第1話 ある日の教室
1
学校での授業に集中できずに全く関係ないことを考えてしまう、というのは多くの人が経験しているだろう。そして大体の場合、気がついた頃には板書が進んでいて、理解が追いつかなくなるものだ。
ある中学校の校内。数学の授業を受けていながら、俺の頭の中はゲームのことでいっぱいだった。モンスターを倒し、レベルを上げ、ストーリーを進め……よくあるRPGものである。
(主人公のレベルがあと3から5くらい上がったら、次の街にでも行こうかな……)
それまで大のゲーム好きとして幾多のRPGをプレイしてきた俺だが、今のめり込んでいるこのゲーム——《ソード・フロンティアⅡ》——ほど熱中したものは他にないだろう。ストーリーは中盤で、大雑把にいえばそろそろ伏線が入ってくるころだ。大筋は盗まれた国の七つの秘宝を探し出すという単純なものだが、魅力は小話のクオリティの高さだ。秘宝の一つが万病に効くという秘薬であり、街には多くの病人が……というストーリーは一番印象に残っている。
(やっぱり黒幕は国王の関係者とか……いや、ベタ過ぎるか)
思考に熱中していると、周りが見えなくなるものだ。その傾向が人一倍強いことは自覚していたが、それでも妄想の誘惑には勝てない。ことゲームに関する内容においては。
「それでは、この問題の解答を山下……」
そんなこともあって、名前を呼ばれたことに気づかなかったのは必然だった。
(だとしたら今まで味方サイドだった内の誰かが……)
「おい、山下!」
「え? あ、はい!」
反射的に勢いよく立ち上がり前を見ると、怪訝そうな顔をした教師と目があった。数人の生徒からクスクスと笑いが漏れる。どうやら指名されたらしい、とようやく認識することができた。
「問2の答えだ」
そう言われて焦りながら教科書のページをめくるが、話を聞いていなかったため《問2》とやらの記載場所など分かるわけもなく。
「えっと……すみません、何ページでしたっけ」
腑抜けた声でそう尋ねた俺に、教師は軽くため息をつきながら答えた。
「……154ページ」
聞いていなかったことを教師は半ばわかっていたようで、その目線や声からも呆れ返っていることが容易に感じ取れた。生徒達の笑い声は余計に大きくなってしまった。またやってしまった、というのが俺の率直な感想だった。
言われたページを開くと、《基本問題》と太字で書かれた下に、《問2》の表記が確認できた。その文字通りの問題ならばごく基本的な問題のはずで、授業を聞いていればわかる範囲のことだ。……聞いていれば。前述のとおり授業の内容は全く俺の頭に入っていない。
何とかヒントを探そうと黒板に目をやる。垂直に交わった直線が二本と、その上を斜めに走る直線が一つ。その横にはⅹやらyやらの文字とその他の数字でできた式。——関数の問題だろうか。読み取れた情報はそれだけだ。
「答えは何だ」
追い討ちをかけるように教師が聞いてくるが、もちろん俺には答えようがない。小声で「えっと……」などと考えるふりをして解答時間を引き延ばしにかかるが、それも既に限界に近い。
「……5分の3」
左から囁くような声が聞こえた。思わずそちらの方へ振り向くと、隣席の女子生徒、桜井さんがこちらを横目で見ていた。その数字の意味するところが初めはわからなかったが、すぐに問2の解答を教えてくれているのだろうと悟った。
「5分の3です」
一か八か、聞こえた数字を鵜呑みにして発言する。
「……その通りだ。この問題はグラフを——」
正解だったのだろう。教師は一瞬驚いたような表情を見せたが、それもつかの間、すぐに授業を再開した。ひとまずその場を凌ぎ、俺は安心して席に着いた。窮地を救ってくれたお礼をしようかと思い隣をもう一度見ると、彼女は何事も無かったかのようにペンを走らせていた。
***
授業間の休み時間、俺は机に伏していた。さっきの失敗が恥ずかしくて、ではない。あの程度の失態は何度も犯しているので、今更改めて恥ずかしいと思うことなどない。もちろん恥じるべきことだとは分かっているが、失敗続きの人生で諦めることには慣れてしまった。
そんな体たらくだから失敗のことなどとうに頭になく、ゲームのし過ぎによる睡眠不足を解消しようと眠気に身を委ねかけた、その時。
「ねぇ、山下くん」
隣から桜井さんの声が聞こえた。まさか今まで話しかけられたこともない彼女から声がかかるとは思ってもみなかった。
「あぁ、えっと……さっきはありがとう。それで、どうしたの?」
少し緊張しながらも呼びかけに応じる。特にすることもない五分間、たまには誰かと会話をするのも悪くない。……というのは自分を納得させるための建前である。
桜井さんは学年でも上位の成績で、運動神経は抜群に良い。おまけにクラス内でも可愛いと評判の人気者だ。俺だって彼女にまったく興味がないかと聞かれれば否定する。ろくに話したこともないので、今こそが絶好の機会なのだ。
「どうしたの、さっき。もしかして、具合でも……」
「あ、あれは……」
そう言って心配そうにこちらを見つめてくる。優しさからか俺の体調まで気遣ってくれる彼女を相手に「授業が退屈だったからゲームのことを考えていた」などとは言えない。只でさえ成績が悪いのに、不真面目な奴だという認識になってしまう。それも間違っていないのだから否定できない。
