第2話 ある日の帰り道 *
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二月十四日。
今日何度目になるか、教室のカレンダーをちらっと見て、その日付に間違いがないことを確認する。わざわざ確認せずとも、一日中教室内がそわそわとしているを感じ続けていたので、嫌でもあの日が来たことはわかる。
俺は生まれて此の方モテたことがなく、今日のこの行事に参加できるような人種ではない。過去に何度か加わってみたいと思ったこともあるが、その理想はついに叶わなかった。
それでも——と少しは期待してしまうのが悲しいところだ。もしかしたら今年こそは、とつい考えてしまう。今まで言えなかっただけで、実は自分のことを好きな人が……とか、《本命》でなくとも学年に一人、二人はいる女友達から……とか、現実味の無い妄想を浮かべながら期待半分に一日を過ごすのだが、それで結果が変わるのなら苦労しない。
ということで俺は今、敗戦者の集う教室から出ようとしているところだ。ドアを引く音に反応し、教室に残る一人が同士を見るような目で声をかけてくる。
「おい山下、もうギブアップするのか?」
ここにはまだ十人近くの男子が残っている。全員ほぼ負け確定なのだが、それでもまだ諦めない、というしぶとい連中が部屋の隅にたむろしているのだ。
この日の男たちの末路は二通り——小包を片手にウキウキしながら帰るか、もしくは手ぶらで下を向きながら帰るか。皆前者になろうと粘るのだろうが、正直本人の努力だけではどうにもならないのが現実だろう。第一、こんなに男子が密集していたら、本当に想いを寄せている人がいたとしても伝えにくいではないか。
「ギブアップってな……どうせ変わんないよ。俺は早く帰ってゲームするんだ」
「何がゲームだ! お前の人生、ゲームより大事なことなんて山ほどあるだろうが! 諦めるな山下、ここを耐えれば、リア充共に勝てるのだから!」
言っていることは最もだが、それをここの連中が言っても説得力など皆無だ。また明日になれば、各々ゲームやらカード対戦やらの攻略会議が開かれるに違いない。その妙に整えられた髪型もまたボサボサに戻っていることだろう。
「とにかく帰るからな。あんまり遅くまで居残りしてると怒られるぞ」
髪がカッチリしすぎて可笑しいヤツらの元を後にし、人もまばらになっている校舎内を足速に駆け抜けていく。先のクラスと同じような風景が他の教室でも散見されたが、結果はわかっているし、立ち止まる必要もない。せめてもの情けで、頑張れよと心の中で発破をかけておく。
そして、例のゲームの内容へと思考を向ける。
俺がプレイしている例のゲームは終盤に差し掛かっており、ストーリーも大詰めといったところだ。どちらかというと俺はストーリーよりもゲーム性重視なのだが、最近は物語の内容が気になってしょうがない。
というのも、一か月ほど前のあの日——桜井さんと初めて言葉を交わした日以降、ストーリーについて彼女と話す機会が多かったのだ。つい三日前も、秘宝を奪い去ろうと手を回している犯人について、王族の中にいるのか外部のものか……などと考察を巡らせたばかりだ。無論、敵のステータスやクエストの報酬など、攻略情報の交換もしていた。交換という割にはほとんどこちらが一方的に渡すようなものだが、それでも桜井さんが楽しんでくれているからいいだろう。
ふと顔を上げると既に校門前まで来ていた。通い慣れている校内だ、頭で考え事をしていても足は無意識のうちに校門へ向かっていたらしい。このまま外へ出て右へ曲がれば、あとは家までほぼ一直線だ。当たり前だが、ここから先へ進めば学校の外へ出てしまうわけだ。大げさに言えばそれはつまり、今日の一大イベントにおける敗戦を認めることになる。
別に悔いなんてない。……つい昨日まで期待なんてほとんどしてなかったじゃないか。それが当日になって、急に変わるわけじゃないんだ。
最後になって惜しんでしまう自分の性格を呪いながら、彼は一歩外へ踏み出した——
「あ、山下くん」
敷地から出たその瞬間、視界のすぐ右から声がかかった。聞き覚えのある、鈴のなるような透き通った声。驚きながらもそちらを向くと、やはり彼女の姿があった。
「えっ……さ、桜井さんっ? どうしてこんなところに?」
「私は、山下くんを待ってただけだよ?」
彼女は校門の横の壁に背を預けながらこちらを見ていた。
桜井さんは言わばクラスのマドンナのような存在で、男子・女子ともに憧れの的である。といっても、本人にその自覚はあまりないらしい。
しかし、今日の一大事に彼女が関わらないわけがない。彼女に思い人がいなかったとしても、クラスの男子が放っておくはずがないだろう。そんな状況下においてまさか俺を待っているとは。
「俺を待っていた? それは一体どういう……もしかして俺、なんか迷惑かけたりした?」
