不毛な時間
(……いつまで丸くなってるつもりなんだ早川は。)
早川はうずくまって微動だにしていなかった。
もう教室に帰ってもいいかな。そんなことを考えてしまうくらいには時間が経過していた。
……泣いているわけではなさそうだが。
「……優子はさ、すっごく我慢強いんだ」
すると、早川が唐突に口を開いた。
「自分がしたいことがあってもそれで誰かに迷惑がかかるなら我慢する。我慢できちゃうんだ」
呟くように、早川は言う。
「それでね、優子が何かを我慢する時って、他の自分で楽しいって思えることで誤魔化すの」
顔はうずめたままで表情はわからない。
「そうかよ」
俺はとりあえず適当に相槌を打つことにした。
「それが優子にとっては勉強だったの」
「そうか」
早川はただ話したいだけなのか、俺の反応を気にしている様子はなかった。
「でもね、その勉強も初めから好きだったわけじゃないの」
「そうなのか」
俺は本当にただ、適当に返事をする。
「優子は勉強するしかなかったんだ…だから無理にでも勉強を好きにならないとやってられなかったんだと思う」
「そうだったのか」
「うん。優子は我慢して勉強も好きになったんだよ……信じられないでしょ?」
「そりゃ凄いな」
「そうかな……私はそうは思わないけど。」
「そうなのか?」
「うん。だってさ、そんなの本当に好きなことって言えないじゃん。自分のことを誤魔化してるだけだよ……」
「そうかもな」
「かも、じゃなくてそうなんだよ……それじゃいつまでたっても自分のしたいことできないままだよ……そんなの辛いでしょ?」
「そうだな」
「でもね、今度、優子が一番好きなことができるチャンスが来るんだよ」
「そうかい」
「だからさ……その一番好きなことができるようにって思ってね。優子に学校をサボらせてあげるって私は言ったの。家にも学校にもばれなきゃ大丈夫だって。そうするためのあてもあったし」
「そうなんだな」
「……あてにした人には断られちゃったけどね。」
「そうだな」
「そうだなって……ねえ、あんた、ちゃんと聞いてるの?」
「そうだな」
「……聞いてないね?」
「そうだな……ん?」
……しまった、適当にしすぎて同じ反応を繰り返してしまっていたか。話を聞いている風を装うために反応のバリエーションは被らないようにしていたのに……。
床のシミを数えていた俺はようやく顔を上げる。目の前には椅子の上で丸まっていたはずの早川が立ち上がっていた。
「おう、復活したか」
俺は手を挙げる。丸まって話をするのは終わったらしい。
笑顔に硬さがみられるが、表情も明るめ。無理にでも笑えるくらいの余裕は取り戻したようだ。
「私、大事な話をしてたんだけど……? 聞いてくれてた?」
そう言う早川の声音には低く、かなりの迫力があった。
あ、これ怒ってるな。と俺は直感した。
「俺には関係のない話だと思って全然聞いてなかった」
俺は更に怒らせる前に頭を下げた。
怒りを収めるために頭を下げるくらいの甲斐性は持ち合わせているつもりだ。
「聞いてないって……もう! ふざけないでよ!」
早川は声を上げて俺に詰め寄ってきた。俺は横にするりと抜けて距離をとる。
「んなこと言ったって興味のない人間の身の上話なんて聞く気ねえよ。反応が適当だったのは悪かったけども」
「けっこー深刻な話をしてたよ私! いくら優子に興味がないからって、そんな簡単にスルーできる話題でもなかったと思うけど!?」
早川の声はグラウンドの隅にまで届きかねないほど大きかった。
「そんなこと言われても興味ないもんは興味ないし」
「あんた、そこまで優子に興味ないの!? 変わってる通り越して、もはや変だよ!」
早川は声を荒げていた。
そういえば七島優子の隣の席になった時も確か、周りのやつからこんな風に驚かれたのだ。
本当に何も思わないのか。ちょっとくらい浮ついた気持ちにならないのか。と。
結局、俺はカッコつけているだけと思われて、本気で言っているわけではないとされた。
「そんなに七島優子に興味がないってのはおかしいことなのか?」
「……何? いきなり真面目になって」
「……どうも気になっちまってな」
早川は怒りをその眼に潜め、俺をにらみつけていたが、頭をワシャワシャと搔きまわすと、とすん、とまた椅子に座った。
「……だってさ優子、可愛いじゃん。頭もいいし、仕草もなんか上品だし、髪も凄い綺麗だし…これだけでも男子なら惹かれるものがあるでしょ?」
