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カラーミーポップ



prologue



 例えばそれは真っ白いヨーグルトにマーマレードとブルーベリーのジャムを載せたよう。もちろん器は透明で、スプーンの柄は表面的な有機性を持つ、あのポップでクールなプラスチック製。ローズピンクという色の選択が相応しいかどうかは判らないけれど。

 冷たいミルクとレタスとトマトのサラダ、ドレッシング抜き、あり合わせのチーズを一緒に盛りつける。フォークはヨーグルトのスプーンと揃いで。

 そしてランチョンマットはグリーンのギンガムが気分。テーブルの上には目覚まし機能付きトラベルウォッチ。時刻は8:05。

 

☆☆


 タバコを吸う女の子がとても好きで、おそらくその理由が、女の子にはどこか、どこまでもタバコは似合わないということがあるからではないかと思う。

 その女の子はタバコを吸う姿が決まっていて、名前をフランソワーズ・ショコラと言った。




1. peppermint/lemonlime



 フランソワーズ・ショコラは、ダイニングの大きなテーブルに向かって、脚の高い椅子に、右膝を折って、左脚はようやく床に届く感じで、背もたれの上に、オレンジとライトブラウンとの中間の髪が白い首筋に不揃いにかかっているのがちょうど見える、そんな姿勢で座っている。薄いが目の粗い作りの、二十四色セットの色鉛筆のような、ジプシーとでも呼べそうなセーターを着て、踝までのパンツはオフィス色、淡いグレーである。

 いま彼女は、目の前に散乱した折り紙の中から白を一枚、左手でつまみ上げたところだった。それを眼の高さでぼんやりと眺め、そのまま手首を返して後ろにそっと投げ捨てる。紙はフワリと空気に押し返されて一瞬浮かび、反転して滑るように、板張りの床の、何もないひらけた真ん中に張り付いて、大きな窓から射し込む陽の光を受ける。濃い紫色を表にして。

 FCはそのあいだに、今度はレモンライム色の紙を同じ具合に眼の高さでつるし、首を右側へ少し傾げて裏返す。ペパーミントの面に顔を近づけるときに、左目と鼻、唇が覗く。影が、鼻の頭から首の、耳のすぐ下、それより上側を薄暗くして、唇に塗られた朱と橙の中間色と、そして彼女の肌の白さを不自然に浮かび上がらせている。眼は大きくはっきりと見せるように、濃い色でラインが引かれ、睫はしっかりと上を向いている。その眼でペパーミントと対峙して、あらゆる静止の虚を突くタイミングで、左手に持った紙を顔に近づけ、ぶつかる寸前であごを引いて額を紙に沿わせる。その動作と同時に、時計仕掛けの人形のように瞳が閉じる。唇から始まって、顔の左半分全体に微笑が、ごく自然な控え目さで滑るように広がる。

 これがこの何でもない今日という日の、FCの場合の完璧な情景だった。時間の頃は午後の始まり、空はおだやかで、部屋の中には色という音しか存在していない。FCは手にしていた紙を、テーブルの上に散らかした色の混淆に帰してしまっている。

 一匹の猫が、まだ成猫と呼ぶにはひとまわり小さく、配色は白をベースに、黒やら灰、茶が筋を描いて薄く塗りつけられ、細く開いたドアの陰から顔を覗かせる。ひげが不釣り合いに長く、そろそろと床を歩くにつれ姿を現す尻尾がおかしな軌道で宙を彷徨う。

 猫は音を立てないで、ドアから床の一部となった濃い紫の紙までの距離の半分ほど来た。そこで初めてFCに気づいたのか、立ち止まって顔をテーブルの、FCの背中に向ける。

 FCには気づいている様子はない。彼女は眼をつむったまま、少し顔を上に向け、何かの匂いをとらえているか、あるいは何かに耳を澄ませている、心持ち伸び上がったような恰好をしているのが猫の辺りから見える。猫は道のりの残り半分を進む。そして床の、切り取られた紫の正方形の前で止まると、尻を床につけて鼻をひくひくさせる。尻尾はリズムなく緩慢な動きで、空気の層をゆっくりとかき混ぜているようだ。二、三度瞬きをして、後肢を挙げると紙の真ん中でうずくまる。宙空で頭の半分がはみ出している。バナナの描くカーブに曲がった体の流れの延長で、尻尾が大きく欠けた月の姿を再現する。眼をつむって口はすぼめ、小さく開いて喉を鳴らす。

 カラン

という音。薄く煎れたハーブティーのグラスの中で、氷が返る。猫は首をもたげてFCの方を見る。FCは色を付けた枯れ葉の舞い散ったごときテーブルの上、両腕にあごを載せて眼を閉じている。頭の先にグラスが見える。猫はしばらく耳を澄ませたまま彼女を見ていたが、やがて首を前肢のあいだにうずめ眼を閉じる。左耳がFCの側に半回転している。

 そのまま、時間がゆっくりと流れる。気がつくと陽の光は強烈さを失っていまでは猫の尻尾の先までしか届いていない。グラスの氷はすべて溶けてしまった。

 猫が目を覚ます。初めは片目を開けて、ひげを動かして考えている風だったが、一度両目をつむってから瞬きをして、おもむろに立ち上がった。軽くのびをして折り紙の辺りを小さく回り、方向を変えてテーブルの方へ歩き出す。FCは右膝を抱えて動かない。つま先が床に届いた左の足の裏に、きれいに皺ができている。いま猫はその皺に鼻先を付けて匂いを嗅いでいる。ひげがFCの足の裏を撫でる。

 うん……

と呟いてFCは椅子の上に脚を引っ込める。その動きにつられて猫は椅子の陰から上を見上げる。FCが肘を動かした拍子に折り紙が一枚、モーブ色がテーブルからこぼれ落ちる。空中で薄いバナナ色に翻って床に滑る。猫は素早い動きで駆け寄り、前肢でそれを押さえつける。その目の前にはもう一枚の、濃い紫色がある。両方を見比べて、少しためらう。やがて肢の下にあるものの存在は忘れ、濃い紫の紙に獲物を取り替える。顔を低く鼻を使いながら近づいていく。紙の縁で入念に匂いを嗅ぐ。鼻先が一瞬触れて紙が浮き、離れて床の上を少し滑る。びくんと全身でそれに反応して、それからまた紙との距離を狭める。先に前肢の爪で押さえ、そして鼻を近づけ、匂いで確認してから紙の角に小さな舌で触れ、そのまま口にくわえる。首を横にねじると紙も一緒に床を滑る。それに気づいた猫は体を動かして円を描いてしまう。尻尾がワンテンポ遅れて、やはり円を作る。何周かするとぱたりと動きを止めて辺りの様子を眺め、やがて入ってきたドアが視界に入ると、紙を口から離してとことこ歩き始め、ドアの向こうの影の中へ姿を消した。




2. (monologue)



 遠い記憶の呼び覚ます物語がある。それは静かな暗い夜や、陽の翳った午後の曖昧な瞬間、あるいは眠りと覚醒の狭間に現れる。多くは断片ないしは動かない図像のようなものであるが、中には不思議なほどに連続して、ひとつの場面として展開するものもある。それらの物語では、ときに私自身が登場し、ときに架空の人物たちが行き交う。私は自分の好きな場所──カフェのテラスや太陽の光の差し込む部屋──で、何かを眺めたり眠っていたりする。記憶の中で眠りは、ある種の癒しとなる。そこでは私は吸うことの出来ないタバコすら、優雅な角度で味わっている。猫は少し取り澄まして、本来の彼女ほどには甘えん坊ではない。思慮深い、哲学的な面もちをしている。猫と言えばもう一匹、見たことのない白い猫が出てくることもある。その猫はその世界で概念的に存在しており、実際にその姿を見せることは少ない。実際の毛並みや目の色や髭の長さや尻尾の形はさして問題ではなく、むしろ視界内に現れたときの第一印象のようなものがそのままその猫の存在を定義している。私の飼い猫とはまったく異なる生き物のようにも見える。

 そこにはたくさんの人物たちが現れるが、基本的にはその顔ぶれは固定している。彼らは抽象的な名前を持ち、その姿と役割を流動的に変えていく。争うこともあれば、ひとつのテーブルで食事を共にしていたりする。彼らと私が出会うことはない。そこには私の分身が、私とは異なった人格として存在するからである。彼女は私より少し髪が長く、色も違っている。年齢もあるいは少し下なのかもしれない。彼女はきわめてビジネスライクに、その役割をこなしているように見える。これは私のひいき目かもしれないが、彼女はそこで演じることにあまり満足を覚えてはいないだろう。

 男たちについては一概には言えない。彼らは私には判らない何らかの理由で互いに争い、策略をめぐらし、場合によっては卑怯な手段を使ってでも目的を遂げる。冷酷な顔、野蛮な顔、醜い顔、静かな顔、優しい顔、そのどれでもない顔、ありとあらゆる仮面をかぶることが出来る優秀な脇役。彼らの背景は、いつも闇のような黒だ。私はそれらの場面が浮かび上がってくるたびに、眼を開いて、自分の中を通り過ぎていくのを待つのだが、たとえどんなに明るく賑やかな場所にいても、気がつくと体は凍りついて、身動きすることもできないまま、眼を閉じることもできないままに、視界内の明るい色のずっと遠くで演じられるその場面を私に見せる何かの力が働く。

 私はそこでは美しい物語の主人公だ。きれいな色ときれいな空気ときれいな時間。それらは私を優しく包み込み、夢の世界に似た浮遊感の中へと私を導く。私はうっとりとした気分になって、やがて眠りへと誘われていくのである。




3. shockingpink



●名前は?

「セシルです」

●フルネームで。

「スウィート・セシル」

●以前この業界で仕事をしたことは?

「ちょっと違うかもしれませんが、モデルをやっていました」

 男は四十代前半、陽に灼けて体格はがっしりしている。ナイロン製のスポーツウェアの腕をまくっている。左腕に金の腕時計をしている。色の濃いサングラス、オイルで固めたオールバックの黒い髪。

●モデルをやっている子の顔はだいたい知っているはずなんだがな。

「外国に住んでいたので。モデルもそちらで」

 女は十代後半から二十代半ばのどれかの歳なのだろう。髪は、白いペンキの缶の中に黄色を垂らしたような、薄いクリーム色。肌はそれとは別の有機的な白さを帯びている。化粧はあまり濃い方ではない。

●まあキミのプロフィールなんかね、別に興味はないんだ。俺は役者は顔で選ぶ。セリフなんか喋れなくたって構わないし、動作が不自然だっていい。それでも観ている人間を納得させられるようなヤツしか使わない。要はどれだけ上等な素材を手に入れるか。料理と一緒だ。

「わたしは上等ですよ」

●そう思っていたところだ。


☆☆


 スウィート・セシル。フラットに一人で住む。決まった職業には就いていないが、金に不自由するということもない。ときどき退屈を紛らすために思いつきで短期の仕事をする。交友がないわけではないが、自分の生活のペースを乱されることを嫌うタイプである。猫は飼っていない。一日の半分は家事をし、残りの半分は買い物に出かけるか、あるいは読書をする。本は全集か、でなければシリーズ物を選ぶ。ジャンルには特にこだわらない。分厚い本を時間をかけて読み、全部読み切ると何か仕事を見つけ、しばらくそれに打ち込む。それがセシルのここ二年ほどの暮らしの基本形である。

