補習終了。そして翌朝の物理室にて
かくして、補習を受けることになった俺ではあるが、しっかりと早く帰るための算段はつけていた。
…鷲塚は先生の中でも部活第一主義の先生。高速でSHRを終わらせるのも生徒の部活の時間を少しでも増やすため。そんな先生がダラダラと生徒を拘束するわけがない。
「終わった奴から俺のところへ持って来ていいぞ!その場で採点して合格だったらすぐ解放してやるからさっさと持って来い!」
テストが始まって20分。鷲塚は予想通り生徒を早く帰るための措置を取った。俺は真っ先に立ち上がり答案用紙を持って鷲塚の元へ向かう。
「早いな!まだ20分も経ってないぞ?」
鷲塚は自分の腕時計を見て言う。
「ここまで本番の問題と同じならすぐ解けますよ。」
物理の補習のテストの問題は、本番用の問題の数字を一部変えただけの作った人間の温情を感じるものだった。図形やグラフに至ってはまるっきり本番の使い回しという始末。解くのに苦戦する方がおかしい。
「池尻先生も全部の問題を作り直している暇はなかったんだろう。」
鷲塚は池尻の直筆で書かれた解答用紙を見ながら丸付けをしていく。
「88点。合格だ。」
「あざっす。」
俺は答え合わせの済んだ解答用紙を掴んで、すぐさま自分の席に戻り、「さようなら。」と席に置いてあった鞄を担いで、その場を後にした。
本日の学校の終了が午後2時15分。物理室を出たのが3時16分。
いつもの授業日程の下校時間がおおよそ3時28分であることを考えれば。
「まだ早帰りは終わってねえ。」
自転車を飛ばして校門を抜け、自宅への道を行く。
放課後のこの時間は貴重だ。この時間を無駄にするつもりはさらさらなかった。
◆
少しばかり居残りになったくらいで家に帰ることを諦めているようなら俺は冗談でも帰宅部のエースとは呼ばれなかっただろう。
放課後に学校で何が起きていたのか。やることをやってさっさと家に帰った俺が知るわけもなく、事の全容を俺が知ったのは翌日、夏休み前最後の学校でのことだった。
◆
俺は個人的な私怨を晴らすべく早川の作戦に一枚噛んだ。作戦の成否はこの際どうでもいい。七島が早川に連れ出された時点で俺個人の目的は果たされたのだから。
ただ、関与した以上は後始末まできっちり済ませておきたかった。
俺は物理担当の池尻を探していた。先に職員室を訪ねたが先生はおらず、こっちに来ているという話を聞いて物理室まで来たのだが。
「まだ来てないのか?」
出来れば誰にも見られることなく用を済ませておきたかったが、仕方ない。今日の四時間目の物理のときにでも言えばいえばいいだろう。
「犯人は現場に戻ってくると言いますが、本当ですね。」
それほど声を張っているわけでもないのにやたらと通りの良い声。まさかと思い振り返る。
「昨日はどうも。帰宅部のエースさん。」
優等生、七島優子が物理室の入り口に立っていた。
「その『帰宅部のエース』って呼び方はやめろって言わなかったか?」
「そう呼ぶのがふさわしいと思ったので。おかげで昨日は問題なく学校を抜け出すことができました。」
おかげとか言う割には、さっきの帰宅部のエースという呼び方には皮肉が込められていたように感じた。
「それは良かったな。そんじゃあ。」
適当に返事をして、俺は物理室を出ようとする。
「そのことについては感謝しています。」
しかし、優等生は腕を突っ張って入り口を塞いだ。
「おかげで私の親友の努力が無駄にならずに済みました。」
『そのことについて』感謝しているのは本当らしく、優等生は非常に不本意そうだった。
「どうしてあんな真似をしたんですか?」
「…あんな真似?」
さてなんのことやらと、俺は首を傾げてみせる。
「シラを切ろうとしても無駄ですよ。貴方は物理の補習者なんかではなかったはずです。…陸央から少しだけ貴方のことは聞いています。時間の無駄は嫌いなんでしょう?」
七島は手を煩わせるなとでも言いたげに声を苛つかせていた。
「…なら、手っ取り早く俺が合格していたっていう証拠を見せてみろよ。」
わざわざ自白することもない。挑戦的に俺は言った。
「今、貴方がここに居ることが何よりの証拠です。」
七島は俺を手で指し示しながら言った。