「まあ、ちょっと色々と考え事しちゃっててさ。ハハハ」
「何を考えてたの?」
何とか誤魔化そうと俺が答えると、すぐに桜井さんが第二の疑問をぶつけてきた。なるべく顰蹙を買わないように、慎重に言葉を選ぶ。
「えっと……趣味のことだよ」
「趣味ってどんなこと?」
実はかなり積極的なのだろうか、彼女はどんどん踏み込んだ質問をしてくる。普段の立ち振る舞いから大人しい性格だと思い込んでいた俺にとっては予想外の反応だった。
「……ゲーム」
それ以外にどう答えろというのか。結局、誤魔化しは失敗に終わり、回り道しただけ時間が無駄になってしまった。
ともかく、これで「桜井さんと仲良くなれるルート」は終わりだろう。せっかく隣席をゲットしたというのに。これでまた、俺の休み時間はひとりぼっちだ。
「へー、山下くんどんなゲームやるの」
しかし。桜井さんの質問はまだ終わらない。会話が終わったと思っていた俺は意表を突かれ、戸惑いながらもその質問に答えた。
「えっと、《ソード・フロンティアⅡ》っていう、最近発売されたRPGなんだけど……って、名前とか出してもわかんないよね、へへっ」
笑って誤魔化したが伝わるわけがない。この質問も、何とか会話が途切れないようにしようという彼女の気配りから来たものだということくらい、簡単に予想がつく。
「あっ、それ私もやってるよ」
自分の耳を疑った。成績優秀で友達もたくさんいる彼女が、つい二週間前に発売された、そこまで有名というわけでもない最新作のゲームを「やってる」とは。何かの冗談にしてもおかしな話だ。しかし彼女の顔を見る限り、俺を面白がってからかっているというわけでもなさそうだ。まさか、本当に知っているのだろうか。
とりあえず、その詳しい話を聞くことにする。
「えっ、桜井さんが、あのゲームを?」
「うん、私は今秘薬が見つかったところ。あのダンジョン、迷路みたいで大変だったなぁ」
「へ、へぇ……本当なんだ」
「フフッ、実はね。みんなにはあまり言ってないけど、結構ゲーム好きかも」
ゲームの内容をここまで詳しく知っているのは、やはりプレイヤーであるということだ。秘薬のストーリーは俺が三日前にクリアした部分。発売日にゲーム買ってやり込んでいたので攻略は速い方だと思われるが、それに追従するほどとは彼女の進行速度も相当らしい。彼女がいわゆるゲーマーであったことに驚くと同時に、少しの親近感を覚えた。
「ちょうど昨日、そのストーリークリアしたところだ」
「山下くん早いね。ダンジョンの迷路とか迷わなかった?」
「あれ、実は地下二階の奥の部屋にヒントがあるんだよ。あそこのアイテムを持ってくと、途中で正解の道を示してくれるから迷わないんだ」
「えっ、ウソ、知らなかった! もっと早く知ってたら迷わなかったのに……帰ったら行ってみよっかな」
「敵、結構強いから気を付けてね」
「大丈夫かなぁ。私あまりレベル上げとかしてないからすぐ負けちゃうかも」
いつの間にか、俺は桜井さんとのゲームの話に没頭していた。成績、運動神経、友達の数、一見似ても似つかない俺と彼女に、こんな共通点があったとは。「優等生はゲームなんかやらない」というのは俺の偏見だったらしい。
もともと交友関係の狭い俺だが、ゲームについて語り合える友人となるとさらに少なく、先のゲームもクラス内ではまず話題に上がることがなかった。それが、まったく接点の無かったクラスの人気者と、こんな形で話し合えるなんて。誰が予想できただろう。
今までゲームの話はクラスでは避けていたが、そんな遠慮も周りの視線もお構いなしに、俺はただ純粋に会話を楽しんだ。
「……で、レベリングの効率がいいのは——」
俺が言いかけたところで、授業開始のチャイムが鳴った。国語の教師が入ってきて、机上の出席簿を確認している。もう少し話せたら良かったのに。残念だ。
——残念だ。
クラスでの話題はあまり興味を持てず、退屈になって早く終わらせようとしていた。しかし今は、会話が終わってしまうことを惜しんでいる。話題が一致していたから興味を持てたというのもあるが、それだけではない「喜び」のようなものをどこかで感じていた。もしかしたら、彼女とは気が合うのだろうか——そんな思考が浮かび上がったことに驚き、なんだか照れくさくなって、思わず下を向いた。
「ねぇ、さっきの続き、昼休みに教えてね」
既に次の授業の準備を終えていた桜井さんがそう告げてきた。心なしか、彼女の表情もいつもより少し明るい気がする。
「……うん」
少しニヤついているかもしれない顔を見られたくなくて、顔を向けずに頷きながら小さく一言だけ返すと、彼も急いで教科書を探し始めた。人気者とか日陰者とか、上辺だけで人を判断してしまうのはもったいないことかもしれない、と心の片隅に思いながら。
……が、俺はまたしてもやってしまったのだ。
「それでは授業を始め……山下くん? どうかしましたか」
「あの、すみません。教科書忘れました」
再度教室中から笑い声が起こった。隣に目をやると、桜井さんが小さく笑いながら教科書を机の真ん中に置いていた。