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ホモサピエンス

というわけで、翌日の昼休み。2-Eの教室。


「くたばれ!愛田!!」

「うおっ!?」


 予想通りうちのクラスで飯をいにきた愛田に俺は殴りかかった。完全に不意を突いたつもりだったが、紙一重で横に躱され。俺と愛田は机を挟んで対峙する。


「いきなり何しやがる!」


愛田が声を荒げる。だが、怒りたいのは俺の方だ。


「それはこっちのセリフだクソ野郎。てめーのせいで危うく俺はホモサピエンスだ。」

「俺たちは元からホモサピエンスだろうが!」

「いいから黙って殴られろ!」

「嫌に決まってんだろ!ふざけんな!」


 俺は愛田を追いかけるが、机を挟んでぐるぐると回る、いたちごっこが続くだけだった。

 直線勝負なら俺は愛田に追いつくことができる。一年間の逃走劇でそれは証明されている。

 邪魔なのはこの机だ。俺は机を横に大きくずらそうと机の両端を抱える。


「させるかあ!」


 だが、愛田が机を押さえてそれを許さない。机を失えば不利になる。愛田もそれはわかっているのだ。

 机を挟んで睨みあう俺たち。幾度かの机の位置を巡っての攻防戦が行われ、次第に状況は膠着し、五分が経過した。


「あれ?帰宅部トリオが喧嘩してる!」

「トリオって二人しかいないだろ!」


愛田が反射的に叫ぶ。俺は一瞬、天城が戻ってきたのかと思ったがすぐに違うと思い直した。声が違う。愛田への怒りで狭まっていた視界を広げて周りを確認する。


「僕は参加してないから帰宅部コンビが正解だね」


まず目に入ったのは笑いながらこちらをみている天城。


「なんか3人セットってイメージがあったから、ついトリオって言っちゃったよ」


 そしてその天城の隣でストローを咥えてジュースを飲んでいる奴が一人。早川である。


「やっほー、遊びに来たよ。何?ケンカしてるの?」

「……まあそんなところだ。」


 愛田から目は離さず俺は答える。


「うんうん。そっか。いいよー思いっきりやりなー」


早川は天城一緒になってやんややんやとしていた。

……意外だ。止めてくると思ったのだが。


「野次馬をしている僕が言えたことでもないけどさ、早川さんは止めないんだね?」


 俺と同じ疑問を持ったらしい天城が尋ねる。


「喧嘩ができるのはいいことだよ。ほら、『仲がいいほど喧嘩する』っていうでしょ?」

「それを言うなら『喧嘩するほど仲がいい』だね」


 天城が笑いながら訂正する。


「あれ、間違えてた私?」

「あはは、順番が逆だったね。」

「天城!早川さん!呑気にしてないで助けてくれ!これはケンカじゃない、あいつが勝手にキレだしたんだ。」


 愛田が見当違いの救援依頼を送る。俺は理由があってキレているし、傍観者あましろをあてにするのは間違っている。部外者の早川を頼るのは一番筋が違う。


「うーん。そうは言うけど愛田君。こいつは理由なく怒ったりはしないよ」


これまた意外だった。部活の勧誘を断ったりしたのもあって、早川が味方をしてくれるとは思わなかったのだ。


「だから考えてみようよ。どうしてこいつが怒っているのか。」


 さらに早川はナイスなアシストを見せる。


「こいつが怒っている理由…あれか?」


 愛田も第三者から言われて少し冷静になったのか、自分の思い当たる節を考えだし、それを早川へと話しだした。


……その瞬間、昨日のある光景がデジャブした。


(……この展開は不味いんじゃないのか?)