「あ、ううん、迷惑とかじゃなくてね。ただ……」
「……ただ?」
彼女らしくなく言いよどむ様子が伺えるが、こちらとしては不安で仕方ない。自分の目の前で俯き気味なクラスの人気者。こんなところを誰かに見られたら、何か悪い噂が立ってしまうかもしれない。
「えっとね、山下くんと一緒に帰りたいなって」
「ああ、そっか。俺と一緒に……え? 俺と一緒?」
男女が一緒に下校したりするともれなくフラグが立つなどと周りではよく言われているが、それに加えて今日の行事のこともある。これは思わぬ《チャンスタイム》だ、などと不覚にも考えてしまった。願っても無いシチュエーションにうっかり勘違いしてしまいそうになる。
「俺はここを右だけど、桜井さんも同じ?」
「おんなじだよ。だから一緒に帰ろうかなって。……いいかな?」
一緒に帰るくらい何も特別なことじゃないと言い聞かせて言葉を返すと、彼女は少し自信がないような顔をし、恥ずかしいのか若干上目遣いになって尋ねてくる。彼女のそんな様子を前にして断れる人などいるのだろうか。
「わかったよ。それじゃあ……その、い、一緒に帰ろうか」
「うん。……ありがとね」
俺はうろたえながらも了承し、歩道に一歩踏み出した。その隣に桜井さんが続いた。
***
今日ほど帰り道が長く感じられたことはない。いつもなら特に意識することのない周囲の街並みも、空や雲の薄橙色も、今はやけに気になる。隣を歩く彼女と交わす言葉も少なく、時折響く野鳥の鳴き声や車両の走行音が辺りの静けさを一層引き立てている。
彼にも共に下校する友達は何人かいるが、しかしそのうちほとんどは校門を出たところで別れてしまう。二人ほど同じ方向に帰る友達もいるが、彼らとも住宅街の手前の大きな交差点でお別れだ。それが交差点を渡り住宅街に入ってもなお、彼女は依然として隣にいる。これは一体どういうことだろうか。
話しかけようと隣に目をやると、夕日に照らされた桜井さんの横顔がいつもよりまぶしく見えた。思わず目をそらしそうになるが、なんとか目線を維持して尋ねる。
「あの、桜井さん。遠回りしたりしてないよね?」
自分でも素っ頓狂な発言だとは自覚していたが、やはり意表を突かれたのか彼女は一瞬目を丸くし、しかしすぐに元の表情に戻した。
「遠回り? してないよ。これが一番近い道だから」
「そうだよね。ゴメン、変なこと聞いて。にしても、まさか家がこんなに近いなんて思わなかったよ」
考えてみれば当たり前だと思いながら、更なる疑問が俺の中に芽生えた。これだけ家が近いのなら、登下校時に彼女の姿を見てもおかしくない。それなのに、これまでこの周辺で桜井さんの姿を見たことは一度もないのだ。
「どうしたの、そんな顔して。何か考え事?」
見ると、桜井さんが至近距離で俺の顔を覗き込んでいた。急に現れると心臓が止まりそうになるくらい整った顔なので、反射的に仰け反ってしまった。
「ああ、別にたいしたことじゃないんだけど……今までこの辺で桜井さんを見たことないから、なんでかなって」
彼女は少し考えたようだったが、すぐに顔をこちらに向き直した。
「多分、私が早く来てるからだと思うよ。朝教室にいっても、誰もいないくらいの時間にね」
「え、そんなに早く来てどうするの?」
「授業の予習かな。別に家でしてもいいんだけど、学校の方がしやすいから。朝の教室って、結構静かで集中できるんだよ」
返答を聞いて、俺は改めて彼女との違いを実感した。こういうところに彼女の真面目さがよく表れている。俺はといえば朝いつもギリギリに起きて、学校まで駆け足で進み、チャイムの鳴る数分前に教室のドアを開ける。彼女とはまるで比べ物にならないほどの不真面目者だ。
下校時に見ない理由に関しても合点がいった。桜井さんの所属する部活動はテニス部、早くて五時半、遅い時は六時まで活動している。対して俺は科学部だ。そもそも活動自体が週二、三回で、遅くても五時には帰っている。実質帰宅部の俺と運動部の彼女、帰宅時刻が被るはずない。
「そうだよね。行きも帰りも時間が違うんじゃ、見ないのも当然だよね」
あまりにすっきりと解決したためか口に出てしまった。独り言のようなものだが、相手はそう受け取らなかったらしい。
「うん。だから、山下くんと一緒に帰るチャンスなんてほとんどなかったんだよ? 今日だって……」
そこで言い淀み、彼女は俯いてしまった。そんなところで止められると、こちらも変に緊張してしまうではないか。第一、一緒に帰る「チャンス」なんて言い方では、まるで一緒に帰る機会を狙っていたかのような——
そして俺は、勇気を振り絞り「あの話題」を投げかける。
「ところで桜井さん。あの……今日ってバレンタインデーだよね」
俺にとっては今の一大事、もしかするとこの状況を大きく変動させるかもしれない、そんな淡い期待を抱くような疑問。
「……うん」