「貴方の不正は池尻先生に確認を取られればすぐに露見していまいます。だから貴方はわざわざ朝早くに学校来て、誰かに確認を取られる前に自分で変えた点数のズレを修正しに来たのではないのですか?」
「違うと言ったら?」
「池尻先生に確認を取るだけです。…差し支えないのであれば一緒に行きますか?先生のところへ。」
「遠慮しておく。」
「…それは私の指摘が正しいと認めたと取ってよろしいですね?」
「ああいいぞ。確かに俺はテストの点数を自分で下げて、補習を受ける権利を得た。」
自分から点数を上げるのならともかく、自分から点数を下げに行くのなら先生達は疑ってこないと考えた。解答用紙への細工も家でやって済ませてある。後はそれを池尻に見せて、自主的に補習を受けたことを報告すれば良かったのだ。
「まさかお前の方も人のテストの点数を見ていたとはな。」
なんの因果だろうか。ここまでお互いに同じことをしているとは思わなかった。
「…何故そう言えるんですか?」
七島は抑揚のない声で聞いてくる。
「俺が自分のテストの点数を操作したことを知っているからだ。操作される前の元の点数を知ってなきゃ、点数が変わったこともわからないだろ。…弁明があるなら聞くぞ?」
「いくらでも弁明はできますが。…この際、もういいでしょう。」
七島は討論の勝ち負けには興味がなさそうだった。
「たまたま目に入ったんです。見ようとしたわけではありません。」
「別にそこはいいだろ。俺だってお前の点数を見てる。」
「妙なところで公平ですね。」
「あとで不平を主張されても面倒だからな。…それで?俺がわざと補習を受けたからなんだって言うんだ?」
俺は腕を組む。
「お前の方だって自分から補習を受けに行っただろう。不正がどうこう言える立場じゃねえはずだ。」
「一応聞きますが、私が本当に60点以下を取っていて、本当に補習だったという可能性は?」
「俺の方こそ池尻に確認しに行ってもいいんだぞ。なんなら一緒に自首するか?」
俺と七島の立場はほとんど変わらない。俺がされて不味いことはこいつだってされたら不味いのだ。
「それは困りますね。それほど怒られはしないでしょうが。妙なことをしたと騒がれたくはありません。」
…自分の偽装工作の補完と、自分の妨害をしてきた相手の牽制のために俺たちはここにいる。
「なあ優等生。」
…そしておそらく、秘密を隠しておきたい相手も同じ。
「お前がわざと補習を受けようとしたってことをお前の親友は気づいているのか?」
すると七島は少しだけ表情を緩め、呆れたように言った。
「気づいていると思いますか?貴方がわざと補習を受けたことにだって気づいていないのに。」
「合格ギリギリだった俺はともかく、お前が補習を受けるなんて考えられるわけねえだろ。」
「そうでしょうか?赤の他人の貴方は気づけているじゃないですか。」
「俺はお前のテストの点数を見ていたからな。答えがわかっていれば途中式だって書ける。」
七島優子は補習ではないと自分の目で見ていたから俺は七島の思惑に気づくことができた。
…気づくことができてしまった。
「答えがわかっているなら途中式もわかる。ですか。」
優等生は物憂げに目を伏せ、視線を落とす。
「それなら、私がどうして補習を受けたかもわかるんじゃないですか?」
「…どうしてそんなことを聞く?」
「私と同じことをした貴方ならわかるかと思ったので。答えはちゃんと提示していましたよ。私は。」
優等生はまたゆっくりと顔を上げこちらを見た。鋭い視線はそのままだが、今度は敵意ではなく、値踏みされているような気味の悪さを感じた。
「…お前が何を思ってこんなことをしたのか俺にはわからない。」
答える義理はないと思った。それを考えるのは俺の役目ではない。
赤の他人が、目の前の相手のことがよくわかっていない人間が、なんの事情も知らないやつが考えることではない。
「そういうことだから話は終わりだ。俺は池尻先生を探す。」
俺は鞄を担ぎ直して、出入り口に立っている七島の脇を通り抜ける。七島は今度は俺を引き止めようとはしてこなかった。
「…別に俺がしたことを周りにバラしてくれてもいいが」
すれ違いざまに俺は言う。
「そのときはお前がしたことをお前の親友にばらすからな。」
すると七島は乾いた笑みを浮かべながらこう返してきた。
「…それでもきっと、陸央は私がそんなことをしたとは信じてはくれないでしょうけどね。」




