奴は現れた。
物理室に生徒はほぼ揃っていたが、先生の姿は見えなかった。急ぐ必要はなかったようだ。
自分の席に着くと、隣では七島優子が黙々と教科書の問題を解いていた。相変わらず勉強の鬼である。 一体何がそこまで彼女を駆り立てるのか。
前の方を見れば、何やら進学クラスの人間のところに普通クラスの人間が群がっている。
どうやら勉強を教えてもらおうと成績優秀者の面々に教わっているらしい。
囲まれている進学クラスの人間もまんざらではなさそうだ。進学クラスといっても同じ学生。同級生から頼りにされれば嬉しいのだろう。
それに比べると俺がいる後方の席はとても静かだった。黙々と個人で勉強にに取り組んでいる。
進学クラスには勉強に青春をかけている人間が少なからずいて、そういうやつはそっとしておくのが暗黙の了解になっている。
その勉強に青春をかけている人間の筆頭が、校内一の優等生、七島優子である。
七島は前方で行われている勉強会という名のおしゃべり会には目もくれず、今日も淡々と問題を解いている。その集中力はすさまじく、誰かが目の前で彼女の気を引こうとして何かしても、その集中力が揺らぐことはないように思えた。
現に、過去そういうことがあって、何人もの男子生徒が撃沈してきたのを俺は横で見てきた。
まず初め、自然な挨拶から会話への展開をみせようとしたやつがいた。そいつは勉強中の七島優子から「声」を引き出すことに成功した。便宜上、そいつのことを「勇者」と呼ぶ。
だが、「勇者」は七島優子の口から「こんにちは。」「いえ。」「そうですね。」以上の単語を引き出すことができず撃沈した。
そ れから何人かの戦死者が出た後、今度はその七島優子の優秀さに目を付けたやつがいた。便宜上これを「開拓者」と呼ぶ。
そいつは七島優子のありとあらゆる面を誉めちぎった。そして七島から「笑顔」を引き出すことに成功したのだ。
単語のみでの素っ気ない応答は相変わらずだったが、なんと最後に七島は「開拓者」に対して笑顔を向けた。その時起きたざわめきを俺は忘れはしない。
だが、調子に乗って誉めちぎり続けたのが不味かった。「開拓者」は甘言賛美を繰り返し、彼女をもっと喜ばせようとしたのだ。
すると七島優子は徐々にその表情を曇らせていき、最終的に「開拓者」に不信感を顕わにした。
その冷たい目に「開拓者」は一目散にその場を逃げだし、周囲は静まり返った。
後日、同じ戦法を試すも同じ策は彼女の前には通じず、「開拓者」は撃沈した。
七島優子の難攻不落ぶりが二年生の間で噂になってくると挑戦者は逆に増加した。
高校生男子はみんな命知らずなのだ。
しかし、先の二人以上の戦果を挙げることは叶わず、多くの人間が七島優子の前に散っていった。
もう彼女の笑顔を見れることはないだろう。そんな雰囲気が挑戦者たちを包み始めたころ。
「神」は現れた。
今までの挑戦者は全員、理系の選択授業で物理を選択した人間であった。だが「神」は生物を選択した人間。あろうことか「神」は七島優子に挑むべく単身物理室へと乗り込んできたのだった。
そして神はその御業で「声」「笑顔」のみならず、「驚き」「楽しみ」「興奮」などあまたの感情を引き出した。これにより「七島優子ロボット説」が覆されることになったらしいのだがそれは別の話。
はたして「神」はいったい、何をしたのか?
「神」はなんと、何もないところから鳩を召喚したのだった。
つまり、手品を七島優子の目の前で披露したのだ。
始めこそ突然始まったマジックショーに不信感を見せていた七島優子ではあったが、三匹目の鳩が神の学ランの胸の隙間から顔を出したときに
「わあ」
と普段の鉄面皮が嘘のような反応を見せた。
それから七島は堰を切ったように感情を露わにし、
「凄い」「どうやって?」など数々の新単語と表情を披露。ギャラリーを騒然となっていた。
そしてとどめとばかりに「神」は「特大のやつを披露する!」と、宣言をした。
七島優子の方も完全に食いついていて、そわそわしながらそれを見守っていた。
難攻不落とうたわれた優等生を落とす者がとうとう現れるのかと周囲の期待が高まる中、
「神」は一世一代の大魔術を披露するべく仕込みを解放した。
――だが、ことはそうはならなかった。新たな勢力が、また、現れたのである。
そう、「先生」である。
「神」が最後の手品を披露する直前、生物の担当の黒岩先生が物理室へと乱入。
生物選択である「神」を自分の授業へと連行していき、一世一代の大魔術は不発に終わったのだった。
「神」の奮闘を見守っていた歴戦の挑戦者たちは「神」の突然の終焉に涙さえ流していた。
更に残念なことに、「神」が最初に召喚した鳩は学校で飼われていた個体であること。
「神」が無断で鳩を持ち出したことが発覚。
また、それまでに「七島優子さんに物理の時間、男子生徒が絡んでいる。」と女子生徒たちからの告発もあり、更にこの「神」のことが決定打となる形でこれら一連の騒動が明るみになった。
結果、「神」は、鳩小屋の掃除をすること、
授業以外での物理室の出入りを禁止された。
七島優子にはお咎めがなかったものの、さしもの彼女でも「神」が連行された際には動揺を隠せずにいたようだった。
その動揺は、手品が最後まで見られなかったことに対する落胆なのか、
はたまた自分のことで騒ぎを起こしてしまったという責任感からくるものなのかは、意見が分かれるところらしい。
この一連の騒動はのちにうちのクラスの傍観者、天城望の手によって「神の一件」と名付けられ戸成高校の語り草となっている。
この話をするときは最後に神の名前を言って話をしめるのがお約束らしいので、俺もそれに倣うことにしよう。
「神」の名前は愛田公平という。
愛田は本当に何をしでかすか予想がつかない。踏切になったり「神」になったり。
しかも当人は至って真剣なのが余計タチが悪い。進学クラスに入っているので成績は悪くないはずなのに、行動や雰囲気が成績に追いついていない。いわゆる雰囲気バカなのだ。
そして、この「神の一件」以降、戸成高校の生徒のたちの間ではある不文律が出来上がった。
それは、「勉強している奴にちょっかいをかけない」というものだった。
俺が今日の昼休み、2ーDの教室に侵入してわざわざ勉強をしていたのもこれが理由だったりする。
そして、この暗黙の了解は、騒動の被害者である七島優子の場合にはより強い意味合いとなる。
「七島優子の勉強の邪魔をしてはいけない。話しかけてもいけない」
そのような取り決めが教師との間で交わされたのだと愛田は言っていた。
先生への質問や発表以外で七島優子が口を開くことはもはやないだろう。
七島優子はいつだって勉強しているのだから。
男子たちが攻略に失敗したあのときから、学年の高根の花は鉄壁の城砦へと変貌を遂げたのだった。