桜井さんはこちらを見ないまま、僅かに頷いた。頬が少し赤味を帯びているのは夕陽のせいか。
「あの、誰かに……渡したりしたの? その、チョコとかさ」
相変わらずボサボサの頭をかきながら、遠慮がちに尋ねた。本当は「自分に」という期待もあるのだが、あいにくそこまで深掘りして尋ねる勇気は持ち合わせていない。
「あ、ううん、ちょっとね。その、なかなか時間がないっていうか……あ、あはは。私もそういうのしてみたいなー、なんて」
やはり恥ずかしいのだろう、なかなか目線を合わせてくれない。気がつけば先ほどとは真逆の構図になっていた。
誰とでも分け隔てなく会話できる桜井さんとはいえ、赤の他人に対してそんなことを気軽に話せたりはしないだろう。この疑問はつまり、好きな相手がいるかどうかを遠回しに詮索しているのだから。プライバシーの侵害も甚だしい。そんな質問をしてしまったことに羞恥を覚える。
「そ、そうなんだ。てか、こんな質問しちゃ失礼だよね。ゴメン、急に。べ、別に変な意味じゃなくてさ、純粋に気になったというか……って、それでもダメだよね。ほんとゴメン!」
質問の意図を誤解されたくなくて、聞かれてもいないのにまくし立ててしまった。しかし、こんな辟易されても仕方ないような俺の振る舞いにも関わらず、彼女の声は不思議と穏やかだった。
「謝らないで。別に、聞かれて嫌なことじゃないから」
桜井さんがこちらを一瞥する。すると俺は、そんな彼女から目を逸らしてしまい、誤魔化すように空を見上げる。それでも彼女がどんな顔をしているか気になり、顔の向きは変えずにちらりと横を見る。一瞬だけ目が合い、驚いた拍子に体が跳び上がるように動いてしまった。その瞬間、指先に何かが触れたような気がした。
「あっ——」
声を上げたのはほとんど同時。予想通り、手が僅かに触れ合っていた。桜井さんは目を丸くして、固まったようにこちらを凝視していた。滅多に見ないようなその表情に俺は動揺していた。
「……ゴメン」
口が思うように動かない。
「あ……こっちこそ」
また顔を背けてしまう。謝るのも何度目だろうか。
突然の出来事への戸惑い、彼女の意外な一面を知れた喜び、二人しかいないという緊張と、思うように伝えられない気まずさ——いろいろな感情が自身の中で一度に混ざり合って、上手く言語化できない。そんな状態のまま、俺はまた歩みを進めた。桜井さんもまた、同じように歩き始めた。それ以降、しばらく言葉は交わさなかった。
どのくらい歩いただろう。分かれ道が視界に入った時、桜井さんとの距離が離れた気がした。彼女の方を見ると、俺とは違う方向に進もうとしているのがわかった。
「えっと……俺こっちだから」
「……そうなんだ。それじゃ、また明日ね」
なるべく平静を装って告げると、彼女も立ち止まってそう言った。その声は微かに震えているような気がしてきた。彼女は一瞬迷ったようだったが、すぐに前を向いて去っていった。
「ああ、また明日——」
背中に向かって、そう呟くことしかできなかった。
ここから家まで五分とかからない。家に入れば、今日の一大イベントは終わりだ。勿論、母親から一個貰える可能性はあるが、それは敗戦者の唯一の慰めのようなもので、カウントしないという人もいるくらいだ。
最後に期待が高まった分、俺は余計に落ち込んでいた。しかし冷静に考えてみれば、そんな都合の良いことはまず有り得ない。まさかあの桜井さんが自分に——などと。たった一か月、それも毎日ではなく週にほんの数回だけ話し合うような仲なのに、何を勘違いしているのだろう。そう自分に言い聞かせれば、少しは諦めがつくような気がした。
そして、家に入ろうと扉に手をかけた時。
「山下くん!」
そこにいないはずの声が聞こえた。振り向くと、桜井さんがこちらに向かって駆けていた。後ろで結んだ髪が激しく揺れている。その様子を確認し、俺は呆気に取られながらも、ほぼ反射的に玄関を駆け降りた。
「桜井さん……」
彼女は近くまで来ると、彼女は息を整えながら話し始めた。
「……山下くん、あの……これ」
「えっ、これって」
彼女の持っているものは、黄色のリボンで結ばれた赤い小箱だった。今日は二月十四日。俺の感が間違っていなければ、そういうことであろう。
「そんな、どうして、お、俺なんかに……」
「それは、えっと、バレンタインデーだから……あの、受け取ってくれる、かな……?」
息を整えて、彼女は遠慮がちに手にした小箱を差し出して来た。俺は何が何だかわからないまま、その小箱を受け取っていた。お礼を言うことも忘れて。
小箱を手放し鞄を背負い直すと、桜井さんは今まで見たこともないような、花の咲くような笑顔を見せた。恥ずかしそうな、それでいて明るい笑顔。
「それじゃ今度こそ、また明日。じゃあね」
照れ隠しのようにとっさに後退って一言告げると、彼女は足早に引き返していった。
俺は信じられないまま、ただ呆然と暮れていく空を見つめていた。