帰宅部のエースと呼ばれて(二回目)
翌日、金曜日の四時間目、物理の時間は丸々自習の時間になった。
教室の前方には普通クラスの人間が集まっている。どうやら補習を回避するべく、頭を突き合わせて出題される問題の予想に躍起になっているようだった。
自然と後ろの席には、一人で静かに勉強したい人間が集まる。前回の授業と同じ状況が出来上がっていた。
俺は自分の席についてノートを開き、ひたすら勉強に励んでいた。
家で勉強せず、学校に居残ることもしない俺には貴重な勉強時間。無駄にすることはできない。
「……すみません」
ひとまず出題範囲を最後のページを見る。そして出題範囲のどこまでが頭に入っているのかを確認する。
夏休みの宿題とかでもそうだが、どうして勉強をするときにどこまでやればいいのかをついつい確認してしまうのだろう。それで、ある程度やると、またどのくらい残っているのかを確かめてしまう。
そんなことしてる暇があったら手を動かした方がいいはずなのに。
「あの、すみません」
こんなことをしてしまうのは集中できてない証拠だ。まだ周りの声も聞こえる。
早く、あのときの、優等生をシカトしてしまった時くらいの集中力を発揮せねば。
「あの……いいですか」
周りの雑音は無視して、教科書の内容を頭に叩き込むことだけに意識を集中させる。
これでも短期的な集中力には自信があるほうだ。
「……」
……しかし、愛田が断るとは。あの物理室での一件はそれほど尾を引いていたということか。
「……こほん。」
気づけば余計なことを考えていた。あれはもう終わったことだ。
結果的に早川の頼みを断ることには成功したのだし。もう気にすることではない
それよりも目下の問題だ。死んでも補習は回避だ。学校に居残るなど絶対にありえない。
集中……集中だ。
「……帰宅部のエースさん」
「誰が帰宅部のエースだ」
ふざけんなとばかりに周りを見る。元はと言えばそんな呼び名があったせいで、早川の目に留まることになって、あんな面倒な事態に巻き込まれたのだ。
しかし前見ても、後ろを見ても、廊下を見ても、誰も声をかけてきた様子はなかった。
……変だな。確かに声が聞こえたんだが。
聞き違えたのか。多分そうだろう。そもそも帰宅部のエースは存在しないと自分で言ったじゃないか。
だから誰かが帰宅部のエースという呼称を使うこともない。そう思い直して、また勉強に戻る。
「こっちです」
トントン、と誰かに左肩を叩かれた。
……そう、隣の席の人間から肩を叩かれたのだ。
そんなはずはないと思いながらも、確認のために横を向く。
「どうも」
そこには優等生、七島優子がいた。
そして、あろうことか、俺に話しかけているようであった。
◆
……非常にまずいことになった。まさか、二回も優等生から声を掛けられるとは。
しかもその二回とも俺は気づかずにシカトをしている。
これが他の七島優子崇拝者、特に普通クラスの連中に知られれば面倒になることは必至。
かといって、話をしたことがばれても厄介になるのは目に見えている。
理不尽な仕様ではあるが、それだけ七島優子の隣に座るというのはリスクのある行為なのだ。
アラーム機能の発見が無かったら俺は確実に席替えを所望していただろう。
「……人が集中しているのを邪魔するのはどうかと思うんだが」
迷惑だという雰囲気を、ありありと出して言ってやった。
「傍から見ると集中しているとは思えませんでしたから。手が止まっていましたよ」
優等生は平然と答える。
確かに開かれていたノートは白紙だ。しかし俺は勉強していないわけではなかった。
そもそもこのノートには未だ一回も文字を書いていない。授業をサボるためだけにある置物だ。
「俺は書いて覚えるタイプじゃないんだよ」
俺は教科書をひょいと持ちあげる。俺は問題の解き方の答えを見て覚えるスタイルなのだ。
「そうですか」
優等生は素っ気なく返事をした。
「ではそのままでいいので聞いてください。聞きたいことがあります」
そう言うと優等生もノートに向き直って勉強を開始した。
勉強しながら話す気なのか。自分から話しかけておいて、そういう態度はよろしくないと思うのだが。
「昨日、陸央……早川陸央がなにか私についてあなたに話をしませんでしたか?」
そんな態度に腹が立ち、俺は皮肉たっぷりに言ってやった。
「あんたが学校をサボりたがっているって話を聞いたぞ。それでそのためにあんたを学校から抜け出させるために手伝ってほしいと頼まれた。断ったけどな」
優等生は俺を横目で見ていた。しかしすぐに机の上の問題に視線を戻す。
「……そうですか。それなら良かったです」
優等生は全く動揺する素振りを見せず、淡々とそう言った。
「良かった?」
「ええ、私は学校をサボりたいなんて思っていませんから」
「はあ?」
これにはさすがに言い返すしかなかった。
「いや、あんた。この前俺のことを帰宅部のエースと誤解して声をかけてただろ。帰宅部のエースにサボりの手伝いをさせようとしたんじゃねえのか?」
「いえ、私は帰宅部のエースさんを探していたのは、陸央に力を貸さないようにお願いするためであって、学校をサボるお手伝いを頼むためではないです。」
「なんだそれ…」
開いた口が塞がらなかった。じゃあ早川の話は一体何だったというのだ。
優等生は尚も続ける。
「陸央は良い子ですから帰宅部のエースさんも協力しかねないと思いまして、先に私の方から釘を刺そうと思って声を掛けたんです」
俺は多分、このとき怪訝な顔をしていたと思う。
「……つまりあんたは元から学校をサボる気がないってことか?」
「そういうことになります。それをあらかじめ伝えておこうと思ったのですが、断ったのなら問題ありませんね。お手数をおかけしました」
七島優子は話をそこで打ち切ると、本格的に勉強を開始する。
だがここで終わられては、俺がわけがわからないままだ。
「おい、あんたが学校をサボる気がないってことを早川は知っているのか?」
知らないのならあいつが早合点して話を進めていることになる。
優等生はしばしの沈黙の後、答えた。
「……私が学校をサボる気がないことは伝えてありますが、陸央はそれを嘘だと思っているみたいです」
「なんでまた?」
七島はまた沈黙する。言葉に詰まっているという様子ではなく、不用意な発言をしないように考えているように見えた。
「……おそらく、私が周りに気を遣ってサボりたくないと言っているのだと陸央は思いこんでいるのでしょう。ですが、私が学校をサボらせて欲しいと、陸央に頼んだという事実はありません」
優等生は学校をサボりたがってなどいなかった。
だから、七島が学校をサボりたがっていることを俺が口にしても動揺を見せなかったのだ。
「…もしよろしければその旨を陸央に伝えてもらってよろしいですか?」
不意に七島が手を止めて、体ごと俺の方を向いた。
「……何で?」
「私の口から言って信じないことでも、他の人の口から言うならきっと陸央は信じると思うからです。」
「なんだその理屈は。誰が言おうが信じられないものは信じられないだろ。それに、引き受けるとも言ってないぞ俺は。」
「お願いします。機会があれば、でいいです」
七島優子は小さく頭を下げた。
……七島のために動く義理など微塵もないのだが。
「……わかったよ。機会があればな。」
俺は七島の頼みを承諾した。
……それが自分にとってメリットがあるなら話は別だ。
「ありがとうございます。」
そう言って、七島優子は頭を上げるとまた、問題集の方へ戻っていった。
俺もそれ以上話すことはなく、授業が終わるまで教科書の暗記に取り組んだ。




