「…それで、それの何が問題なんでしょうか?」
翌日、木曜日の学校は短縮日課だった。授業時間が10分短くなり、普段なら45分ある昼休みもたったの20分にまで削減された。
「この時期は本当に忙しくてな。まず期末テストの作成と答案の返却があっただろ、通信簿の成績も出さなきゃいかんし、人によっては部活の合宿やら試合やらの手配もしなくちゃいけない」
鷲塚が珍しくSHRの時間を使って話したのは、どうでもいい愚痴だった。
「なので今日は忙しい先生達のために学校が早く終わる。帰りのSHRもやらないから授業が終わったらとっとと帰れよ!」
それなら昼休みも午後の授業もなしにして、昼に解散でよくないかと思うのは俺が帰宅部だからだろうか。
「それから、わかっているとは思うが今日の放課後は物理の補習のテストがある。ここで合格できなきゃ夏休みに学校に来ることになるから死ぬ気で受かれ!以上!!」
というわけでうちのクラスの物理選択者のほとんどは補習に向けて最後の頑張りを見せていた。こんなときこそ少しでも勉強時間が欲しいところだが、生憎と今日は短縮日課。時間はあっという間に過ぎていった。
「では今日はここまで。最後に質問のある人は?」
本日最後の授業である数学が終了し、担当の小清水が最後に尋ねてくる。
しかし、うちのクラスで授業終わりのこのタイミングで質問した奴は未だに一人もいない。
小清水もそれはわかりきっている。これはいわば、小清水なりの終わりの合図だ。
「では鷲塚先生からも言われていると思いますが、今日はSHRはやらずにこのまま下校になります。日直の人は戸締りだけ忘れないでください」
そうして小清水は教室を出ていき、それに呼応するようにクラスの連中も帰り支度を始めた。すでに支度を終えていた俺は立ち上がる。
「そんなわけないじゃないですか! ありえないですよ!」
すると階段の下のほうから大きな声がして、俺は足を止める。
「これは見に行かなきゃ」
騒ぎを聞きつけたときのやつの行動の速さといったら。虚弱体質はもはや自称ではないかというほどの俊敏な動きで天城は階段を駆け下りて行った。
「俺らも行こうぜ!」
異変に気付いたクラスの連中もそれに続き、階段の下へと向かっていった。
「……ノリがいいと言えばいいのか?」
一人取り残された俺は教室の中からその様子を見ていた。どうしてもアレに混ざる気は起きなかった。
とにかく早く行こうとカバンを担ぎ直して教室を出た時だった。
「やばっ、こっち来る!!皆!いったん教室に戻れっ!!」
誰かが叫んだと思うと、さっき出て行ったクラスメイト達がわあわあ言いながら教室に戻ってきた。
俺は押し寄せる人だかりを入り口の横に避難してやり過ごす。
戻ってきたクラスメイトは何故か一様に自分の席に着いていた。
それはまるで消灯後、夜更かしをしているのを先生に隠しているかのような光景だった。平然を装いすぎて逆に違和感があるし、何名かはこらえきれずににやけてしまっている。
それが盗み見していたのを誤魔化すためだというのはすぐにわかった。
一体誰が下で怒鳴っていたのか、声の主が階段から上がってくる。
「俺もそう思う。だから確認しに行くと言っているだろう」
まず上がってきたのは我らが担任、鷲塚直行だった。
その鷲塚に噛み付くように文句を言っているのが、さっきの聞こえた大きな声の主だ。
俺はその声に聞き覚えがあった。
「確認するまでもないでしょこんなこと! ワザワザ優子のところまで行くことないですよ!!」
さっきの声の主はやはり早川だった。ズンズンと進んで行く鷲塚の前に立って、進行を妨害している。
「念のためだ。念のため。サクッと行って聞いてくるからお前は早く部活に行け」
「嫌です! いいから早く戻ってください!!」
「ここまで来て戻る方が非効率だろう。いいから邪魔をするんじゃない。あんまりしつこいと先生も怒るぞ?」
しかし早川は退かなかった。これ以上先を行かせるわけにはいかないと鷲塚の前を塞ぐ。
「……おい、いい加減にしないか」
