答え合わせ
それからというもの、クラスは神の話題で持ちきりで、休み時間には他の学年からも見物人が訪れるほどの盛り上がりを見せた。
俺もトイレにいくついでにその姿を拝見したが、教室の窓際に禿が鎮座している姿はインパクト十分。この破壊力の前では七島優子が物理の補習者リスト入りしていたことなど粗末な問題だと思える。
天城とともに作った武勇伝は、既に天城の手によって流布され戸成高校の語り草となった。
その武勇伝の中に、神の行動の動機についての説明は一切ない。
『夏休みを前にひと波乱を起こしたかったんだろう』
『試験明けの開放感に身を任せた結果じゃない?』
『夏休みの開始を2日勘違いしていたんだ』
廊下にいる見物人たちは神の奇行の理由について、好き勝手に憶測を並べていた。自分とって関係のない話題はネタにするにはうってつけだろう。
事件の背景にある動機が大事にされるのは可哀想な被害者が居るときだけ。
そして、この一連の騒動で自分のことを被害者だと思っているのはおそらくあの優等生だけだ。
どう考えても、そのことを他の誰かに知られるわけにはいかなかった。
時間は流れて四時間目。夏休み前最後の授業は物理だった。この授業の後は終業式となる。
そいつはいつものように勉強をしていた。俺が席についても挨拶はもちろんのこと一瞥することさえない。
「えー。昨日は補習お疲れ様でした。皆さんよく勉強し直してくれたようで不合格者はなしです。
正直、夏休みまで授業をするのも面倒……もとい、皆さんも大変でしょうから本当に良かったです。ありがとう」
あの簡単すぎた補習の問題は生徒と先生の夏休みを守るためであったらしい。それならあの難易度にも納得だ。
不合格者がいなかったことで俺が昨日職員室で苦し紛れに吐いた嘘がばれる心配もなくなった。
昔はそういうこともあったらしいが今どき、教師役に生徒を使わせてほしいなんて普通は通らない。
それだけこの優等生に対する周りの扱いは特別で、だからこそ、俺はこの優等生に関わらないようにした。
だが、近くにいれば嫌でもわかることがある。わかってしまうことがある。
それが、自ら望んで近くにいたわけではないとしても。
こいつと隣の席にならなければ俺は、早川の作戦の存在に勘付くこともなかったし、泣いた人間を無視する薄情者として糾弾されることもなかった。
七島の補習の偽装に気づくこともなく、早川の作戦に協力することもなかっただろう。
今なら俺は確実に、こいつの隣の席になったことを不運だったと呼ぶことが出来る。
「では今日の授業はこれまで。皆さんよい夏休みを。宿題を忘れないようにね」
池尻の締めの挨拶で授業は終わった。それを合図に他の奴らがぞろぞろと物理室を出ていく。
声を掛けるタイミングが重要だ。もうこれ以上余計なことで面倒には巻き込まれたくはない。
「……なんでしょうか?もう貴方と話すことは無いはずですが」
クラスメイトが出払ったタイミングで声を掛けると、七島の冷ややかな声だけが返ってきた。
「今朝、あんたがしてきた質問の答えを持ってきた」
「……それならわからないと言っていたじゃないですか」
七島は俺の方を見ずに荷物をまとめていた。
「今朝の時点じゃわからなかった。だから、あの後じっくり考えたんだよ。それでわかった」
俺が話をしていても、七島はこちらを見もしなかった。相当警戒されている。本当なら話したくもないのだろう。俺だってそうだ。
自分の秘密を知っている赤の他人なんて、気味が悪くて仕方ない。
「……一応、答えだけ聞いておきます」
それでも互いに無視はできない。自分の安全を脅かすかもしれない存在を放置はできないはずだ。
「その前に。あんたは俺に今朝『答えは提示していた』って言っていたよな?」
「……ええ。確かに言いました」
「……なら答えはこうだ」
だから、俺はその事実をなかったことにする。
「……あんたが補習を受けたのは、もう一度テストで100点を取るため。失敗してしまったテストにリベンジをするためだったんだ」
七島はそこでようやく俺の方を見た。微かに開いた目。上がった眉。だが、その表情の変化も一瞬のことで、すぐに憮然とした表情に戻る。