 彼女が最近会っている自称〈映画監督〉の男はジョン・コダック。かつては煙突掃除夫であったが、現在では泥棒を兼任している。コダックはいまでは煙突の掃除も泥棒もしなくてよいほどの金を貯えてしまったため、多くの悪人たちがそうするように、余剰の金を芸術に注ぎ込んではと考えた。彼は生来器用な性質で、職業柄芸術に関する知識と理解も多分に持ち合わせていたため、持て余した暇の足しにでもなろうかと、自分で映画を撮ることを考えた。

 彼が駅の地下通路に貼り出した役者募集の広告は以下の通りである。


   ●役者求む。


      主演女優一名:フランソワーズ・ショコラ

      主演ネコ一匹:ミル   

      脇役    :ロビン


    連絡先   コダック映画製作所

          ××××−×××−××××

  

 スウィート・セシルがコダックの面接を受けた日の午後、同じ事務所にひとりの男が訪れた。


☆☆


「何だろう、スズランかしら」

 スウィート・セシルは考えた。そこは花屋の店先で、両手いっぱいの買い物袋の仲間に、最後にひとつ花でも加えようかと思案しているところだ。

「この小さな薄ピンクのバラも葉っぱとか可愛いんだけど」

 パールホワイトの首のあるニットにノンウォッシュのデニムのパンツ、ブーツはワインレッド、トウがプレーンのシンプルな。唇はほんのりピンクがかった赤。

 スズランをブルーの背の低い花瓶に無造作に挿すと、床に放り投げた買い物袋も顧みないでベッドに倒れ込む。あるいは、このぐったりした体と今日買ってきたものとを天秤に掛けるこの瞬間こそが、セシルにとっていちばん幸福な時間であるかもしれない。そのままうとうとしたのを狙うように電話のベルが鳴る。受話器を取った途端に切れて、それで結局目を覚ますことになる。キッチンと散乱した買い物袋とを見比べて、何か簡単に食べられものはなかったかと立ち上がる。

 トマト・レタス・キュウリ・オニオン、そしてノンオイルのドレッシング。朝食の残りのスープとパン。コーヒーを一杯。雑誌を眺めながら食べ終えて、それからようやく買い物袋の中身をあらためる。ベッドの上に服を散らかしたまま、リビングのソファに横になる。テーブルの上の本に手を伸ばす。一ページ読んでから体を起こし、俯せに寝てクッションを胸の下に。ページを繰る頃には頭も冴えてくる。


☆☆


 この季節にはカフェのテラスは少し肌寒い。太陽の熱もときおり吹き抜ける風が拡散させる。テラスの隅に男がひとり、三十代前半の、脚を組んで座り、新聞を片手にタバコを吸っている。ダークグレーのスーツの背中には皺ができている。タバコを押しつぶして消すと、運ばれてきたコーヒーに口を付ける。

 通りを斜めに横切って渡ってくる、派手なピンク色、プラスチックな感触のするドレスを着た女が眼に入る。男は再び新聞に目を落とす。コーヒーをひと口飲む。

「……ジュール・ナイトさんですか」

 男が顔を上げると、そのピンクの服の女が立っている。まだ若い。肌は白く、髪はブロンド。生地の薄いウールの、モーブ色の手袋をして、両腕に金のブレスレットを填めている。イタチか何かの襟巻き。

「……君は?」 

 女は給仕に注文する、ミルクティーを。

「これから貴方と生活をともにするものです」

 ジュール・ナイトは向かいに座った女の眼を見る。限りなく透明に近いブルー。奥底を透かして見ることの出来ない、平板で人工的な眼だった。彼は躊躇するようにタバコに火を点けた。

 女はまっすぐにナイトを見つめる。風が瞬間おさまって、彼女は静止画像に組み込まれる。凛と伸ばした背筋、細い体をくるんだドレスは違和感を訴えている。

「名前は」

「フランソワーズ・ショコラ」

「ああ、なるほど。じゃあ僕はロビンだ」

 女が少し表情を崩す。実際の年齢が一瞬顔を横切る。

「コダックは?」

「役者ふたりで会う方がいいだろうって。その方が話が早いとおっしゃって。あ、台本受け取ってきたんですよ」女は手提げから小さな真っ白い冊子を二冊取り出す。

「ま、それは後でいいから」と男は言う。「まずは話でもしましょう」

 女は一瞬はにかんだような作り物の笑顔を見せ、それから眼を伏せる。ミルクティーの最後のひと口を飲む。

「お酒でも飲みに行きませんか? その方が話も弾みますよ」

 そう言って女は台本を一冊男に手渡し、もう一冊を手提げに入れて、男の手を取って立ち上がる。つられて立った男の腕に手を添えて、ふたりは歩き出した。テーブルの上には空のカップが二つと吸い殻の入った灰皿、折り畳まれた新聞がめくれて乾いた音を立てる。




4. pearlwhite



 冷たい空気が微かに流れている。静けさが光と相まって穏やかな陰影をつくる。空に太陽はなく、地に土はない。転々と、小さな足跡がひと筋、ゆるやかな斜面を下り、そして上っている。そのまだらな四つ肢の生き物は、いま小高い丘の上で立ち止まり、かの地に尻をつけた。

 少女は静かに目を覚ます。

 長い夢を観ていたような気がする。巨大な水の上を漂っているような、軽く幸せな夢。流され続けるうちに、肌は徐々に透き通って、体は水に溶けていく。意識が少しずつ水の中に拡散して、やがてすべてを含んだものになった。自我の最後のひとかたまりが分子崩壊を始めようとしたそのときに、呼ぶ声がしたのだった。

 猫は少女のすぐ脇に、ちょこんと座っている。ひげをぴんと張って、眼を大きく開いて。

 少女はもの言わず、猫に手を差し延べた。猫は逆らいもせず、少女の手を受け入れる。少女の冷たい手に、猫の濡れた鼻が触れる。そこで生まれた暖かみが、やがて時間を動かすだろう。手は顔を過ぎ、背中まで届いた。猫は目を閉じ、喉を鳴らす。手が再び背中を上っていくのに合わせて、猫は四本の肢で立ち上がる。少女の方へ、一歩踏み出して止まる。尻尾だけが、何かを探るように揺れている。少女は猫を見つめていたが、猫は何も見ていないように見えた。もう一歩前へ出た。少女の手が猫の背中から滑り落ちる。

 時は、まだ止まったままだ。

 宙を彷徨っていた尻尾が動きをやめ、今度こそ猫は歩き出した。少女の胸に前肢がかかろうとする瞬間、少女の肌は透き通って消え、猫はその中をすり抜けて反対側へ渡った。そのときいちばん大きな歯車が鈍い音を立てて回り始める。軋みが空気を伝わって、遠くから地響きが聞こえてくる。歩く猫の足下から大地に色が付き、やがてそれは広がって、朝が訪れる。




5. monkey banana



 今日、フランソワーズ・ショコラはとても気分が良かった。

 それというのも、朝起きて新聞を取りに行ったついでに外へ出てみたら、空はまっさらに蒼く、庭の雑草が青々と伸び盛った中、ほんの隅っこの陽が少ししか当たらないような場所に、スズランの白い花がぽつんと咲いているのを見つけたからだった。遠くからその光景に見とれていると足元でにゃあと鳴く声がして、飼い猫のミルが、一晩中遊び歩いていたらしく体を泥だらけにして自分を見上げているのを両手で抱き上げ、嫌がる彼女の鼻先に顔を押しつけて執拗に頬ずりしてやった。

 そのままミルを抱えて家に入り、キッチンでお湯を沸かすあいだに彼女の体をごしごしと拭き、皿にミルクを入れて与えてから自分の分のコーヒーを淹れ、新聞をテーブルの上に広げてタバコに火を点ける。外では鳥の鳴く声が聞こえているような気がする。

「ヨシ、今日は買い物行こう」

 コーヒーを飲んでしまうとショコラは元気に言った。冷蔵庫の前の小さな敷物の上で丸くなっているミルが片目を開ける。ショコラの視線があらぬ方を向いているのを見てまた眠りに就く。

 ショッキングピンクのキャミソールの上にそれを透けさせる白いブラウスを着て、ノンウォッシュのデニムの裾を折ってまくり上げる。瞼にはオリーブ、マスカラを使った後に眉をグレーで描き、唇に薄く赤を塗るとハンドバッグを掴み、黒いエナメルのサンダルにつま先を入れ、走り出すような勢いで、外へ飛び出した。


☆☆


 石だたみの道を歩いていく途中、郵便配達の赤い車が通り過ぎたのでもしやと思って手を振ると、ちょうど家具屋の前で車が停まった。走って車のところまで行く。ロビンが中からドアを開けてくれた。

「おはよう。今日はまたえらくご機嫌だね」ロビンは車を発進させながら言う。

「ちょっといいコトあったから」

「街まで載っけてけばいいのかな」

「うん。

 歩いていくのも悪くない気分ではあるのだけどね」

 ショコラは窓を全開にすると両腕を交差させてあごを載せる。眼に入る図像が頭の中でぶれて輪郭が曖昧になっていく。白と黄と赤と青と緑。それらが少しずつ混ざり合ってやがてすべてを含んだひとつの色になる。いつしか眼を閉じて、風とエンジンの声に揺られ、まるで時間が止まったような宙ぶらりんの中を漂っているうちに、気がつくと車は止まっていた。

「着いたよ」ロビンが横を向いて言う。

「そうだね。

 残念だけど」

 不思議そうに顔を見るロビンを後目にショコラは車から飛び降りた。ドアを閉めながら開いた窓越しにおじぎをひとつ。

「今日もお仕事ごくろうさまです」

「どういたしまして。じゃまたね」

 エンジンがうなり声をあげて赤い自動車は走り去る。角を曲がるまで見届けてから、ショコラはゆっくりと歩き出す。


☆☆


 いつものように、カフェ・ド・ミルフィーユでお茶をする。歩道にせり出した丸テーブルの上にはバナナセーキのグラスと陶製の灰皿。サンダルをテーブルの下に脱ぎ捨て、籐の椅子の上に両足を載せる。

 ときおりストローに口を付けつつ、往来を眺める。ゆっくりと通り過ぎる自動車と、道行く人々を観る。

「ショコラじゃないか」

 煙突掃除夫のジョン・コダックが向かいの席に座っている。相変わらず濃いサングラスをかけている。髭が何日分か伸び、煤で顔と服がよごれている。足元には掃除道具が置かれている。

「仕事の途中なんじゃないの?」ショコラはバナナセーキをひと口飲む。

「いや、休憩中だよ。美人の知り合いに会ったら一緒に座ってコーヒー飲んでもいいっていう契約結んでんだ」

「うそばっかり」

 にやりと笑ってコダックは胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出し、一本口にくわえ、使い捨てライターで火を点ける。

「あんたまだドロボウやってんの?」ショコラは通りの方にくびを曲げてコダックを横目に見ながら訊く。

「おいおい、このへんはみんな顔馴染みなんだからよ。めったなことを口にしちゃいけねえ」

「みんな知ってるんじゃない?」

「いつも体中真っ黒にした煙突掃除屋。そんだけだよ」

「まあいいけどね」

 ショコラは体の向きを戻すとバナナセーキの最後のひと口を飲んだ。ハンドバッグからシガレットケースとライターを取り出してテーブルの上に置いたときには、勘定書とともにコダックは姿を消していた。

