帰宅部のエースと呼ばれて
かくして、補習を回避するべく勉強に励んでいた俺。
その集中力はきっと隣の優等生にも迫るものであったと思う。
だから俺は気づくことができなかった。教室で起きていた異変に気づくことができなかったのだ。
思えば違和感はあった、いつもは騒がしい物理の教室がやけに静かだったのだ。
物理の補習対象の点数が引き上げられ、補習の可能性がすぐそこまで迫っていたとしても、それだけで静かになるほどウチのクラスの連中はやわではない。やばいやばいと騒いでいるのが普通なのだ。
そこから、やばいから勉学に励むもの、やばいから諦める人間に別れるのだが、どちらも騒がしくするのには変わりなかったりする。
とにかく俺は周りを気にすることもなく、ひたすら物理の公式を暗記して、暗記が終わったらその公式を使う問題の答えを見て、使い方を覚えるという一連の作業を繰り返していた。
作業に没頭すればするほど、周りは気にならなくなって、微かに聞こえていた話し声やノートを走るペンの音などの雑音が聞こえなくなっていった。
そんな今学期最大ともいえる集中力を発揮していた俺。考えていたのは物理の公式のことで、それ以外のことは頭から消えていた。
それほどまでに補習を回避したかったのだ。早く、そして速く、帰るためなら俺は努力を惜しまない。
だから俺は気づけなかった。
自分が過ちを犯し続けていることにまるで気づかなかった。
「……ん?」
誰かが俺の肩を叩いた、ような気がした。教科書を読み込んでいた俺は顔を上げる。
物理室には誰もいなかった。
まさかと思い、時計を見る。
5時間目の授業はとっくに終わって休み時間に突入していた。
「……やらかした。」
俺は急いで授業の用意を抱えて物理室を後にする。扉は閉めて行こうと扉に手をかけたところで俺は自らの更なる過ちに気付いた。
「……」
そう、まだ中に人がいたのである。しかも彼女が小さく上げている手は、まさしく俺の方に向けられており、それはあろうことか先ほどまで俺の肩があった辺りで止まっていた。
しかもそれが戸成高校が誇る優等生、七島優子だと言うんだから俺は驚いた。
「悪い。焦ってて気づかなかった」
俺は閉めかけていた扉を急いで開ける。
「大丈夫です。気にしていません」
肩を叩いた張本人である七島優子は落ち着き払った様子で席を立った。
「ならいいんだけども……」
「あの。少しお話があるんです。」
「……は?」
聞き間違いかと思った。
あの優等生が人に話しかけるわけが…そんな風に驚く俺をよそに優等生はこう言った。
「貴方が帰宅部のエースというのは本当ですか?」
「…なんだって?」
驚きが重なったせいか、目の前の優等生が何を言っているのか本気でわからなかった。
「……悪い、良く聞こえなかったからもう一度言ってもらっていいか?」
俺が慎重に聞き返すと優等生は瞑目しながら答えた。
「……帰宅部のエースです。私は貴方が帰宅部のエースかどうかを聞きました」
「帰宅部の、エース」
俺はその言葉を繰り返す。聞き間違いなどではなかった。
「そうです。それで、どうなんですか?」
そんな真面目なトーンでどうなんですかと聞かれても……
「……いや、確かに俺は帰宅部だが」
一呼吸置いてから答える。
「そんな風に呼ばれたことはないぞ。それにおかしいだろ。帰宅部に、エースって」
授業が終わっていることを気づかせてもらった手前、俺はガラにもなく優しく言った。
「まさか知ってるとは思うが、この学校に帰宅部なんてもの存在しない。存在しない部活にエースなんていない。だから俺は帰宅部のエースじゃない」
「……見事な三段論法ですね」
優等生は瞑目したままだった。
「すみません、友達にそういう方が居ると聞いたもので……違うのならいいんです」
七島は「失礼しました。」と物理室を足早に出て行った。
「……なんだったんだ?」
俺は今度こそ教室に誰もいないことを確認して物理室のドアを閉める。
まさかあの優等生の口から「帰宅部のエース」なんてふざけた言葉が飛び出すとは。
ひょっとすると誰かにからかわれたのかもしれないが、それにしたってふざけている。
さっさと教室に戻ろうと、足を進める。しかし、ふとこんな疑問、いや懸念が湧いて俺は足を止めた。
……七島優子はどうして俺を「帰宅部のエース」だと勘違いしたのだろうか。
確かに、俺は帰宅することに情熱を注いでいると言えなくもない。そんな俺が「帰宅部のエース」と陰で揶揄されていてもおかしくはない。
現に今日の昼休みに天城が俺のことを「指折りの帰宅部」と言っていたし、やつは俺のことを何故か「帰宅部」として高く評価しているフシがある。
それに天城は教室内の事情に詳しい。この手の話題にも当然詳しいはずだ。
「……念のため聞いてみるか」
俺は確認のため、教室へと早足で戻った。