 思い出したのは校内有数の有力人物が発する情報の影響力の恐ろしさ。昨日、早川とした鬼ごっこ兼かくれんぼにおいて、俺は学校生活が終わりかねない状況に追い込まれた。

 そのときは何事もなく済んだが、早川に悪評を流された場合のリスクを俺は身をもって体験することになった。


 悪事千里を走るというが、この現代において、広まって困るのは悪事だけではない。ほんの些細な悪評でも、話題次第で致命傷となりえる。

 愛田が早川に今言おうとしていることが、俺の予想通りの内容であるなら、それは可能性があるだけでアウトになってしまうような話題だ。


 言っておくが。俺がホモサピエンス、即ち男色家だという事実はない。根も葉もないデタラメである。本人が言うのだから間違いない。


 だが、噂が広まるとき、その広まる噂が必ずしも事実である必要はないのだ。信じることができるかどうか。それが、噂が広まるのに一番重要な要素である。


そして俺は、自分の保身のためだったとはいえ、他人に対し興味が薄いという根っこをこの一年間でしっかりと張り、校内でも有数の美人とされる七島優子に見向きもしなかったという葉っぱをこの三カ月で生やしている。

 ここでとどめの出来事が起きて、根も葉もない噂に花が咲くようなことがあれば俺の学校生活は終わってしまう。ましてやその咲く花が薔薇だとしたら目も当てられない。


「おい愛田……」


俺は愛田を止めようと声をかけたが、愛田はもう喋りだしていた。


「……実は俺、こいつを遊びに誘うっていう目的よりも、こいつの逃げっぷりがおかしくて追い回しているトコがあるのがばれたとか?」

「……はあ?」


俺は素っ頓狂な声を上げていた。


「あーそれかもね。こいつとの追いかけっこ中々面白いんだよね。逃げ方が工夫してあるというか」


なんと早川もそれに賛同し俺は更に困惑することになる。


「そうそう。逃げが全力だから追いかけまわし甲斐があるんだよ。ただ逃げるだけじゃなく毎回逃げの手段とか作戦を変えてくるから飽きないんだな、これが」

「そうなんだよね。いちいち全力と言うかさ」


 困惑する俺をよそに盛り上がる二人。


「この前俺から逃げた時なんて、見ず知らずの男子の一団に紛れてたんだぜ?しかも違和感なく会話までして。普通そこまでしないよな。ちょっと感心したわ。」

「へえー! それを言うと、私が昨日追っかけたときなんて進学クラスの教室に紛れたんだよ?

 しかも後からクラスの人に確認したら目立たないようにノートと問題集を開いて勉強してたんだってさ。」

「だからか! 昨日の昼休みの後に教室に戻ったら俺のノートに数学の問題が解かれててさ、しかもかなり奮闘した形跡があったんだ。」

「ふふ、目立たないように全力で問題に挑んでたんだね」

「解答は間違えてたけどな!」


 痛快とばかりに愛田は声をあげて笑う。


「……教えてくれてありがとうよ。愛田君」


愛田が早川との会話に気を取られていた隙に、俺は愛田の背後に回っていた。逃げられぬように後ろからがっしりと両手で肩を掴む。


愛田がしまったとばかりに振り返る。その顔は驚愕の色に染まっていた。


「俺が怒ってるのはな、お前のそういうデリカシーのないところだ」


最初こそ驚きを見せた愛田だったが、観念したのか、最後は余裕たっぷりにこう言った。


「デリカシーって乙女かよ」

「よし、くたばれ」


 俺は愛田の顔面を殴る。ふりをして、愛田の脛を蹴り飛ばした。

 不意を打たれた愛田は痛みに悶絶し、膝を抱えてその場で跳ねまわる。実に痛快な絵面であった。


「てめ…!! こんならいっそ殴ってくれた方がまだいいわ…!」

「そうかそうか」


 苦悶の表情を浮かべる愛田に俺は満足する。


「あのー、ちょいとやりすぎじゃないの?」


あまりに愛田が痛がるので早川が俺をたしなめてきた。


「大丈夫だ。俺たちはお互いにくたばってほしいと思っているからな」

「えっーと……それの何が大丈夫なの?」

「なに、これが男の友情ってやつだ。わからなくても無理はない。気にすんな」

「いや、僕にもわからないからね? 面白いけどさ」


 男の天城がぼそりと言った。天城なら理解してくれると思ったのだが。

 それだけ友情とは難しいものだということか。俺はまた一つ、賢くなった。

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