 雑貨屋で、猫のポストカードばかり十枚買う。淡いピンク色のガラスの石を使った耳飾りが気になったが、この次来るときまで考えることにして、帰る方向に足を向けた。


☆☆


「ただいま」

 ミルはまた出かけているようだ。ショコラはキッチンの冷蔵庫の前にスーパーのビニール袋を下ろす。耳の後ろの辺りが軽く疼くような、違和感を覚える。鍵をテーブルの上に投げてダイニングとひと続きのリビングを眺める。特に変わった様子はない。

 寝室を覗いてからリビングに戻ると、玄関に通ずるドアの前に、見たこともない白い猫が立っていた。




6. blueblack



 石造りのアパルトマンが立ち並び、ひっそりと静まり返った通りに暗い灰色の廊下をつくる。四つ辻では街灯のくすんだ黄色が、ぼんやりと足元のみを照らしている。石だたみの人工的な地面の上に人の姿はない。何台か古い車が駐車してあるが、夜の帳の中で、彼らもまた眠りについている。空は薄暗い雲に覆われ、街は天と地とに挟まれているように見える。遠くで犬の吠える声が聞こえる。

 本通りから脇へ入ったひとつの小路では、闇の中、ジョン・コダックが発光塗料を使用した腕時計をじっと睨みながら息を潜め、事が起こるのを待ち続けている。ワンピースの作業着を着て、サングラスをかけている。

 静寂が闇を覆い、闇が静寂を覆う。神経は自ずと研ぎ澄まされ、頭の中には別の地図が形成される。縦横に走る通りのみで作られたその地図の上に、コダックのいる場所を示す赤い点が点滅している。動く影はない。

 空気は淀んで、カビ臭い湿った層が堆積している。なまあたたかく、密度は高く。夜の街は墓場である、とかつて誰かが言ったものだが、ここではすべてが無機的に造られていて、墓地のあのドラマティックさすら、持ち合わせてはいない。小さな駅のプラットホームに似ているかもしれない。

 コダックはサングラスの奥で眼を光らせて時計の針を追うが、いつしか回転する針に惹きつけられて時間の進みは消えた。彼は待っていたが、確信があるわけではなかった。だが、それでも彼は待つことに関してはプロである。

 地図の上に白い点が灯った。それはコダックからほど近い同じ路地の奥の方だった。白い点はゆっくりと近づいてくる。コダックは緊張を高めたが危険は感じなかった。人間にしては小さすぎるからだ。ぼやけた白い塊がゆらゆらと進んでくるのが見える。コダックは尻のポケットに手を入れて万能ナイフの冷たい感触を確かめた。白濁が輪郭を結び、一定の距離を保って止まる。白い猫だった。

 コダックは緊張を弛め、なお猫を注視した。表情のないまま猫はコダックを見据えている。コダックは猫に魅入られたように体が凍りついて眼を逸らすこともできない。不吉な予感がひっそりと訪れる。時間が完全に静止した。

 コツコツコツ。

 張りつめていた空気を靴音が引き裂いた。コダックは我に返って塀から顔を覗かせ通りの様子を見る。まだかなり遠い。気がつくと空気の質が変化して冷たく透き通っている。コダックの頭から猫の存在は消える。

 コツコツコツ。

 乾いた靴音が石だたみに跳ねて空中に鋭く飛ぶ。間違いない、コダックは思う。ずっと彼は待っていたのだった。相手は間違いなくこの自分の潜んでいるこの路地へ向かってきているだろう。コダックはナイフを手にして音もなく刃を開いた。照り返す光もここまでは届かない。コダックは闇に同化して敵の到来を待った。

 コツコツコツコツ。

 石だたみを叩く音が大きくなった。どこかの角を曲がってこの通りに入ってきたのだ。コダックは緊張の度を強めさらに細かな地図を作り出す。敵はものの数分で到着するだろう。コダックは目線の先の、薄く街灯の光が届いている辺りを見ている。後ろ手にナイフを強く握り直す。長く伸びた影の先が上下に揺れながらその空間に届いた。コダックは間合いを確認する。上半身まで現れた瞬間、地面の色に染み込むようにして、影は消えた。

 コダックは狼狽する。ナイフを握る手に汗があふれ、呼吸を忘れる。靴音の消え去った通りにはもとの完全な静寂と淀んだ空気が戻っている。コダックの緊張が作り出した幻影であったかのように。コダックは一瞬腕時計に眼を走らせる。秒針は一定のリズムで回転している。汗が額を伝う。一秒一秒の間にコダックは無限の引き延ばしを味わう。少しずつ冷静さを取り戻して再び緊張の糸を張り巡らせ、辺りの様子を探る。地図の上には赤い点と、そして白い点がひとつずつ。

 空気の変化をコダックは感じ取る。冷たく澄んだ流れが生まれている。コダックの緊張を断ち切るように、靴音が再び聞こえてくる。

 コツコツコツコツコツ。

 しかしその音がどこから聞こえてくるのか、コダックには判らない。石だたみに跳ね返った靴音はあらゆる方向から響いてくるようでもあった。そして、いつまでたっても近づいてくるようには感じられない。コダックは路地から体半分出して、通りを眺め渡す。何も変化はない。人影もない。

 さらに時間は経過する。

 コダックの緊張が綻びを見せ始めたそのとき、冷たい筒が背中に突き立てられ、振り返ろうとするコダックを制するように、男の声が言った。

「チェックメイト」


☆☆


 一軒のバーのカウンター。髭を生やしたマスターの目の前に、空のグラスを掴み、突っ伏している男がいる。マスターのトマは眼を伏せて、グラスを磨く手を休めず物思いに耽っている。店の中には低く音楽が流れていたが、テーブル席のカウボーイ連中の騒ぎ声にかき消されてほとんど聞こえなかった。男は眠っているのだろう、死んだように身動きしない。

 木製のドアを押して女がひとり入ってくる。女というより、少女だ。袖のない白いドレスを着て、小さな赤いハイヒールを履いている。髪は黒く、肩にかかっている。化粧はしていない。タバコの箱ひとつを手に持っている。少女は眠る男の隣に座る。カウボーイたちは少女が入ってきたことには気がつかずに、馬鹿騒ぎを続けている。

 マスターのトマは何も言わず、オレンジとジンのカクテルを少女の前に置く。少女はタバコに火を点ける。

「ジュールは今日はちょっと飲み過ぎたよ」トマが少女に言う。

 少女は頷く。口をすぼめて煙を吐き出す。

「猫見てない? トマ神父。白い太った猫なの。

 名前はデイル」

 トマは少女の向かいに立ち、働く手を休めシャツの胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けたマッチを流しに投げ捨てた。

「ここらじゃ猫なんて珍しくもないさ。見たところで猫だっていう以上のことは何も思わないしね。それが黒かろうが白かろうが、縞があろうが、さ」

 少女はタバコを灰皿に押しつけるとカクテルをひと口飲んで顔をしかめる。隣で眠るジュール・ナイトを眺め、それからトマに向き直る。

「それはとても特別な猫なのよ。デイルを見たら誰だって、その猫が白いということが判らなくたって、何か感じるはずだわ。

 だって本当に特別なんだもの」

 トマはよく判らない、というように首を横に振る。新しくタバコをくわえ、マッチを擦る。

「デイルが本当に存在しているのか、実は誰にも判らないの」と少女は言った。「わたしもまだ見たことない。だからこれは人に聞いた話なんだけど、その猫はね、不幸を連れてくるのよ。正確には不吉の予感、だったかな。その猫を見た人は必ず何かを失うことになるの。そしてそれはその白い猫を見ただけで直感的に悟るのよ。抗えない運命を宣告されたことを」

 少女はカクテルのグラスを口に運ぶ。

「なんであんたはそんな猫を探してるんだ? 死神みたいな不吉な猫なんだろう。あたしはごめんだな」

「なぜならわたしには失うものなんて何ひとつないからよ。この上わたしから何が奪えるのか見てみたいの」

「あんたはまだ若い、ミサキ。失うものなんていくらでもあるさ。まあもっとも、若すぎて自分が何を持っているのかも気づいてないだろうがね」

「そうかもね」

 少女はカクテルを飲み干すとタバコの箱からコインを三枚取り出してカウンターに置き、眠るナイトの背中を眺めてからトマにおやすみを言ってドアから出ていった。カウボーイたちの騒ぐ声がひときわ大きくなったようだった。


☆☆


 男は銀色の拳銃を無造作にコートのポケットに突っ込んだ。足元にはコダックが横たわっている。男はコダックを見下ろしたまま身動きしない。手には革の手袋を填めている。膝下まであるコート、つばの丸い帽子、コートの襟を立てているため顔がほとんど隠れて路地の闇の中に同化している。やがて男は屈んでコダックの体に手を伸ばすと、ポケットを丹念に調べてから、サングラスを外して顔に近づけて検分し、折り畳んでそれもコートのポケットに入れた。立ち上がったときにふと何かの気配に気がつき、振り返って路地の奥を見遣る。ひとつの白い塊が遠ざかっていくのが見えた。




7. (monologue)



 例えば、それは春先の、黄色いがそれほど力を持たない日差しが照る日で、風がときおり強く吹くために暖かさなどまるで感じない午後。私は風にたなびく髪を手で押さえるが、風と一緒に髪の毛が眼にぶつかるので半ば眼を閉じて、早く目的地へ着くようにと足を速めている。私は薄くて軽いベージュのコートを着て、突き出た二本の脚、それも膝上まであるブーツのおかげでそこだけ素肌が露わになった太股の下側の部分に風が当たって、けれど私の体温によって少し温度を増して滑っていく空気を感じている。信号が変わって自然と前へ出る足。そのときすれ違う何人かのイメージが私の頭の中に拡がるのと同時に、私はすでにその場面に立ち会っている。

 つばの丸い、いまどき誰も被らないような帽子と風で立ち上がった襟のあいだから覗く白い顔、表情のない、あるいは生活の色の映らない顔、男で、年齢は四十代半ば、黒い革の手袋をして、左手に茶色の書類鞄を提げている。彼の前方からは背中の曲がった、鼻の下に白い髭をたくわえている学者風の老人が、その印象は単にフレームが銀色の眼鏡がもたらす効果かもしれないのだが、木でできたステッキを突きながら、前を見るには腰が重たい感じで、あるいは風の強さのせいで眼をつむるようにして、歩いてくる。帽子を被った男はその老人と比べると倍以上の背丈があるようにも見え、ふたりがすれ違う瞬間に、私はわけもなくそのふたりを結びつけてしまう。とにかく男はその老人に一瞥を投げかけるより速く空いているほうの手で老人の胸に拳を入れたため、一瞬その光景自体が停止したようにすら感じられ、そして男だけがそのまま前へ歩いて横断歩道を渡りきるのだが、その場に膝を突き、そして前につんのめるようにして倒れた老人は身動きすることも出来ず、信号は変わっていたが、彼のもとへ近寄る者もなく、かと言って自動車が動き出すのでもなく、辺りはその老人の転倒が生じさせた不自然にぼやけた色彩に染まる。男はすでに立ち去っているが、彼の名はジュール・ナイトであり、倒れた老人はトーマスと言った。

 そうしてようやく私は人と会うために決めた待ち合わせの場所へと辿り着く。少し遅れたためにコーヒーを注文し終えている相手に軽く詫びを言ってから、コートを脱ぎ、それを丸く畳んで椅子の背にかけて、やっと座るあいだにも、私は少し前に自分の見た光景、自分の頭の中でだけ展開した場面から眼を離すことが出来ず、寸劇の余韻が私を掴んで離さないのを向かいに座る相手に気取られまいとするのだが、彼女は私の話が少しも要領を得ていないのを見て怪訝な顔をする。運ばれてきたミルクティーに入れる角砂糖の数を間違えそうになるのを注意してくれてから、「あなた、少し様子が変だけど、何かあったの?」という優しい問いかけに笑顔を返してなんでもないのと答えることでようやく私は私の世界に居場所を取り戻すのだ。