「……だってそうだろう。あんたはテストの点数が悪くて泣いた。そういうことになっているはずだ。そう自分で言ってたじゃないか。早川も含めた大勢の前で」
俺は不安定な理屈を持って、確信めいたように話していく。
「……これは進学クラスの知り合いが言ってたことなんだが、進学クラスのやつにとってテストの点数は大事なものなんだってな」
「それにだ。俺はあんたがテストで非常に残念な点数を取っていたのを知っている。……99点。0点よりもある意味悔しい点数だ。あと一歩で100点だったんだから」
持っている情報をつなぎ合わせて納得のできる解答を作っていく。
「……だからあんたはテストをもう一度受けるために補習を受けようとした。これが答えだ」
「それとも……それ以外に補習を受けた理由があるってのか?」
そして最後に、念を押すように聞いた。俺の意図が七島に伝わるように。
「早川があんたのために準備していたことを知っていながら補習を受けなきゃいけないような理由が。他にあったって言うのか?」
すぐに答えは返ってこなかった。
詭弁だということぐらいわかっている。俺は意図的に決定的な事実を無視している。
それでも俺は、それが間違っているとは思わない。正しさを突き詰めることが、必ずしも正しくあるとは思わない。
……後は、俺が提案したこの正しさを優等生が認めるかどうか。
「……いいえ。ありませんね」
瞑目しながら話を聞いていた七島が、すっと目を開ける。
「……それ以外の理由があると認めれば、私は陸央の行為を否定したことになってしまいます。
私のためにと動いてくれた親友を裏切るわけには、いきません」
それから七島は柔らかく笑って俺を見た。
「……もしよろしければ、また陸央に伝言をお願いしてもいいでしょうか?」
「お安い御用だ。何を伝えればいい?」
何故か自然に作り笑いをしていた。七島の笑みに釣られたのか、希望通りの展開に安堵したのか。自分でもよくわからなかった。
「……貴方が今言った理由を陸央に伝えてほしいのです。私はテストをもう一度受けるために補習を受けようとしたのだと……」
七島は言い淀み、改めてこう言い直した。
「……いえ、学校から誰にも知られることなく抜け出すなんて絶対に無理だと思っていたから。
せめてテストだけでもリベンジしたくて、私は補習を受けようとしたのだと。そうお伝え下さい」
どこまでが本当の言葉かはわからなかった。
……まあ赤の他人の俺に、それがわかるわけがないのだが。
「わかった。伝えておく」
「お願いします。……私の口からはとても言えそうにないので」
七島は丁寧に頭を下げる。次に七島が頭を上げたときには作り笑いは消えていた。
◆
話は終わり、俺達は物理室を出た。
「……信じてはもらえないかもしれませんが、私は陸央を傷つけたいわけでも、否定したいわけでもありませんでした」
物理室の扉を閉めながら七島は言う。
「ただ、何も起きないようにすることが一番だと思っていただけなんです」
その考え方には共感できるものがあった。しかしそれを口に出しはしない。
「……ですが、何もなかったことにするのも良い方法だとは思います」
返事はしない。してしまえば取り繕ったものに綻びが出てしまう。
「……最後に一つだけいいですか?」
七島に呼び止められ無言で振り向く。
「どうして貴方が補習を受けたのか私にはそれがわかりませんでした。帰宅部のエースと呼ばれるほど家に早く帰ろうとする人が、学校に居残りになってまで補習を受ける必要がどこにあるのかと」
「……俺を帰宅部のエースなんて呼ぶのはあんただけだ」
「初めは私への嫌がらせのためかと思っていました」
七島は俺の文句は無視をして話を進める。
「今まで、そういう目に遭うことは珍しいことではなかったので。でもそれは違いますよね。……さっきのやりとりでわかりました」
確信めいたように七島は言う。
「貴方が補習を受けたのは、陸央を傷つけないためだったんですね」
……答え合わせには応じなかった。俺は黙って七島に背中を向ける。
「貴方のことは覚えておきます。帰宅部のエースさん。……もうお互いに話すことはないでしょうが」
背中越しに七島が言う。
振り返り、捨て台詞のように俺は言った。
「……俺は帰宅部のエースじゃねえって言ってんだろ」




