「間違い」の証明
職員室で全ての用事を済ませ、俺は全力疾走で物理室に向かう。
相当、時間を喰ってしまった。これで補習のテストが始まっていれば全てが水の泡だ。
物理室の扉は締め切られていた。中から私語は聞こえず、廊下の窓からは席に着いた補習者たちが見えた。
扉を開けて中に入る。クラスメイトを含む補習者たちの視線が俺に集まる。
「……ダメだったか?」
テストはすでに配り終わっているようであった。シャーペンと消しゴム以外の筆記用具は机の上には見当たらず、連中はすでに用紙に名前を書き入れていた。
「まだ始まってないよ。名前だけは先に書いとけって先生が言ったの」
教卓にいた早川が教えてくれた。俺は胸を撫で下ろす。
「……それで。七島が補習じゃないって証明は見つかったのか?」
教卓に鎮座していた鷲塚が言う。
俺は正直に答えた。
「それは見つかりませんでした。先生のように池尻先生に確認の連絡を取ろうともしましたが、電話はつながらなかったです」
「でも」と俺はすかさず言葉を継ぐ。
「俺はこの目ではっきり見たんです。七島さんがきちんと合格点を取っているのを。
だから何か手違いがあって、七島さんは補習になっている。だからその手違いが何なのか証明すれば、七島さんは補習ではないってことになりますよね」
周囲の承諾を得ることせず、俺は教卓の上にあった補習者のリストを開いた。
補習者のリストは物理選択者の全員の名前が入った名簿によって作られていた。
その中に補習者と書かれた列があり、補習者の名前ところにはチェックが入っている。
七島優子の名前のところにもしっかりとそのチェックは入っていた。
「……やっぱり。おかしいと思ったんだ」
……この補習者のリストを見るのは初めてだったが、それがどんなものかは予想がついていた。
もしリストが補習者の名前だけを列挙したものであったなら、わざわざ、チェックが入っている。なんて言い方はしない。仮にもしそうであったなら、名前が補習者リストに入っている。とか、書かれている。という言い方になるはずだ。
補習者リストが名簿を流用して作ったものであるという、俺の予想は当たっていた。
そして、名簿である以上、そこには当然、俺の名前もある。
俺は職員室から拝借してきた赤ペンで補習者リストを修正する。
「先生。これが正しい補習者のリストです」
修正したリストと一緒に、俺はズボンのポケットから証明書となる用紙を、鷲塚に見えるように教卓に置いた。
「ああ。なるほど……これなら間違いも起こるだろうな」
その用紙を見た鷲塚は大いに納得していた。
鷲塚の横にいた早川もそれらを覗き見る。
「あー!そういうこと!なんだなんだ、簡単なことだったんじゃん!」
早川はしきりにうなずいてから、ちょっと呆れたように俺を見た。
「補習だったのは優子じゃなくて、あんただったのね」
◆
俺が補習者のリストにした修正は二つ。
一つ目は、七島の補習者のチェックをバツ印で消したこと。
二つ目は、俺の名前の補習者の欄にチェックを入れたこと。
「俺と七島さんは席も隣だし、名簿も上下で隣だから池尻先生も間違えたんでしょうね」
物理の授業の席順は五十音順で決まっている。だから、俺の次に隣の席の七島がテストを受け取る。五十音順で名前の並びが近いからこそ、俺は七島の隣に座っているのだ。
だが、これだけでは鷲塚を納得させるのは無理だろうと思った。
俺の信用のなさはもう痛いほどよくわかっていたし、あの優等生相手に正直さとか誠実さで勝負しても負けるだろうと思っていた。
だから俺は言葉ではなく、物的証拠をもって自分の正しさを証明することにした。
具体的に言えば、ズボンのポケットに入れっぱなしだった物理の答案用紙を修正したリストと一緒に提出したのだ。
「しっかし惜しいね! 初めは61点だったのに、途中で採点ミスに先生が気づいて59点に下げられてる。これがなかったら合格だったんでしょ?」
答案用紙をしげしげと見ながら早川は言う。
「そうだな。初めて見たときは絶望感が酷かった。思わずふて寝したくらいだ」
「これなら間違ってもおかしくない。名前が近くにあるうえに、合格だと思ってた奴が実は不合格だったわけだからな。
……大方、池尻先生のことだから、間違いに気づいてチェックを入れ直したときに、誤って七島のところにチェックを入れてしまったんだろう」
鷲塚も答案用紙を見ながら改めて言う。それから俺を見てにやりと笑う。
「でも黙っていればバレなかったと思うぞ? わざわざ自首するとは偉いな!」
「あはは……どうもっす」
適当に返事をして俺は自分の席へと移動した。
「そういうことだから釈放だぞ優等生。迷惑かけて悪かったな」
一番後ろのいつもの席に七島は座っていた。その隣にある俺の席は空いていて、俺はそこに座る。
「……あなたはいったい何を考えているんですか?」
聞こえるか聞こえないかの小さな声。だが、その声には確実に俺への批判が含まれていた。
俺はそれを無視した。何食わぬ顔で筆記用具を取り出してテストを受ける準備をする。
「ほら、行こう優子! 早くこんなところ逃げ出そう!」
興奮気味に早川が七島を呼ぶ。
「………………」
だが、七島は机の上の筆記用具を見つめ座ったままでいた。
「親友が呼んでるぞ。優等生。行かなくていいのか?」
見かねて俺は七島に声をかける。
「……行かなくてはいけないんでしょうね」
七島は諦めたように微かに笑うと、持ってきていた荷物をまとめ、早川のもとへと歩いて行った。
「優子を助けてくれてありがとうね! じゃあ行ってくるよ!」
早川は大きな声で言うと、七島の腕を引いて物理室を出て行った。
「……七島を助けたわけじゃないんだがな」
俺のそんな独り言が聞こえるはずもなく、
「では、大変遅くなったが物理の補習のテストを始める。本番と違って75点以上で合格だから、ほとんど同じ問題だからって気は抜くなよ!では始め!」
俺は微かに残ったテスト勉強の記憶を頼りに、物理の補習のテストへ挑むのだった。