「そういうもんか?」
俺は首を傾げる。
「俺にはただ、顔が良くて頭が良いだけの、なんかよくわからんやつとしか思えないんだが」
「……あんたが言うそのよくわかないやつを世間は『美少女』って呼ぶんだよ?」
言われてまあ納得する。七島優子の整った顔立ちは、確かに美少女と呼んでも差し支えないものであることくらいは理解している。
「だけどよ早川、男子なら誰しも美少女に食いつくってわけでもないだろ?」
「そうかもしれないけどさあ。女の私が言うのもアレなんだけど、可愛い子がいたら少しは気になるってのが男心ってもんじゃないの?」
「いくら可愛かろうが、頭が良かろうが、よくわかんないやつのことなんて気にならないだろ」
俺は当然のことのように言い、
「よくわかんないからこそ気になるんじゃないの?」
早川はもっともらしく言った。
ここら辺の価値観の違いに、コミュニケーション能力の差が現れているように思えた。
「うーん……あんたの言うことって時々わかんないんだよね。間違ってるとかじゃなくて……よくわかんないっていうか」
「よくわからない表現を使うなよ。そんな簡単に人の考えが理解できたら苦労はないだろ」
すると早川はきょとんとしたように俺を見る。
「……なんだよ?」
「いや、あんたってそういう考えは普通に持ってるんだよね……他人と自分は違うみたいな考えっていうか……興味の対象がちょっと変わってるけど。」
「おい、まるで俺が常識ないみたいに言うのはやめてくれないか?」
「常識があるのに稀に変なことし始めるから際立っておかしく見えるんだよ!」
早川はまた立ち上がって声を上げる。
「おかしなことをしている自覚はないが、常識はあると思われてんならいい」
評価がマイナスでないというのなら俺は十分満足だ。むしろ下手にプラス評価になっているよりも嬉しいとさえ思える。
「ほら、そういうとこだって……気にするポイントがおかしいっていうかさ。あんたは周りを気にしてるの? してないの?」
「そりゃ、時と場合によるだろ」
「時と場合によっては気にしないの?」
「そりゃあ周りを気にしすぎていたら何もできなくなるからな」
自分を殺すつもりは毛頭ない。
「もう……それ、優子にも言ってやってよ。」
「優等生と話すことがないだろうから無理だな」
「あんたも優子も自分から人に話しかけるタイプじゃないからねえ……」
一人、落胆する早川をよそにグラウンドに設置されている時計を見る。昼休みはもう半分もなかった。
いつまでも早川の話を聞いているだけでは埒が明かない。さっさと結論を出してもらわないと俺の昼休みがなくなる。
俺はわざとらしい咳払いをして、それから早川へと向き直る。
「早川、結局のところ、お前はどうしたいんだ。」
俺が尋ねると早川はまた、ストンと椅子に座った。
「……それがわからないんだよ。どう動けば正解なのか……全然わかんないんだ。」
「わからないだって?」
「だって、優子は私がしようとしてること迷惑に思っているみたいだし……
家の事情だって私にとってはどうでもいいことでも、優子にとっては大事なことだと思うし……」
「何で今の質問で七島の話が出てくるんだよ」
「だってこれは優子の問題なんだよ?優子が出てくるのは当たり前でしょ」
「違う、今、俺はお前に話をしていて、お前の考えを聞いてるんだ」
「……何が違うの?」
俺としてはそんなに難しいことを聞いているつもりはなかった。
「俺は、優等生が抱えてる事情とやらが聞きたいわけじゃない。……というか、そんな大層なことなら知りたくもない」
余計なことを知ってしまえば無関心を貫けなくなる恐れもある。
「俺はただ、お前がどうしたいか。それだけを聞いてる」
「私は……優子が自分のしたいことをしてくれればそれで……」
「それは、お前が七島にしてもらいたいことだろ? 俺はお前がしたいことを聞いてるんだ。」
「私が……したいこと?」。
「そうだ。俺はさっきからそれを聞いてる。自分で俺に聞いたんだろ。自分はどうすればいいかって。」
「うん。だからあんたの考えを……」
「言っておくが」
俺はこれまたわかりやすくはっきりという。
「俺はお前がどうすればいいかなんて答えないし、そもそもわかんないぞ」
自分がどうすればいいかなんて本来、人に聞くものではない。アドバイスを貰ったり、指示を仰いだりすることはあっても、それらは動くための判断材料になるだけ。