 多くの場合そのように場面は特に事件と言うほど事件とも呼べない類いのことで形成され、いちいち記憶にとどめているわけではないのだが、運悪くすぐには人に会ったりすることもないようなとき、私の中で場面は延々と物語を紡ぎ、そして、眠りが訪れるまでそれは続き、否応なしに幾つかのことを記憶し、それを人にであれ飼い猫にであれ、話さないわけにはいかなくなる。そのとき物語はある種の批准を済ませ、その場所に記憶の残留としてとどまることが可能になるのである。その場所とは、私の頭の中のどこかであり、話を聞いた相手の頭の中であり、あるいは猫の瞳の中であろうと思う。ともかく私はこのようにして溢れ出す物語を消化しているのだ。




8. green and purple



 スウィート・セシルは地下通路の入り口から姿を現した。濃い色のサングラスをかけ、髪を後ろで束ねている。Tシャツに色褪せたブルージーンズ。立ち止まってシガレットケースを取り出すと、一本抜き取って口にくわえ、側に立っていた男に話しかけて火をもらった。男はセシルの様子をしばらく観察すると、くしゃみをひとつしてから地下入り口に姿を消した。

 セシルは片方の手を肘に添えながらまっすぐに立ってタバコを吸い、ときどき顔の向きを変えた。サングラスの奥の表情は判らない。半分ほど吸って足元に落とすとそのまま人の流れに紛れる。

 ひとりの老人が杖を突きながら一歩ずつ脚を前に出して歩いてくる。よれたグレーのスーツの袖は擦れて糸が出ている。ドレッドヘアの若者がジーンズの裾を引きずって歩いていく。その隣には顔を黒く灼いた女の子がスカートから下着を覗かせる。スーパーの買い物袋を両手に提げた眼鏡をかけた中年の女が、ほとんど同じような外観のやはり中年の女と声高に喋りながら歩いてくる。髪の白い若い女の子たちが群を作って過ぎていく。老夫婦がその流れからやっとのことで抜け出て道ばたで休憩する。老婆の方は大きな風呂敷包みを抱えている。油の染み込んだ額に汗を浮かべ、老人は不平を吐き出す。車輪のついた板に載った男の子がふたり、列になって人々をかいくぐりながら先を急ぐ。女の子の数人が嬌声を上げ、数人が背中に罵声を浴びせる。スーツ姿の若い男が、彼よりふたまわりは上の男の後を付いて歩く。手には重そうな書類鞄を提げている。若い男性が道ばたにタバコを捨てる。少し離れたところでは眼が半分しか開いていない老人が丹念にゴミを拾い集めている。同じブティックの大きな紙袋を小脇に抱えた女が数人、大股で歩き去る。首輪のない犬が人々の脚と脚の間から顔を出し、眼鏡をかけた警官がそれを追っている。校章の入った鞄を背中に背負い、黄色い制帽を被った小学生たちが横に並んで歩く。正面からルーズな身なりの若者の一団がやってくるが、彼らは器用に小学生を避けていく。赤いスーツに金色のアクセサリーを身につけた女性が忙しげに歩いてくる。サングラスの奥からショーウィンドウに顔を向ける。揃いの黒スーツにサングラス、黒い革の手袋をしたふたりの男、一方は背が高くがっしりとしており、もう一方はその傍らで必要以上に細く小さく見える、ふたりの男が人々の流れから逸れて地下道の入り口の方へ向かうと先ほどセシルの立っていた辺りで立ち止まり、小さい方が周囲に一瞥を加えてから屈んでセシルの捨てたタバコを拾った。火はすでに消えている。男はそれをハンカチに包んで上着のポケットに入れる。

 真っ青のタイトなスーツに身を包んだスウィート・セシルが人波の彼方に姿を見せる。髪を下ろし、サングラスを外している。唇には薄いピンクが引かれている。セシルは背の高い男の腕に手をかけ、ときおり大きく口を開けて笑う。男はあまり表情を崩さない。前から来る人間たちに鋭い眼差しを注ぐ。男が誘導するようにして彼らは進路を少しずつ変え、自然と地下道入り口の前に出た。そこでは大小の男が立って人混みを観察している。その脇には背中に家財道具を背負った男が座り込んでいる。ふたりのうちの背の高い方がそれを見下ろしている。背の低い方がセシルに気がつき、傍らの大男の腰をつつく。ふたりは一瞬だけ顔を見合わせる。

 セシルが地下道へ向かおうと男の手を引くようにして人の流れから飛び出して、待ち構えていたふたりの男に行く手を遮られる。セシルは笑顔を絶やさぬままに疑問符を眉に浮かべる。小さい男がセシルの体に手をかけようとするのを連れの男が制するが、大男が詰め寄って男は大人しくなる。腹に小さな黒い短銃が突きつけられている。セシルは笑みの残像を顔の端に引きつらせたまま連れの男の顔を一瞬見て、それから小さな男に腕を掴まれたまま地下道の闇へと消えた。大男はそれを見送ってから短銃をスーツの内側に収め、体の向きを変える瞬間に肘を男の胸に突き立て、そしらぬ顔で地下道へ降りていった。少し遅れて男が石だたみの上に倒れる。


☆☆


 とあるオフィスの中。窓のない側の壁には書類ケースの並んだ棚があり、部屋の中央には大きなスチール製のデスクが置かれている。机の上には整然と事務用品が並んでいる。ジュール・ナイトは回転式のチェアに脚を組んで座り、受話器を耳に押し当てている。右手に火の点いたタバコを持ち、ときどき口まで運び、煙を吐き出す。電話口に向かって何か言う。顔をしかめ、眼光は鋭くなって白い顔の上に浮き立つ。命令するような口調で二言三言言った後、受話器を乱暴に置いてタバコを灰皿に押しつけた。

 ジュール・ナイトは虚空の一点を見つめてしばらく身動きしないでいたが、やがて視線を机の上に注ぐと胸の前の引き出しを開けて便箋を取り出し、ペン差しからボールペンを取って手紙を書き始めた。柱時計が三時の鐘を打ったがそれは耳には届いていないようだった。便箋二枚を使って手紙を一通書き上げると、それを脇にどけてもう一通に取りかかった。一通目に比べて乱雑なペンの走らせ方をしている。十行ほど書いた後にサインを入れ、その下の空白に大きく星の絵を描いた。五つの頂点を持つあのマークである。ジュール・ナイトは二通の手紙をそれぞれ四つに折り畳んで別々の封筒に入れ封をした。一方に宛名を書いてペンを置き、出来上がったふたつの封筒を眺めた。それからタバコの箱を手に取り、一本を口にくわえジッポー・ライターで火を点けた。白い煙を吐き出す。

 おもむろに受話器を取り上げ、十一桁の番号をダイアルする。肩で受話器を挟んで脚を組む。やがて渋い顔に変わり受話器を置いた。イライラしているようだった。チェアから立ち上がって窓辺に寄り、外を見ながらタバコをふかした。空は曇っていた。

 ドアをノックする音がした。ジュール・ナイトは振り向かない。ひと呼吸分の間を置いてからドアが開いて黒スーツに黒サングラスの二人組が入ってくる。ふたりはドアから三歩進んで直立した。

「報告いたします。スウィート・セシルの拉致に成功いたしました」

右側に立った方の男が言った。

「傷つけてはいまいな?」ジュール・ナイトは窓の外を見たまま低い声で言った。

「はい。薬を使って眠らせてあります」

「下がってよい」ジュール・ナイトは言った。

「は、失礼いたします」右側の男が言って、ふたりは部屋を出ていった。右側に立っていた男がドアを閉めた。

 ジュール・ナイトは無表情に窓から離れ、デスクまで引き返すと立ったまま受話器を取って番号をダイアルする。しばらくして電話が繋がると、声のトーンを落として喋り始めた。




9. mossgreen(olive)



 澄んだ空気の中に、朝方の緑たちが放つ、幾分湿った露を含む味の香りが混じっている。林の内側をそうした密度ある媒介が満たしひとつの飽和した状態を形づくって外から光は射し込むことがなく、一部はその聖域たる半球に反射して天に照り返しその連続によって生まれるグラデーションが幾重にも緑と黄金色の交差する、くぐもった層を生み出している。

 林の中をどこまで進んでも、その光の乱反射は続き、ただまっすぐに歩き続けるフランソワーズ・ショコラの行く方にまた背後にも影はない。辺りの空気が濃縮されたように境界の曖昧な、輪郭のぼやけた白い、あるいは光の白さを持つシンプルなワンピースを着ている。それよりさらに白い脚が膝のやや上から伸びて静かに下草を踏む足は裸のままで重さを感じさせない。瞬きをしないふたつの瞳はそれゆえに何も見えていないかのようだった。軽くカールした髪がしっとりと揺れる。歩く姿は、ほとんど止まっているように見えた。

 ずっと先で、何かがいっそう強い光を放ったように見えた。小さな光の点は明滅しながら近づいてくるように感じられたが、それはショコラのもとに届きそうになると消え、次にはそれとは別の方向から何かのこだまする音が聞こえてくる。そしてそれはまた、彼女の耳に明確な単語として届く間際に、まったくゼロのものと置き換わるのだった。

 ショコラは立ち止まった。

 それは周りを取り囲む光からの異化のきっかけであった。彼女は意思を持つものとして二本の脚で立ち、見開かれた眼を閉じる。同時に口元に軽く微笑が生まれ、空気が流れ静かな風が匂いを運んで肌の上を滑っていくのを感じる。眼を閉じた中に拡がる光の空間を突き通すように、ひとつの呼ぶ声がようやく彼女の耳に届いた。左の手で髪の毛を触り、依然として微笑をたたえたまま、その声に応えるため右足を一歩、体を捻りながらその方へ出し、左足のもう一歩で体をその方角へ向けると感覚の中でそれが行く方に替わる。再び肩の幅に開かれた二本の足を緑の上に突き立ててこれで準備が完了し、彼女はゆっくりと眠りから覚めた。

 薄暗い木立。遠く高い緑の隙間をかいくぐってあちこちに降りている光の柱を取り囲むように影を帯びた幹が並ぶ。薄暗い中に凛とした空気が張りつめ息を吸うとやはりにじんだ緑色の味がする。ショコラは首を曲げて四方を見渡す。どの方向へもどこまでも同じ空間が続いていく。何かが溢れ出す間際の心地よい緊張を保った静寂がそれらを覆っている。行くべき正しい道のりに、小さな赤色の点がひとつ、灯っているのが眼に映る。彼女はそれへ向かってゆっくりと草を踏み始めた。

 光が垂直に降りているその小さな円錐形の温室に、名前の判らない花が一輪咲いている。ショコラはその前で立ち止まり慈しみの眼差しを注いで膝を折り脚を崩して座り込んだ。色合いの異なる匂いを喉から胸のうちに送りそれとともに辺りの緊張がほどけていくのが感じられる。眠りを誘う風が静かに吹き始め時は再び止まろうとしてる。




