陸上部のエースとのレース(前半戦)
事は二週間前まで遡る。
俺は制服でいつも寝ている。それもこれも一秒でも早く学校に行くため、もとい一秒でも長く布団の中に潜っているためだ。
だが俺はその日だけ俺は家を7時前に出た。
ちょっとした用件があって学校に早く行かなきゃならなかったんだ。
俺はいつものように自転車に乗って飛び出した。
俺の通学路は初めはひたすら一本道を行く。走っていくうちに眠気も飛んで、学校近くの住宅街までやってきた。
一番初めの突き当たりの角を曲がったときだった、そこに設置されてるカーブミラーに人影が見えた。
スピードを出していた分、逆に人にぶつからないように注意を払っていたのが功を奏した。
俺は素早くハンドルを切って大回りで角を曲がり、そいつを躱した。
そして急な進路変更で落ちた速度を取り戻すべく、立漕ぎに切り替えて続く第二の直線を駆け抜けた。
そのまま進んでいくと、いつもは捕まらない信号に今日は捕まった。減速した分のロスが響いたんだな。
――いや、さすがに信号を無視してまで早く行こうとは思わねえよ。自転車には通学指定のシールが貼ってあるしな。
……とまあ、 そんなこんなで減速した分とこれからの加速、そして待ち時間。合わせて約一分のロス。
これならペースを落として止まらないように速度調整をするべきだった。
去年の俺ならばそうしたはずだ。おそらく長らく信号に捕まっていないという事実が俺を慢心させたんだろうな。
信号の待ち時間を減らすのは登下校の基本中の基本だってのに。
「30秒のロスか。」
すると横で同じく信号待ちしていたやつが似たようなことを言った。
見ればジャージ姿の大学生くらいの男。ウチのクラス担任にも負けねえゴツイ体つき。
――ほんと高校生には見えなかったぞ。これが竹月力だったんだな。
その竹月は信号待ちがてら屈伸をしていた。
その時はランニング中のただのアスリートぐらいにしか思わなかった。
……けど、陸上部だっていうならその後の行動にも納得できるわな。
体感的にあと5秒で信号が変わる。そう思ってペダルに足をかけた時だった。
「on your marks…」
やたらと発音の良い英語とともに、隣にいた男が地面に屈んで手と両ひざを地面に突いたんだ。
――そうだ早川。クラウチングスタートだよ。竹月はクラウチングスタートをしていたんだ。
「set!」
竹月は掛け声とともに腰を浮かせ、弾けるように走り出した。それはもう凄まじい加速だったよ。繰り出される一歩一歩の速さと重みが別次元だった。
俺は驚きのあまりスタートが遅れた。いきなり隣にいた奴がクラウチングスタートし始めたんだから固まりもする。
そこで俺は遅れを取り戻すべく、トップギアの状態からペダルを踏み込んで無理やり加速した。
チェーンに多大な負担がかかる禁じ手だが、その分、加速効率は段違いだ。
それでも竹月にはかなりの差をつけられてしまった。わかっている。自転車と人間の足。スタートの加速力なら人間の足の方が上。
だが、一度、最高速度に乗ってしまえば……
「自転車の方が速い」
俺は横断歩道の先の直線で竹月を追い抜き、先に角を曲がろ、竹月も少し遅れて角を曲がった。
そこのところで竹月が俺ととことん競うつもりなのだとわかった。抜かれた途端に、明らかにペースを上げたからな。
竹月はあろうことか走りで俺の自転車に食いついてきていた。
不味いと思った。このままでは抜かれる。このレースの先の展開が俺には予測できた。
住宅街を抜ければ学校はすぐそこ。だが、その前には最大の難所が待ち受けている。
ここ、戸成高校は知っての通り、住宅地の近くに学校が設置されている。
その手前にある住宅地の道はとても入り組んでいる。
つまり、車の通りや、信号がない代わりに、曲がり角が大量にあるんだよな。
いつもならスイスイとドリフト気分で抜けていくところだが、そんな余裕はその時のの俺にはなかった。
ほとんど限界に近い速度だったし、無茶をして転倒でもしたあかつきには、男に抜かれるだけでなく、シャレにならない怪我をしちまう。
だから、俺は仕方なくブレーキをかけて減速した。背後からは同じ人間のものとは思えない鋭い足音。
その数秒後には俺は竹月に追い抜かされた。
まだこの先に角はたくさんある。自転車よりも人間の足の方が小回りが利く以上、この地形で追いつくのは難しい。
このままでは負ける。
敗北の二文字が脳裏をよぎった。
……いつもならそれも仕方ないと思えただろう。
だが、今回は違った。同じ自転車ならまだしも、徒歩の人間に負けるのはどうしても許せなかった。
これでも俺は自転車での登下校に誇りを持っている。
雨の日はもちろん、雪で路面が凍結しようが、台風が来ようが、なんとしても自転車を漕いで学校に来てるくらいだ。
一秒でも早く、そして速く、登下校の時間を減らす。俺は毎日自転車でのタイムアタックを欠かさなかった。
その甲斐もあってか、入学当初は25分かかっていた通学も今や21分にまで減少し、20分台の壁も見えてこようというレベルにまで到達した。
ここにきて徒歩に負けたら自転車通学の名折れ。どうしても勝ちたかった俺はイチかバチか勝負に出た。
僅差で負けるくらいなら、俺は大敗してもいいから勝てる確率が高い手段をとる。
そこで俺はいつもの正規ルートから外れ、勝つための作戦を決行した。
◆
ここまで話して俺は、一度話すのを止めて手ごたえを確認する。
早川は身を乗り出して話を聞いていた。
……何が面白いかはわからないが、退屈させない程度にはこの話は興味を持たれているらしい。
俺は力を抜いて息を吐く。
「俺が話せるのはここまでだ。」
「えっ?止めちゃうの? いいところなのに!」
早川が声高に言うが、俺はそれを手を振ってなだめる。
「ちゃんと最後まで話す。けど、俺よりも語り手にふさわしい奴がいるからそいつに任せるってだけだ」
それ以外にも俺は自分のことをあれやこれやと人に話すのは好きではないというのもあるが。
わざわざ言う事はしない。
「ふさわしい人って?」
「あいつだよ。」
と、俺は椅子に深く腰掛けて話を聞いていた天城を指す。
「なんで天城くんが?」
すぐに早川が言う。
「正直、最後の方は自転車漕ぐのに必死で何が起きていたのかよく把握はできてねえんだよ。けど、この先からは天城が出てくる」
「そっか、観戦してたって言ってたよね。でもここからどんな風に天城くんが関わってくるの?」
「そこを含めて本人から聞くんだな。……というわけで天城、頼めるか?お前の知らない部分は話したぞ」
「オーケー。あれはそういう経緯で起きた勝負だったんだね。なるほどなるほど」
椅子に深く座っていた天城は少しだけ前に背を倒し、咳払いをして声を整えた。
「では傍観者こと天城望として語らせていただこう。彼が竹月くんとのレースに勝つために、いったい何をしたのか?」