人に意見を聞いといて、実は答えが既に決まっているなんてことはザラにある。早川だって、自分のしたいことがわからない。なんてことはないはずなのだ。
それなのに、俺に意見を求めるのは、自分の判断が正しいかわからないから。
だったら、俺は答えない。
「これはお前がどうにかする問題だ。俺が口出しするようなことじゃない」
「……何よそれ。自分は手伝いたくないって言ってるようなもんじゃない」
「わかってんじゃねえか。その通りだよ。こんなどうでもいいことに時間を割いてられるか。俺だって暇じゃないんだ」
「どうでもいいって、そんな言い方」
「だってそうだろ。俺は七島に興味はないし、お前と友達ってわけでもない。助ける義理はないって断るときに言ったはずだ」
「……言ったね。よーく覚えてる。まさか本気だとは思ってなかったけど……」
早川は疲れたようにそっと目を伏せる。それから大きく息を吸い込んで、ため息として吐き出した。
「……ほんとにさあ、みんな、ひどいもんだよ。」
早川は自分の眉間をこんこんと拳で小突きながら言う。
「優子は……サボりたくないって、人に頼んでまで伝えてくるし……普段頼み事なんて滅多にしないくせにだよ? そんなことしなくても直接言ってくれればいいのにさ……」
事の中心人物であるはずの七島優子は、学校をサボりたくないと言って、親友に遠回しに何もするなと伝えた。
「愛田君も……学校をサボるのはダメだって言うし」
協力を頼めそうな人間の中では最有力だったはずの愛田公平は、サボりはいけないことだと早川に正論を返した。
「天城君は……二人がやるなら協力するって言ってくれたけど、私のしようとしていることを認めているようじゃなかった。」
天城が協力をするはずがないとは思っていた。何事にも波風を立てたがらない傍観者がこんなことに参加するわけがない。
「あんたも……自分には関係ないって言って、全部私に決めさせようとしてる」
そして俺。ここまで話こそ聞いたが、自分に被害が出ないように立ち回り続けている。
「みんな、私に諦めろって言ってるようなもんじゃない」
そう、誰も早川がしようとしていることを歓迎していないのだ。
「サボりはいけないのはわかってるよ。興味がないのもわかったよ。馬鹿なことをしようとしてるのも理解してるよ。これが悪いことだってわからないほど、私、馬鹿じゃないつもりだよ」
早川は俺の方を見る。その表情は似つかわしくない愁いを帯びていた。
「みんなはそのこと、わかってくれてたと思う?」
俺は軽い調子で応える。
「さあな。そいつが頭の中で何を、どう考えているかなんて、そいつにしかわからないだろ」
そう簡単に人の考えを理解できたら苦労しないと言ったのは俺自身だ。
「けど、わからないから言葉にするんだろ。言葉にもせずに相手に察してもらおうなんておこがましいにもほどがある」
「そうだね。私、そんなこと言わなかったもん」
すると、早川はゆっくりと立ち上がり、俺に歩み寄ってきた。
「……でも私、思うんだ。自分に嘘を吐いていてもそれに気づかない人もいる。自分を押し殺しても平気な顔ができる人もいるって」
胸に手を当てて、訴えかけてくるように早川は言う。
「でもさ、自分の気持ちを騙して大丈夫なはずがないんだよ。そういう人気持ちは誰かが察してあげないといけないんだって私は思う」
早川の言葉に迷いは一切感じられなかった。
……俺はそれが正しいことのようには思えなかった。だが、単純に間違っているとも思えなかった。
「だから私はね。勝手にやるよ。たとえ望まれていなくてもやる」
早川はくすりと笑った。
「私がこの程度で諦めると思ったら大間違いだよ!」
いつもの明るい笑みではなく、口元をわずかにあげるだけのしたたかな笑み。
その笑みはたくましくもある早川の前向きさを称えているようだった。さっきまでのしおらしさはどこへやら。
「私はなんとしてでも優子に学校をサボらせてみせるよ!! それが私のしたいことだ!!」
固く握られた拳は意志の固さの表れか。ここで笑うことができるような女が一人で立ち直れないはずがない。
……つまるところ、俺がいなくても問題はなく、この話し合いは全くの無駄だった。
人に意見を聞いといて、実は答えが既に決まっているなどザラにあるのだから。