10. bluegrey



 立ち並ぶ家々。いずれもひっそりと暗く、街は潜在的に死の影をそのうちに含んでいる。

 人影のない広い通りをひとり、ジュール・ナイトは歩いていく。いつものスーツ姿ではなく、コーデュロイのジャケットに革のパンツ、ネックのあるセーターから足元のブーツまで、全身黒に染めている。少し伸びすぎた金髪がときおり風ではためくが、ナイト自身はそれを苦にすることもなく、前方を睨むように見て重い足音を響かせている。

 ある地点を境に通りはアスファルトから土の道に変わった。それに合わせて建物も木造になり、背の低い軒が少し広すぎる通りを縁取る。風が土埃を運びくしゃくしゃになった古いポスターか何かが通りの端から端へと横断する。

 ジュール・ナイトは一軒の建物、古い西部劇に出てくる酒場に似た、の胸の高さに取り付けられた小さな扉を手で押して、ほとんど真っ暗な中に眼を光らせながら入っていった。

 通りには再び沈黙が充満し、砂を含んだ風が建物の屋根を叩いた。

 そこへ一匹の猫が、酒場と通りを挟んだ家の脇から姿を現す。猫の体は土にまみれたようなまだらな毛で覆われている。のろのろと通りの中ほどまで這い出すと左右に頭を動かして辺りの状況を確認する。ひげが上下に動き、瞬きを繰り返す。そしてその場に座り込んだ。

 猫の体に、鼻先に強い風が何度も吹きつけた。ここでは時間は経過しないため、どのくらい後のことになろうか、ひとりの女の子、彼女の名前がフランソワーズ・ショコラであることは明らかであるが、女の子が出鱈目な一軒の建物から出てきた。彼女はこの場面に不釣り合いな白く丈の短いワンピースを着ていて、肩の下まで伸びた髪を押さえながら、ゆっくりと猫に近づいていく。猫はすでにうずくまって、目を閉じて風をしのいでいる。

 FCは猫に斜め後ろから至り灰色の影で猫の体を覆い、軽くいさめる愛情語を呟いて抱き上げた。猫は途中片目を開けたがFCの胸に納まったときにはもう目を閉じて、あやすように軽く左右に揺さぶられるとひげだけが動いた。

 猫を胸に、FCは散歩の帰り道をのんびりとした調子で歩き始める。FCの進む通りの先には正面に赤いオレンジ色の夕日が歪み、彼女の髪と背景の空の際が金色に輝いた。

 ジュール・ナイトの入っていった一軒の酒場。真っ暗な建物の中には木製の丸いテーブルが並び、そのそれぞれに三脚ずつの椅子が置かれている。カウンターからいちばん遠い奥まったテーブルにひとり、ジュール・ナイトが座っている。カウンターではマスターのトマが、布巾でグラスを拭いている。他に客の姿はなく、音楽のかかっていない部屋の中はかび臭い空気が淀んでいる。

 ジュール・ナイトの前にはオンザロックが置かれている。灰皿はなく、ナイトは灰を床にそのまま落とし、吸い終えると手からこぼしてブーツの底で踏みつぶした。黒い革の手袋を填めた手でグラスを掴み、ひと息で飲み干すと立ち上がり、カウンターのトマの前に行く。

「同じものでいいかい?」とトマが訊く。

 ジュール・ナイトはそれには答えないでカウンターの上のひびを眼で追っている。トマは氷を削り、オンザロックの二杯目をナイトの前に置く。音が部屋の中にこだまするが、濃い空気に遮られて消える。

 ナイトは肘を突いて体を支え、オンザロックに口をつける。

「タバコはないのか」ナイトが訊ねる。

 トマは首を振って答える。

「あいにくあたしは禁煙中でね。この辺じゃタバコの自販機はなかなかないよ」

 ナイトは黙って飲み続ける。トマは三杯目を作るとナイトがグラスを置くのと同時にカウンターに出す。

「最近、コダックは来るか?」

 おもむろに、ポテトの皮を剥き始めたトマに向かってナイトが言う。トマは皮を足元のスチールのバケツに落とす。

「いや、さっぱり見ないね。警察に捕まっちゃいないのかい?」

「それはない」

「あんたが殺したという噂はある」少しためらいがちにトマが言った。

「殺す値打ちはないだろう」

 トマは自分には関係のないことだと示すように、新しいポテトを手に取った。

 通りを辻馬車か何かが過ぎていった。馬のいななきと鉄の車輪が土を削る音、舞い上がる砂埃。酒場は地震が起こったように揺れ、馬車が遠くに走り去った後もしばらく軋んでキイキイと音を立てていた。

「オレの勘が正しければ」ナイトは再び口を開く。トマは手を休めて続きを待つ。「今日、ここへコダックは現れるだろう」

「待ち伏せってわけかい?」

「いや、奴はオレに会いに来るんだよ」ナイトはグラスの底を指で撫でた。ブーツのつま先で木の床を叩く。

「殺し合いはやめてくれよ。店の信用に関わる」

「殺す価値はないと言ったろう。取引だよ」

 トマは左のボウルに皮を剥いたポテトを入れると右のボウルから新しいポテトを手に取った。トマがふと顔を上げて戸口を見ると、そこにはひとり男が立っていた。ジョン・コダックだった。

「おいでになったよ」とトマはジュール・ナイトに言った。

 ナイトの顔つきが微妙に変わる。

 コダックはゆっくりと通路を歩いてカウンターの、ナイトの隣りに立った。コダックの重たい足が建物を軋ませる。コダックはナイトの横顔を見たままトマに言った。

「ジンをくれよ、トマ」

 トマはポテトのボウルを脇にどけると小さなグラスに透明の液体を注いでコダックの前に置いた。コダックはトマに顔を向ける。「調子はどうだ、トマ」

「ぼちぼちさ」トマが答える。

 それきりコダックは口をつぐんでナイトの様子を観察する。苛つくような空気が店の中に沈殿している。コダックはジンをひと息で空にする。

「タバコをくれないか」ジュール・ナイトがようやく口を開いた。

 コダックは作業着の胸ポケットを探りながら言う。

「国産は吸わない主義じゃなかったのかい?」

 ナイトはコダックの顔を睨みつける。カウンターに置かれたくしゃくしゃのタバコの箱から一本抜き出すとマッチを擦って火を点ける。マッチを軽く振ってから足元に落とす。

「例のモノは持ってきたろうな」ナイトは煙を吐き出す。

「まあそっちがそういう手段を取るなら致し方ないさ。俺はわりあい人の命を大切に扱う方なんでな、誰かさんと違って」

 ナイトはそれには答えない。

「さっさとセシルを返してもらおう。ブツはそれからだ」

「まあいいだろう。オレはオマエと話していると苛々してくる。できれば二度と顔を合わせたくない」そう言ってナイトは戸口の方に向かって指を鳴らし合図をする。

間髪入れずにスーツの二人組が入ってくる。後ろに立っている方は、若い女の腕を掴み、もう片方の手には拳銃が無造作に握られている。女は声が出せないように口の周りにタオルが巻かれている。それは、スウィート・セシルだった。

 ジョン・コダックは上着のポケットから使い捨てライターを取り出してカウンターのジュール・ナイトの目の前に放り出した。

 ナイトはそれを手に取って軽く振った。カラカラと音がする。彼はライターを床の上に置くとブーツの底で砕く。破片に紛れて赤い小さな石がある。彼はそれを拾って息を吹きかけると、ハンカチに包んでジャケットの胸ポケットにしまい、別のポケットから小銭を適当に掴んでカウンターのトマの前に置くと体を返し、ジョン・コダックを一瞥してから戸口へ向かい、セシルと二人組には見向きもしないで木の戸を押して出ていった。二人組は顔を見合わせた後、セシルを放して慌ててナイトの後を追った。

 酒場の中には、コダックとセシルとトマが残った。

 セシルはタオルを自分で取ると脇にどけてあった背の高い椅子をカウンターまで運んでそこに座った。何か飲むか、という表情のトマにダイキュリを頼む。カクテルをひと口飲んで息をつくと、傍らのジョン・コダックに言った。

「何が何だか判らない」

「物事に一貫性があると思っているから判らないんだよ。昼の次に来る夜が新しい夜だと考えるから悪いんだ」

 セシルはもうひと口飲んで、考え込むような表情をする。

「たぶんあんたは自分の名前もいまでは思い出せないはずだ。そういうことだよ。自分の中のキャラクターはひとつではない。年齢だって演じるものによって変わる。いずれ気づくだろう。本当の自分なんてものは全部ウソだったことに」

 コダックはそれだけ言ってしまうと紙の金をトマに渡して釣りを断り去っていった。

 後にはスウィート・セシルとトマが残った。




11. (monologue)



 それらの物語の還る場所、あるいはそれらの場面の生まれいずる場所に記憶という名が相応しいのかどうかは判らない。けれど私は、それらの光景を常に、一度ないしはそれ以上、かつて自分が見てきているように感じるのだ。頭の中の重い扉をゆっくりと開いて、雑然とした辺りをかき分けながら進んでいき、積もっている埃の層が厚さを増し、肌に擦れるその感触を頼りに、それがどこからやってきた記憶であるのかを突き止めようとして、小さく点る灯りを辿っていく。その道を奥へと進むにつれて、世界の姿は私が見知っていると考えているものから離れていく。そう、そこはまるで私の知らない世界。

 そのようなものに前世の記憶などという感傷的な呼び名を与えるつもりはない。私は、少なくとも私にとっては先も後もない今生の生を営んでいるのであり、私の記憶はすべて私のものだと思う。そう考えないと生きてゆけないのではないか? 

 しかし実際には出自のはっきりしない記憶など幾らでもあるだろう。それは実際の私の生であり、あるいは様々なものを媒介として私が疑似体験した世界である。それらの記憶の断片の積み重なりが、やがてひとつの、あるいは幾つかの物語を紡ぎだしたとて何の不思議があろうか。

 私はふと手を伸ばして傍らの棚からひとつの箱を、その上には数センチもの埃が積もって私はそれを手にとって顔の前で口をすぼめて息を吹きかけ埃を飛ばす。それでもなお箱の表面には油の滓のようにこびりついてしまっている。すっかり錆びた留め金を外し、蝶番が軋み、中を見ると、そこにはやはり何人かの人物のうちの誰か、それはFCであったりセシルであったり、あるいはジョン・コダックであったりジュール・ナイトやロビンであったりする者の記憶という名のエピソードのそのまた断片が眠っているのである。

 あるいはそれらの記憶の箱に最初に入れられた記憶の核のようなものは、もともとはそれぞれの純粋なる意味を持ち得たのかも知れない。時間の流れとその堆積、季節が巡り昼夜が繰り返し訪れる、その醸造ともいうべき工程の中でそれらは何らかの意思によって、一定のカテゴリーの人物たちに振り分けられているのかもしれない。

 思うに、その箱は刻々と状況を変えているのではないだろうか。新しさや古さの別なしに、それらは時がたてば自然と蓋が開き、誰かこの部屋の管理人のような者が、それを扉の外へと思い切り放り投げている。そんな姿が私には浮かぶ。いま私の通ってきた道はどこもかしこも埃のヴェールに覆われているが、その管理人、彼を仮に門番と呼ぶならば、門番は埃に跡を付けることなく動き回り、従ってこの部屋においてなお私にはその存在を気取られないでいる、私の影のような存在。影はなぜ私に、これらの記憶を呼び起こすことを強いるのだろう。




12. apple



 建ち並ぶ商店の壁、長く続く塀、石だたみ。灰色の石造りの土台の上に赤青黄いろとりどりの装飾が施され、そして人々が行き交う。笑い声怒鳴り声、日常の挨拶。その中をおもちゃの自動車が煙を吐いて走る。