鷲塚の声がわずかに低くなる。
「……嫌です」
威圧的な態度に身を固くしながらも早川ははっきりと答えた。しかしその表情からは焦燥感が伺える。
明らかに、何かやばい状態の時の顔だ。
「邪魔だな」
だが、それはそれ。そんなことより、俺の帰宅時間が遅れていた。
俺は空気を読まずに二人の間を押し通る。
俺が近くに来たことに気づいた鷲塚は明るい顔になった。それから早川の後ろまで来た俺を指差して、
「ほれ、早川後ろで通りそうにしている奴がいるぞ。退いてやらないか」
……豪快な図体の割に鷲塚は搦め手も使えるらしい。言われて早川は恨めしそうに振り返った。
「……ごめん。邪魔で」
そして通ろうとしているのが俺だと気づいて、
「ああー!!いいトコに来たっ!」 と、歓声をあげた。
「うっせえな。何だよ」
あまりの勢いに俺は一歩下がる。
「あんたさ!確か、優子の物理のテストの点数見たって言ったよね!?」
……確かに俺はおとといぐらいにクラスメイトを誤魔化すためにそんなことを言った。
「見てるんだね!? よっし!!」
俺がうなずくと、早川はくるりと鷲塚の方へ振り返り、今度は勢いよく挙手をして、
「先生! ここに証人がいます!これで優子のところまで行く必要はなくなりましたよね!」
嬉々とした様子で言う。……話がさっぱり読めなかった。
「鷲塚先生、何があったんすか?」
早川よりも鷲塚に聞いたほうがわかると思い、尋ねる。
「今日は物理のテストがあるだろ?それの監督を俺がすることになったんだ」
「なんで先生が?」
「池尻先生が出張が入っていることを忘れていたらしくてな。慌てて飛んでいったよ」
鷲塚は苦笑いだった。要するにダブルブッキングだったと。
「それで池尻先生から補習者が書かれたリストを預かったんだが……妙な奴のところにチェックが入ってたんだよ」
鷲塚が小脇に抱えていた『先生がよく持ち歩いている黒い奴』には池尻の名前が書かれていた。
そこまで言われれば俺にもどういうことかわかった。
「要するに、池尻先生の補習者リストに2ーDの七島優子の名前があったってわけですか」
「そうなんだよ! そんなのありえないでしょ!?」
鷲塚の代わりに、早川が大きな声で答えた。
「それで、お前は七島の物理のテストの点数を知っているらしいが。それはどうしてだ?」
詰問するような言い方だったが俺は平然と答える。
「物理の時間に七島さんと席が隣なんですよ。だから見えたんです」
「なるほど。なら、そういうこともあるわな」
鷲塚は点数を見たことについては深く突っ込んでこなかった。
「で、どうなんだ?」
鷲塚の問いに俺は正直に答える。
「……ちゃんと合格点を取ってましたよ。本人は納得できる点数じゃなかったみたいですけど」
「それは本当か?」
「本当ですよ」
鷲塚は俺の方を真っ直ぐに見て、真偽を確かめているようだった。
「……まあ、こんなことで嘘をつく理由がないしな」
鷲塚は「手間を取らせた」と、一言、そして振り返った。
「……はあ〜。もう勘弁してよもう」
と、横にいた早川が気を緩めた瞬間だった。
「ちょっと待ってください。鷲塚先生。その人、嘘ついてますよ」
俺の発言に異議を唱える奴がいた。
「嘘をついてるって……何いってんの?」
早川が驚いた声を上げる。異議を唱えたのは俺のクラスメイト。この前俺をきつく問い詰めてきた女子の内の一人だった。
「この前、この人が七島さんのテストの点数を見たって言うから何点か聞いたんですけど、その時は『悪い点数を取った』って言ってました」
「……ふむ。そうなのか?」
その場を去ろうとしていた鷲塚が戻ってくる。不味いのはそれだけではなく
「あー、先生。それになんすけど、実はテスト返しの時に七島さんが泣いてるんですよ」
「テスト返しの時に七島が泣いた?」
「うっす。んで、そこにいるやつがなんか知ってるっていうから、ワケを聞いたら『テストで悪い点を取ったから泣いた』って言うんす」
