彼はそれに気づいて先を譲った。
「最後くらい挨拶しよう、って思ったら留守だったから。ここで待ってたの」
「……その、引っ越すって全然知らなくて。知ったのついさっきなんだ」
彼女は恥ずかしそうに俯き、両手を前で握った。
「……うん。山下くんには伝えてなかったから。あとクラスの皆にも。先生には、言わないように無理言って頼んで……。バカだね、私。こんなことしても、もっと悲しくなるだけなのに……」
半ば自虐的に言い放ち、無理に笑顔を浮かべていた。強ばっているのは一目瞭然だ。
彼女の右側から、まだ明るい陽の光が指した。何か言いづらいことがある様子で口を噤んでいたが、俯いたまま事の次第を話し出した。
「あのね、お父さんに"引っ越す"って言われたの、バレンタインデーの夜だったんだ」
「……そう、なんだ」
「とっても悲しかった。せっかく仲良くなれたのに、離れ離れになるなんて……。だから、あんな素っ気ない態度を取っちゃって。ごめんね」
努めて明るく話していたが、声は震えていた。その様子を見ていられず、彼も話し始めた。
「……違う。俺だって悪いんだよ。少し考えれば、ちゃんと桜井さんを見ていれば、気づいたはずなんだ。何か悩んでるって。でも俺は……怖くて確かめなかった」
桜井さんは口を挟まず、彼の言葉を黙って聞いていた。
「それだけじゃない。俺は、君の気持ちを……疑った。実はあの中身、まだ食べてないんだ」
言うのを躊躇ったが、後悔を残さない為と思い切った。彼女はまたも驚き、暗い表情で理由を聞いてくる。
「え……どうして食べないの?」
「いや、そうじゃなくて! ハッキリしないまま食べちゃダメだって思ったんだ。だから確かめて……って思ったんだけど、全然聞く素振りもなかったよな、俺」
彼がわけを述べると、彼女の表情はだんだんと元に戻っていく。聴き終わると、可笑しそうにクスクスと笑いだした。それはポーカーフェイスではなく、心からの笑顔。
この表情だ。強がりでもなく、誤魔化しでもない、幸せや安心から自然と表れる笑顔を、彼は待っていた。
「フフッ、山下くんらしいね。良かった……私、嫌われてなかったんだ」
「こっちこそ、勝手に勘違いしてた。ゴメン」
一息つくと、彼はポケットから白い袋を1つ取り出した。不思議そうな顔をする彼女の前に、それを掲げた。
「これ、お返し」
そう、これが先程自宅へ向かった理由だ。"お返し"──バレンタインのお返しをする為。ホワイトデーはとっくに過ぎている。今更ではあるが、彼女はきっと、返事を待っていたに違いないのだ。
食べてもいないのに返していいのか、とも迷った。確かに普通の順序ではない。しかし、普通ではなかったこの2人の間柄には、イレギュラーな形式の贈り物こそ相応しいのかもしれない。
それを受け取った桜井さんは、少しの間袋を見つめると、遠慮がちに言った。
「ねぇ、開けてもいい?」
「うん。いいよ」
了承を得て、彼女は外袋を結ぶ青いリボンを取った。家にあった間に合わせで、端から糸がはみ出している。
中から現れたのは、小さな2つの袋。これも自宅から見つけたものであり、何か特別なものでもない、市販の飴玉だった。
お返しにしてはあまりに粗末で、とても応えにはなり得ない。しかし、その2つを見つめた彼女は一瞬にして目を潤ませた。
「……ズルいよ、山下くん……」
彼女の両目から、雫が1粒ずつ零れ落ちた。
「こんなものしか返せなくてごめん。でも、返さなきゃいけないって思ったんだ」
どんな形であれ、"お返し"は果たした。
だが、まだ終わりではない。口にしていない、1番大切な気持ちが残っている。それを伝えるなら今しかないのだ。
全身が震えるのを感じ、口元が思うように動かない。目眩のような感覚にも襲われる。それらを振り切り、前を見据えた。
「……ずっと知らないフリしてたけど、もう嘘はつかない。あの日……教室で、桜井さんが話し掛けてくれた時、俺は嬉しかったんだ。ゲームの話題だったけど、あんなにもっと話したいって思ったことはなかったよ」
自分に正直に、取り繕うことのない気持ち。
「簡単なことだったんだ。俺は──君が好きだ」
そして彼は、今までで最高の、輝く笑顔を目にした。
「──ありがとう……」
たった一言だけ、彼女の声が空気を震わせた。
それだけで十分だった。彼が悩み続け、求め続けた答えは、これで満たされた。
1台の青い中型車が家の前に停まった。彼女の家族が迎えに来たのだ。ドアが開き、中から父親らしき声がする。
彼女は名残惜しそうな瞳でこちらを見つめていたが、やがて車の方に返事をすると、彼に向き直った。
「それじゃあ私、行くから……」
そう伝えて、去ってゆく間際。
彼は僅かな勇気を振り絞って言った。
「また会おうね……香奈さん!」
彼女は即座に立ち止まり、こちらを振り返った。彼女は溢れる涙を拭い、声を振り絞って返してきた。
「うん……またね、優太くん」
直後、バタンとドアが閉まり、自動車が音を立てて動き出した。夕焼けの道を走り去る中で、彼女は何時までもこちらを見つめていた。彼も、決して目を離さなかった。
いつもの景色が戻ってきた。1歩も動かずに彼方を見つめる少年の後ろを、自転車が通り去った。
──山下くんへ
驚かせてごめんなさい。どうしても伝えたい気持ちがあります。
あなたのことが好きです──
箱の中の手紙には、そう書いてあった。
◇ ◇ ◇
学校での授業中に、その内容と関係ないことを考えてしまう、というのは多くの人が経験しているだろう。そして大体の場合、気がついた頃には板書が進んでいて、理解が追いつかなくなる。
ある中学校の校内。最高学年となった彼は、数学の授業を受けながら、ここ数ヶ月のうちに起こった出来事を思い返していた。
「……」
ストーリーは至って単純、難しい伏線は入っていない。ある少年がある少女に恋をする、という如何にもありふれた、世界にたった1つの物語だ。相手の想いを知り、伝えられ、すれ違って……。全ての話に意味があり、どれもが印象に残っている。
そして今でも、夕陽に映えるあの眩しい笑顔を、鮮明に思い浮かべることができた。
(チョコ、美味しかったな。もっと早く食べておけばよかった)
しかし、後悔はしない。彼女もそんなことは望んでいないだろう。
きっとこれは別れではない。その確信に近い考えと共に、彼女との思い出全てを大切にしまっておこうと心に決めた。いつか訪れる、また逢う日を願って。
思考に熱中していると、周りが見えなくなるものだ。彼は特にその傾向が強い。
「それでは、この問題の解答を山下……」
そんなこともあって、名前を呼ばれたことに気づかなかったのは必然だった。
(元気にしてるかな……)
「おい、山下!」
「え? あ、はい!」
反射的に勢いよく立ち上がり前を見ると、怪訝そうな顔をした教師と目があった。数人の生徒から笑いが漏れる。
「問5の答えだ」
「えっと……すみません、何ページでしたっけ」
「……17ページ」
聞いていなかったことを教師は半ばわかっていたようで、呆れ声でページ数を告げた。生徒達の笑い声は余計に大きくなる。またやってしまった、というのが彼の率直な感想だった。
──頑張って──
彼女の声が、聞こえた気がした。
(終わり)
最後までお読み頂き、ありがとうございました。