 角を曲がって、一台の赤色のトラック、郵便局の自動車が現れる。運転するのはロビン。ロビンはフランソワーズ・ショコラの三軒隣りに住んでいる。ふたりは幼なじみなのだ。

 ロビンがいつも運転しているこの車の名前は『赤い冷蔵庫号』。ロビンと八つ違いの弟がそう名付けた。もっともFCは勝手に『赤いバニーちゃん号』と呼んでいたが、ロビンが実際にどちらを気に入っているかは判らない。案外『赤い車』程度にしか思っていないのかもしれない。

 ところで今日のロビン・アンド・赤い冷蔵庫号はひどく慌てているようだ。カーブの曲がり方もいつもより少し荒っぽい。ロビンの流れるような運転も今日はなりを潜め、ゴウンゴウンと黒い煙を吐き出しながら猛スピードで駆けていく。しかも実は、同じコースを何度も何度もぐるぐる回っているのだ。いったいどうしたのだろう。

 それというのも、実はFCとロビンの家があるかもめ町ではいま大事件が起こっていた。FCと飼い猫のミルが三日前から忽然と姿を消しているのだ。ショコラ一家と家族ぐるみで付き合っているロビンの家にもFCの消息に心当たりがないかどうか、ショコラの母、マヨネーズ・ショコラから電話がかかってきた。三日前というと上機嫌のFCを街まで乗せていったあの日である。ロビンはFC捜索のために有給休暇を取り、こうしてもう二日も街中を赤い冷蔵庫号とともに駆けずり回っているのだ。

 警察も出動していたが、FCと兄妹のように育って密かに恋心まで抱いているロビンとしては「そんなヤツラに任せてられるか」と叫んで家を飛び出すのも当然である。しかしロビンと赤い冷蔵庫号に出来ることと言えば、心当たりのある場所を走るだけで、とても行方不明者を見つけだすことなんてできやしない。何しろいまではふたり(ひとりと一匹)が誘拐された可能性さえ浮上しているのだから。

 警察の方は持ち前の堅実で緩慢な捜査を田舎特有ののんびりとしたテンポで実行していた。例の聞き込みというのが専らの手段である。

 ロリポップ巡査は二十二歳、まだこの仕事に情熱を失っていない人捜しにはもってこいの人物である。しかし彼を教育したのはこの道三十五年のベテラン、タイガー巡査部長なので、いくらロリポップ巡査が若くてやる気があったとしても、結局捜査方法は聞き込み意外には有り得ないのだった。

 以下はロリポップ巡査部長による聞き込み調査の経過である。

 まずは関係者から。

 マヨネーズ・ショコラ「うちの子のことですから、きっと可愛いワンちゃんとかネコちゃんとかを見つけてついて行っちゃったんじゃないかしら。ミルちゃんも一緒だとするとふたりとも方向音痴だからどこかで迷子になって帰れなくなっているのだと思うワ。お腹を空かせてないといいんだけど。それだけが心配」

 バニラビーンズ・ショコラ(FCのパパ。CMP銀行頭取)「はい、うちでは子供たちには自由にやりたいことをやらせるようにしています。お小遣いは毎月一万五千ミルミルです。これだけあれば買えないものなんてないくらいでしょう。いや、別に銀行のお金を横領しているわけではないですよ。我が家ではご先祖様の残して下さった財産がみんな定期預金に入っていますからな。まあ、ママのご飯が食べたくなったら帰ってくるでしょう」

 キャサリンリン(ロビンのママ)「フラちゃんのことだから知らない人に付いていってしまったんじゃないかしら、キャンディーあげるとか言われて。とにかく昔からそういう傾向のある子だったわ。うちの息子は心配してるみたいだけど、あの子なら大丈夫よ」

 非関係者。

 魚屋のおやじ(ジョン・コダック)「オレが心配してんのはミルちゃんの方だよ。あの子はなかなか好き嫌いが激しくてねえ。鮮度にもうるさいんだ。昨日水揚げしたものなんてまず口にしないね。しかもサンマは食うけどイワシは食わねえなんてほんとネコのやることじゃないぜ? 誘拐犯もミルちゃんには苦労しているだろうよ。案外うちに魚買いに来たりしてな。今日からは眼を光らせて怪しい奴がいたら一発おみまいしてやるさ」

 ミス・キュート(おしゃべり)「あたしはお向かいのシャクンタラーさんとこの奥様から聞きましたの。もうすっごく驚きましたわ。あの可愛いフランちゃんが行方不明だなんてねえ。暴漢にひどいことされてないといいのだけど。あらでもあれかしらねえ、ひどい目にあうのは暴漢の方かしらね。ウワサではあれよ? フランちゃんてカラテ五段だそうよ? 小学校二年生のとき体育の時間にひとりだけカワラ十枚割りに成功したとか。ところでねえ、うちのランギーちゃんなんだけど、あ、うちで飼ってる猫の名前ね、そうランギーちゃんたらミルちゃんに恋していてね、ミルちゃんがうちの前を通っただけですぐに判って表まで出ていくの。でもちょっとあたし躾方が甘すぎたのかしらね。ランギーちゃんたらミルちゃんの後ろ姿をただ呆然と見送るだけなんですのよ。そりゃあミルちゃんの血統ときたらもうここらじゃ有名の帰国子女ですけれど、うちのランギーちゃんだってご先祖様は海の向こうで名を馳せた名門なのよ。あたしはふたりの結婚式に出る日を心待ちにしているの。ミルちゃんの花嫁姿が眼に浮かびますわ」

 パン屋の主人ジュール・ナイト「昨日覆面姿の男女がうちに押し掛けてきて、そう、あれはもう店を閉める直前で他に客はいなかったんだが、『食い物を出せ』と言って自動小銃をわたしに突きつけたんだ、男の方がね。それでわたしはどうせ捨ててしまうつもりだった残り物のパンを全部大きな袋に入れて彼らに渡してやったんだ。こっちとしても丹誠込めて焼いたパンを捨てるなんて辛いからね、食べてくれる人が現れたんで内心大いに喜んだよ」

 ラブリー・デイジー(FCのクラスメイト)「フラニーなら大丈夫よ。わたしが心配なのはこのあいだ貸したギャロの映画のビデオ、ちゃんと返してくれるかどうかってこと。フラニーのママに訊いてみたら部屋には見当たらないっていうのよ? 大方ボーイフレンドにでもまた貸ししちゃったんじゃないかしら。あの子、自分のものでも人のものでもなんでもすぐなくしちゃうから。でもあの子のそういう性格のおかげでいじきたないとこなくなったし、みんなフラニーのこと愛してるけどね。でもギャロ様だけはもっと愛してるのよ、あたし。ああ心配だわ」

 いかな仕事熱心のロリポップ巡査でもここまで役に立たない情報しか入ってこないといい加減うんざりもしてくるというもの。彼は職務中であるにもかかわらず電話ボックスからこっそり恋人のミーちゃんに電話をかけてうっかり長電話をしてしまい退勤時間になってようやく電話を打ち切って家路につくという毎日を繰り返していた。そんな彼にできることと言えば、せいぜい周りの人間の発言をもとにFCの人物像を作り上げることくらいだった。FCのママから参考物件として預かった写真とロリポップ巡査の抱いているFCのイメージを結びつけるとなかなか憎からず思ったが、彼にはミーちゃんがいたので恋に落ちることはなかった。彼は純愛派だったからだ。

 さて、我らがロビンと赤い冷蔵庫号に話を戻そう。

 ロビンは誰よりもFCのことをよく知っていた。彼はFCがあくびをするときにおでこにできるしわのことも知っていたし、FCがクラスのみんなに内緒で購読している雑誌のタイトルも知っていた(『現代』『詩とメルヘン』)。彼は赤い冷蔵庫号を猛スピードで走らせながら考えた。フリーはいったいどこに行ってしまったんだろう。同じところを何度もぐるぐる回っているうちに出た結論はひとつだった。フリーはいままで行ったことのないところに行ったに違いない。そして本人は絶対に楽しんでるだろう。道に迷ってもあまり気にしないで、何かを追いかけたり見つけたりすることに熱中しているのだ。ではそのフリーに追いつくためにはどうすればいいか? それはもう、適当な何かに夢中になって走り続けるしかない。そうすれば自然とフリーのいるところに行けるはずだ。昔から、僕たちふたりはそうだった。これがロビンの考えたことである。さて、彼はどうしたか。

 突然ロビンはハンドルから手を離した。暴走気味だった赤い冷蔵庫号はロビンがハンドルを手放したのでびっくりしてしまった。彼はロビンにその真意を尋ねるためにブフォブフォとエンジンをふかした。ロビンは赤い冷蔵庫号に言った。

「これから先はオマエの走りたいように走れ。いままでオマエはいつもオレの言うことを聞いてくれた。砂利道だろうとぬかるんでいようと文句ひとつ言わずオレを目的地へと連れていってくれた。今日はオマエがいままで行ったことのないところに行ったっていい。迷子になったってオマエなら大丈夫さ。運転は任せたから、オレをフリーのもとへ連れていっておくれ。それができるのはオマエだけだ」

 赤い冷蔵庫号はご主人様にこう言われてまたブフォブフォとエンジンをいななかせた。彼は勇気百倍でいままで以上にスピードを上げて走り出した。もはやロビンには窓の外の景色など見えなかった。いろんな色が混ざり合って何でもない色になった。しかし彼は自分の赤い冷蔵庫号をとても信頼していたから、少しも不安になったりはしなかった。赤い冷蔵庫号はますます加速していく。

 突然赤い冷蔵庫号が速度を弛め、ロビンの前に視界が開けた。まず眼に飛び込んできたのは青空に浮かぶ真っ白な雲、続いて車が高度を下げるにつれ、緑の森がどこまでも続いているのが見える。それは海のように大きな森だった。黒い小さな鳥の群れが赤い冷蔵庫号を迂回してばらけながらすれ違い、通り過ぎると再び編隊を組んだ。赤い冷蔵庫号は浮かんでいるようにゆっくりと舞い降りていく。ロビンがメーターを見ると針はふり切れて止まっている。太陽の日差しがそそぐ。フワリと赤い冷蔵庫号は、草原の端の、森の入り口に降り立った。

「この中にフリーがいるんだな?」ロビンは赤い冷蔵庫号に話しかけた。

 すると驚いたことに、カーステレオのスピーカーを通して赤い冷蔵庫号がこう言った。

「いやここで待っていればショコラさんはやってきますよ。ミルさんを抱いてね」

「オマエ、喋れるのか?」ロビンは元来あまり驚かない方なのだが、このときばかりはびっくりして赤い冷蔵庫号の運転席の天井に頭をぶつけた。

「ここでは何だって喋ることができるのです。ロビンさんが話しかければみんな返事をしますよ。何だってです」

 試しにロビンはタイヤに話しかけてみた。

「キミタチ、いつも有り難う。キミタチのおかげで僕らはとても助かっているよ」

 すると間髪入れずに少し弾んだ四重奏が返事をする。

「イイエ、ドウイタシマシテ。ワタシタチハジブンタチノツトメヲハタシテイルダケデスヨ。コンナイイゴシュジンサマヲモッテワタシタチハシアワセデスヨ」

「本当に喋った」ロビンはまだ不思議そうな顔つきをしている。

「みんなロビンさんに感謝してますよ。ロビンさんほど熱心に車の世話をしてくれる人はそういないですからね。ほら、ショコラさんたちだ」

 赤い冷蔵庫号にそう言われてフロントグラスに顔を向けると、森の中から白い影が出てこようとしているのが見えた。それはやがてひとつの輪郭を帯びて、ミルを胸に抱えるFCの姿になった。赤い冷蔵庫号に気がついてFCの顔がほころぶ。