いつの間にかクラスの連中が戻ってきていて、周りを取り囲んでいたのだ。
「それにですよ。最近、そこのと早川さんがコソコソ何か相談しているのを私見ました」
そのクラスメイトで証言で鷲塚は思い出したように言う。
「……そういえばお前ら、いつだったか陸上部の部室の前でも何か話していたな」
「あ。あと、作戦がどうとか言ってましたよ」
付け足すように別の奴が言う。これで鷲塚が疑うように俺たちを見始めた。
……またか。と思った。またこんな風にその他大勢の憶測だけで疑われるのかと。
「ちょっとちょっと、なんでそんな話になるの?」
たまらず早川が口を挟む。
「私はただ、優子が補習のはずがないって話をしてるだけなんだよ?」
このときの早川の態度に問題はなかったと思う。動揺しているわけでも、何かを誤魔化そうとしているわけでもなかった。
「……それがなんで何かを企んでるみたいな話になるの?」
早川は静かに怒っているようであった。へそを曲げることはあっても、早川が何かに腹を立てることは珍しいことのように思えた。普段は穏やかな早川が見せた新たな一面に、クラスメイト達は若干、怖気ついていた。
「だってさ……今までの話とか様子を鑑みるとさ、」
そして恐る恐る、その中の一人が言った。
「まるで、二人は七島さんが補習であることを隠しているみたいに見えるんだもん」
それを聞いて早川の顔がさらに険しいものに変わる。それを見た別の奴があわててフォローを入れた。
「ほら、それなら七島さんがテスト返しの時に泣いたのにも納得できるじゃん。進学クラスなのに補習とかになったらそりゃ泣くって」
だから、そう思っても仕方ないとばかりにクラスメイト達は互いに見合って、同意を求めあう。
それは、個人の意見を総意に変えるための、防御のようなもの。もはや連中にとっては癖になっているのかもしれない。
「……それで、優子が本気で補習になるような点数を取ったって思えるんだ?」
そのときの早川の声の冷たさには、横にいる俺ですらぞっとするものがあった。何かが爆発するような予感さえした。
「お前ら何を言い合ってるんだ」
だが、それを敏感に察知した鷲塚が間に割って入る。
「こんなところで言い合うよりもっと早くて確かな方法があるだろう。……そうだな?」
と、鷲塚は静観を決め込んでいた俺の方を見た。
「本人に聞くのが一番手っ取り早いっすね」
望みどおりの回答だったのか、鷲塚は満足そうにうなずいた。
「……お。噂をすればなんとやらだな。おうい、ちょっと来てくれ」
鷲塚は上の階にいる奴を手招く。階段の上でごった返していたクラスメイト達はそいつのために道をあける。
「……なんでしょうか。鷲塚先生」
クラスメイトが道を開けた先に、七島優子がいた。
「……陸央? 何してるの?」
七島は人ごみの中心にいる早川を見つけて声をかけた。早川は「まずったなあ」と頬を掻く。
「ちょっと、ね。鷲塚先生に捕まったというか……私が捕まえたというか」
「そうなんだ……それで先生。陸央は一体、何をやらかしたんですか?」
七島が鷲塚に聞く。
「待って。なんで私がやらかした前提なの?」
早川の発言はなぜか周囲の笑いを誘った。さすがに声に出して笑うやつはいなかったが。
「……違うの?」
七島は親友がやらかすことを信じきっているようだった。その様子に更に笑いが生まれる。
「違うでしょ?やらかしたのは……ええと、たぶんだけど、池尻先生だよ。補習者リストの優子の名前のところに補習者のチェックを入れちゃってるんだもん」
さっきまで冷たい声だった早川も親友の登場に穏やかさを取り戻しており、張り詰めていた空気も和んだものに変わり始めていた。
「私が補習者のリストに?」
「ああ。これにな」
鷲塚は持っていた補習者のリストを渡す。七島はそれを一礼をしつつ受け取り、中身を確認する。
「確かに私の名前のところに補習者のチェックがありますね」
七島は頭を下げてリストを返す。それから首を傾げながらこう言った。
「それで、それの何が問題なんでしょうか?」