「あれ? どうしてここがワカッタノ?」助手席のドアを開けてミルを先に乗せ、自分も乗り込みながらFCが訊く。

「コイツがここまで連れてきてくれたんだよ」そう言ってロビンは右側のドアをコツコツと叩く。「それよりこんな遠くまで内緒で来て、みんな心配してるぞ」

 ロビンの顔をのぞき込みながらショコラが言う。

「ごめんなさい。でもうちに帰ったらミルの姿が見えなくって、代わりに白いネコちゃんがうちに居てね、ミルが迷子になってるって教えてくれてここまで連れてきてくれたの。……黙って出かけてゴメンナサイ」

 ロビンは申し訳なさそうな表情を浮かべるFCの顔から眼を逸らしてハンドルを握った。

「ま、無事で良かったよ。さ、帰ろう」

 もうロビンは自分で運転して帰ることができる。彼は再び喋らなくなった赤い冷蔵庫号のエンジンをかけ、Uターンしてゆっくりと走り出した。




13. ginger



 テーブルには五人の人間が座っていた。女の子はスウィート・セシルひとり、他はジョン・コダック、ジュール・ナイト、ロビンとトマである。

 長方形の広いテーブルの上には料理の大皿が並び、めいめい数枚の皿を使って好きなように食べている。グラスは四つずつ、そのうちのひとつには必ずミネラルウォーターが入っている。赤ワインを飲んでいるのはコダックとセシル、残りの三名は赤白ともにグラスに注がれているが、専ら水を飲んでいる。セシルはいま、グリーンサラダを大量に取り分けたところだ。そして、喋っているのは一座の長、ジョン・コダックである。

「……だから、まあこのシーンは、ジュール、オマエに任せることにするよ。つまり、その方が相手役のオレとしても面白いんだわな。外から観てる分にはあれこれ口出しもするが……いったん演技する側に回るとなると、そっちの方がダイナミックな感じするだろう」

「じゃあ私外から口出しする」セシルが口の中でコマツナをかみ砕きながら言う。

「いや、別にいい」とコダック。

「何で? 外から観てる人の意見が聞きたいんじゃないの?」

「オマエのはいらん」

「そう?」セシルは気にもとめずグラスのワインを飲み干すと、新たに自分で注ぐ。もう酔っぱらっているのだ。

 コダックはジュール・ナイトの方に向き直る。

「というわけだから、ここセリフないとこだろ。で、オレも真っ暗とか足音とか路地とかしか書いてないからな。こいつら使ってオマエがこのシーンを作ってくれ」

「まあいいだろう」ジュール・ナイトは幅の太いパスタにトマト系のソースがかかったものを口に入れ、水で飲み込む。

「まあ我々はもう出番ないからね。後は通行人の役でもやるか?」

 そう言ったのはトマだ。

「でも僕は何しろカメラ持たなきゃなんないからね。トマさんもやってみる?」

「おいおいロビン。こんなジジイにカメラなんか持たせちゃダメだぜ? どうせセシルのケツばっかアップで映すんだからよ」コダックが横やりを入れる。

「あたしのケツは高いよー?」と酔っぱらいのセシルが言う。

「あんた飲み過ぎだぜ?」

「トマが飲まなさすぎなの。そんなんじゃちゃんと体動かないよ? よく食べよく飲め。これが私の信条だから」

「もっと食ってケツに肉つけてくんな。あんたのは薄くてかなわん。見ると悲しくなるね」

「あら、意外とプヨヨって」

 それを聞いたコダックが腹を抱えて笑い出す。タバコを持っていない方の手でテーブルの上を叩く。

「ちょっと、お酒こぼれちゃったじゃない」セシルは口を尖らせるが、コダックは耳にも届いてないようで笑い転げている。そこでジュール・ナイトが席を立った。

「オレはもう帰るわ。また明日」

「ええ? もう帰っちゃうの? あーん、寂しいわあ。でもあたし、まだ飲み足んないからな。うーん、じゃあね、バイバイ」

 ロビンが出ていくのを見送ったセシルは隣のロビンの方に顔を寄せ、真顔で言う。

「ジュールさんてベジタリアンって本当?」

 ロビンはちょうどチキンを手づかみで食べていたが、セシルの言葉に手を止めて指先をナプキンで拭い、水をひと口飲んだ。

「さあ、知らないよ。とりあえず君は違うね。僕も違うし。トマさんはどうなの?」

 しかしトマはすでに居眠りを始めていたためロビンの言葉には反応しない。トイレからコダックが戻ってくる。

「なんだって?」

「ジュールさんがベジタリアンなのかってセシルちゃんがね」

「オマエはまた次から次へとバカなことばかり言いやがって。酒飲むと精神年齢が年相応になるなー」

「まだお酒を飲む歳じゃないんだよ」とロビン。

「そんなことないよ? あたし四歳からずっとワイン飲んでるもの。これがないと生きていられないわ」


☆☆


 シーン65。

 赤い絨毯を一面に敷き詰めた中央に、ひとりセシルが立っている。ここは港の近くの倉庫の中だ。壁はすべて赤い幕で覆い、照明もふたつのスポットの他は赤いセロファンをかぶせてある。現在はカメラがロビン、ナイトとコダックが左右からセシルに照明を当てている。

 セシルは白いシンプルなワンピース、シーン18と43でも使ったものを着ている。裸足で、アクセサリーも何も身につけていない。手を前で合わせ、まっすぐ前を見ている。ロビンは四つのカメラを順々にチェックして回る。セシルはどのカメラにおいても斜めからの姿が捉えられている。ロビンの他は誰も身動きひとつしない。監督のコダックも別に口を挟みもせず、画面の内側に赤い静寂を作り出そうとしている。ライトはスポットふたつの他、全方向からセシルを照らすように置かれている。薄い影がセシルの足元で円を描いている。

 セシルが静かに眼を閉じた。コダックが腕時計に眼を遣る。セシルの合わされた手が離れ、体に自然に沿う。そのまま、時間が歩みを遅めるように、ゆっくりとセシルは後ろに倒れてゆき、それをスポットが追う。音を立てずにセシルの体が床に届いた。手足が転がり、髪が乱れる。ロビンは黙って見つめている。コダックは腕時計を見ている。ジュール・ナイトは、あるいは眠っているようにも見えた。

 そのまま時間が止まったように、誰も動かない。セシルはただの人形のまま横たわっている。コダックが腕時計から顔を上げた。

「カット。ごくろうさん」照明台からナイトとコダックがそれぞれ降りてくる。ロビンはカメラを止めて回る。セシルは、同じ恰好のまま身動きしない。三人がセシルの寝ているところまで寄っていって見下ろすように立つ。横を向いたセシルの眼は開いていて、あらぬ方の一点をじっと見つめている。誰も口を開かない。

「監督……こんな終わり方でいいんですか?」セシルが言った。




14. tangerine



「わたしはキュートって言います。いえ若い頃はこれでもモテたもんですのよ。高嶺の花っていうんですか? 美女は得てして売れ残ってしまうもので。

 近頃は昔のことを逆によく思い出しちゃうんですよ。小さい頃いつも持って歩いていたくまのぬいぐるみのこととか、その頃住んでいた大きな家のことですとか。

 わたしが育ったのはとても田舎でね、隣の家まで歩いて二時間もあって、そこまで全部うちの庭みたいな感じで。白い大きな犬を二頭飼っていて、わたしはよくその背中に乗ってカウボーイの真似をしたものでした。

 わたしは五人兄妹の末っ子で、上はみんなお兄さん。いまじゃ二番目の兄さんしか生きちゃいないけど、わたしがばあさんになった分、兄さんも歳をとったわ。トマっていう名前なんですけどね。いちばん上の兄さんのことはあまり覚えていない。わたしが学校へ上がる前に戦争で死んじまったから。

 わたしとわたしのすぐ上の兄さんは他の三人とずっと歳が離れていてね、兄さんたちが父さんと一緒に畑仕事をしているそばを、犬たちと一緒にはしゃぎ回っては母さんに叱られましたっけ。

 家のすぐ裏はちょっとした森になっていて、中に入ると昼間でもひどく暗かったわ。母さんは入っちゃいけないって言っていたけどまあ子供だったから当然そんなの聴くわけなくて、兄さんとふたりでよく探検してました。犬たちが、ジョンとコリンズって言ったんだけど、ついていてくれたから少しも怖くはありませんでしたし。

 森の中はいつも湿っぽくて緑の匂いと土の匂いで息がつまるくらいでした。木の梢の方では鳥たちが金切り声をあげて飛び交っていて、まるで侵入者に対して警告しているようでした。わたしたちは恐怖を吹き飛ばすように鳥や小さな森の動物たちの鳴き声に、はしゃいだ笑い声で迎え撃ちました。ジョンとコリンズが絶えず辺りに注意を払ってわたしたちの護衛をしてくれていました。普段はとてもおとなしい子たちだったんだけど、森の中では白いライオンのようだったわ。だからわたしたちはとても安心して遊んでいられたし、道に迷う心配もありませんでした。夕暮れが近づくと犬たちが家まで連れていってくれましたから。

 あるとき、それは秋の始め頃で、お母さんの作るシチューの材料にしようと思って、森にキノコを採りに出かけたことがあったの。いつものように兄さんとジョンとコリンズと一緒に。土を掘るシャベルと採ったキノコを入れるカゴを持ってね。その日は秋晴れで、わたしたちは朝早くに目覚めて食事のあいだもそわそわしどおしで、来るべき冒険が待ちきれない感じでした。わたしたちは家畜にエサをやり終えると納屋の奥に隠しておいた道具を持って、さっそく森に出かけました。父さんたちはとっくに畑に出かけていて、母さんは下男の馬車で街まで買い出しに行っていました。

 キノコは山のように見つかりました。ジョンとコリンズはとても鼻が利いたから、わたしたちはただ二匹の後をついていけば良かったの。お昼を過ぎた頃には、カゴはもういっぱいになっていました。

 これ以上キノコを採っても持ちきれなかったので、わたしたちはカゴを足元に置いて、めいめいジョンとコリンズにまたがって、例によってカウボーイの真似事を始めました。わたしは指名手配中の盗賊を追いかける保安官の役で、兄さんが盗賊の役をやりました。犬たちも大張り切りで、わたしたちはとても熱中していました。木の間から差し込む太陽の光が薄く暗くなっていくのも気づかずに。

 夕立はわたしたちの住んでいた辺りではそう珍しいものではなかったけど、わたしたちは雨の日は森には近づかないことにしていましたから、雨粒が木の葉っぱに当たる最初の音を聞いた瞬間、わたしたちの周りを包んでいた楽しい陽気な空気は一変して、暗くて、何だかはっきりとは判らないけれど不安にさせるようなものになっていました。雨は一気に本降りになりました。

 わたしたちはすぐに家のある方へ戻ろうとしましたが、気づかないうちにずいぶん奥まで来ていて、しかも雨水でぬかるみ始めたなかを歩いて帰るのではどのくらい時間がかかるか見当もつきませんでした。キノコを諦めればジョンとコリンズの背中に乗って帰ることもできましたが、兄さんのその提案に頑として首を横に振るわたしを見て、兄さんはわたしの手を取って、とりあえず大きな木の下に座ったのでした。犬たちがわたしたちの両脇に陣取って、薄暗い森の中を警戒しました。その頃にはわたしたちは恐怖と不安で足がすくんでいました。

 初めそれに気づいたのは兄さんでも二匹の犬たちでもなくわたしでした。わたしは怖くて泣き出しそうになっていたんだけど、眼を手で擦ってふと顔を上げると、何か白くてぼんやりとしたものが眼に入りました。最初は小さなキノコのようでしかなかったのが、だんだんと大きくなって、どうやらこちらに向かって近づいてきているのが判りました。わたしは傍らの兄さんに知らせようとしましたが、どういうわけか声を出すことも首を横に向けることもできません。犬たちも気づいていないようでした。それはゆっくりと膨らんでいくように徐々に姿を大きくして、やがて白い猫であることが判りました。その猫はちょっと普通じゃない目、何と言うか、人間に近いような表情があって、けれど奥行きのない平板な目で、そしてある程度まで近づくと立ち止まってまっすぐにわたしを、わたしだけを見ていました。どうやら自分にしか見えていないことがやっと判って、わたしは恐怖で凍りつくようでした。猫はいまにして思えば別に悪意も何も発していたわけではなかったのかもしれないのですけど、そのときのわたしは金縛りにあったようで、瞬きもできずにじっと猫のふたつの目を見るしかありませんでした。猫は猫で、じっとわたしを、わたしの中にあるものをのぞき込んでいるようでした。わたしは自分がだんだん薄っぺらいものに変わっていくような錯覚を覚えました。

 そのとき、猫に何か異変が起きたように見えました。何かが猫の側で起こっているのが感じられました。猫はまっすぐにわたしの眼を覗き込んだまま、片肢を一歩前へ出しました。そして、にやりと音を立てて笑ったのです。それはまるで口が裂けるようなのっぺりとした笑い方でした。目は無表情のまま、鳴き声も出さずに、しかし顔全体で笑っていました。わたしには猫の顔だけが大きくなっていくように見えました。わたしはありったけの力をふりしぼって叫び声をあげると、ようやく猫の呪縛から解き放たれました。ジョンとコリンズが異変に気づいて吠え、猫はさっと身を翻して茂みに消えました。わたしは我に返って兄さんの驚いた顔を見ると、ゆっくりと気を失っていきました。わたしの名を呼ぶ兄さんの声と二匹の犬たちの吠える声が遠くに聞こえました。

 気がつくとそこはもうわたしと兄さんの部屋のベッドの中でした。暖めたヤギのミルクを運んできた母さんが小言を言いました。わたしたちふたりは以後森に入ることを禁止されました。ジョンとコリンズも近づこうとはしませんでした。その日採ったキノコを結局どうしたのかは思い出せません。カゴごと置いてきたのかもしれないし、兄さんが持ってきてシチューの材料になったのかもしれません。

 わたしはその白い猫のことをずっと忘れていました。不思議なことに、昔の森の中で遊んだことを思い出してもその猫へと連想がつながっていくことはありませんでした。つい先日、もう寝ようと思って暖炉の火を消しにいったとき、ふと背中に寒気を感じて、振り返った瞬間に、あの日のこと、あの白い猫のことを思い出したのです。わたしは部屋の中を見渡しましたが別に何も異変は感じられませんでした。しかし、それ以来ことあるごとに、視界の隅に白い塊があると、反射的にそれがあの猫の笑った顔へと結びついて、あの日の恐怖が甦ります。そして、わたしはこれから先ずっと、たとえ眼が見えなくなってもあの猫の微笑だけを見続けるのです」




15. milk



 青白い月が虚空に輝き、光は雲ひとつない空の隅々まで及んでいる。森が始まる入り口の前、大きな岩の上には少女がひとり、腰掛けている。少女の白いドレスは月の光を照り返して辺りをぼんやりと白くしている。一匹の白い猫が、少女の脇に座っている。ふたりは、共に月を眺めていた。

 今夜がその日であることは、記憶の中にすり込まれた一行の言葉によって、少女には判っていたことだった。少女は時を待った。最初この岩に座ったとき、月はまだ地平線すれすれに顔を出したばかりだった。風がそよそよと吹き、森が静けさを吐き出した。虫たちの声は、気がつくと止まっていた。

「必ず迎えに行くから、ミサキ」

 繰り返し思い出すその声が誰のものであるのか、少女には判らなかった。声は必ず、少女が孤独であることを意識し、焦点のずれた瞬間に、頭の後ろの、耳の少し上の方から聞こえた。振り返っても、人の姿はなかった。最近では、その声の他に耳に入ってくる音はなかった。あるいは、頭の中で鳴っている声であったのかもしれなかったが。

 その声はいつも少女に何かを思い出させようとした。遠い遠い昔のこと。はるかに隔絶された場所。還っていくべき世界があるような感触が少女の冷たい肌の上にいつまでもとどまっていた。

 耳鳴りが始まった。少女は静かに眼を閉じて、押し殺した呼吸をすると再び月に眼を預けた。猫は瞬きをせず、まるで石で造られた置物のように見えた。月が、上昇を止めた。

 少女はずっとこの時を待っていたのだった。耳鳴りは、いまでは懐かしいあの呼ぶ声に変わっていた。猫が何かに感づいて体を震わせた。少女の心は穏やかだった。

 月が放つ光の強さが少しずつ増していた。いまでは月のあるはずの場所は何よりも深い白さを帯びて、光が拡散して少女と月の間の何もない空間を白く染めていく。初めゆっくりに感じられた光の帯はやがて月が落ちてくるような速さで少女を目指し、真上から少女に雨となって降り注ぎ、その白く輝く光の柱の中で、少女の姿はぼんやりと薄まっていき、やがて見えなくなった。時が止まろうとしているのだった。

 光は急速に薄らいだ。世界全体を包む白さが収束していく中で月は密かに姿を消した。いまでは、すべてが薄い暗がりの中にあった。岩の上にはすでに少女の影はなく、後には猫だけが残った。猫の体は、もはや白い表象を失って、色の混じり合った、世界を表すまだらな模様をその体に示していた。空に月はなかったが、猫はいつまでも見つめ続けていた。




16. (monologue)



 記憶は書物には似ていない。強いて言えば本棚になら似ているかもしれない。天国の神様の部屋は巨大な図書館になっていて、そこにはこの世の始まりから終わりまでのすべての人間の一生の物語の書かれた本が収められているという話を聞いたことがある。それが意味するのは記憶と人生とを個人に属するものとして捉えることであるが、私がいま記憶について考えるのは、私たちが何らかの形で、幾つもの記憶を共有しているのではないかということだ。私たちは、もちろんデフォルメしてみれば明らかになるような各々の傾向というものを持っているが、この星を覆う夥しい数の人間にとって、それらの傾向が一個人に帰するほど多く存在しているとは考えにくい。私たちは、無意識のレベルにおいてそのようなタイプファイを免れないだろう。

 言葉というものが生まれてから、私たちは意思と記憶とを伝搬し続けてきた。それらは私たちの生においてさらに増幅されながら、やがて後の世代へと受け継がれていく。存在するのは歴史ではない。あるのは前から後ろへの記憶という流れだけだ。

 それらの記憶を呼び起こすとき、私は自分にも理解可能な範囲に変換している。その変換子が彼ら登場人物なのである。ある程度自分に被せられる記憶をFCという人物に託し、その他の補いきれない記憶が生まれるたびに、それを既成の何人かの人物に肩代わりさせて再生する。

 記憶の流れについて、前から後ろへと言ったが、私自身ははっきりそのように考えている。決して何かを辿って遡っているのではないのだ。あるいは記憶の眠る部屋の扉を開けたそこには道も棚もないのかもしれない。あるのはただ空間と不確定に存在する記憶の断片たちである。空気はゆっくりと流れあるいは回り、あるいはもっと極端な状況の変化により撹拌され、何もかも、新しいものも古いものもすべてがごちゃまぜになってしまう。ときには場所すら時代すら異なるふたつの断片がぶつかってそれがそのまま扉の外へ飛び出すと、私は何とも不思議な、有り得べからざる光景を見ることになる。

 私はいまその扉の外に立ってそのぐるぐると回るぼんやりとした闇を見下ろしているのであるが、やがて、私は後ろを振り返り、誰もいないことを確かめてから、その異次元の世界へと足を一歩踏み出し、クッションのように弾力のあるその地へと足を付け、そしてもう一歩前へと進み、そのときにはすでに記憶の渦に飲み込まれて、後ろで閉じた扉の軋む音も私の耳には届かなかった。




17. mauve



 土曜日の昼下がり。窓の外の空は白い雲が島のように点在する、青い海だ。

 木の板が張られた床の上では、フランソワーズ・ショコラが寝そべって、嫌がる飼い猫のミルを撫で回している。彼女は天気がいいということだけで嬉しい楽しい気分になって、朝からミルのことを構い続けているのだ。抱きしめたり鼻にキスをしたり、じっと目を覗き込んでまた抱きしめて、猫は顔をしかめながらもされるがままになっている。

「何でそんなイヤそうな顔するの? あたしはこんなにもあんたのことを愛しちゃっているし、あんたもあたしのことラブしちゃってるでしょう?」

 猫はしかし窓の外を黒い鳥がさっと横切ったのに素早く反応して、FCの言うことを聴くどころではない。しかし、ミルの態度がどうあろうとFCの愛情は揺るぎなく、乱暴な表現で愛情を猫に押しつけ続ける。

 大きな窓からは太陽の光が差し込んで床を暖める。FCとミルはその真ん中で、光を全身に浴びて、いまではうとうとし始めた。FCは洗いざらしのブルージーンズに白いブラウス、手首にはピンク色のビーズで造ったブレスレットを填めている。瞼には薄紫色が塗られている。口紅は淡いカシス色。猫の体は、いつもと同じように黒と黄と、灰とそれら全部の中間色に覆われ、肢の先と鼻から下、そしてお腹の側は白い。尻尾は床に這わせてぴくりともしない。FCは静かな寝息を立てている。

 家の前に一台の赤い車が止まったのが窓から見える。運転席には緑色の制服を着たロビンの姿がある。ロビンは助手席に置かれた黒い革のカバンの中から白い封筒を一枚取り出し、宛名を確かめてからドアを開けると車から降りて、FCの家の門をくぐった。

 チャイムの音。

 猫はびくんと体を震わせて身を起こし、辺りの様子を窺う。窓の外の赤い車が目に入る。FCは寝息を立てたまま、気づいた様子もない。

 もう一度、チャイムの音がする。猫は四本の肢で立ってから前肢を突きだして伸びをすると、玄関に続くドアに向かって歩き出す。半開きのドアから体を滑らせて玄関に消える。

 しばらくして猫が再びドアの隙間から姿を現す。口に一通の手紙をくわえている。猫は寝そべるFCのもとまで来ると彼女の鼻先に手紙を落とす。FCは一瞬薄目を開けて目の前の白い封筒を見るが、そのまま眼を閉じて再び眠りに落ちる。猫は立ったまま、彼女の姿を眺めている。窓の外では、赤い車がエンジンの音を唸らせて、ひと呼吸のちに走り去った。




epilogue



 季節は最後に春がやってくる。いまは冬の初め。道に積もった枯れ葉もずいぶんと色褪せ、木々はほとんどむき出しで、その中を冷たい強い風が吹き抜ける。

 寒くなってくると気分は自然に高まる。それが遠い北の国のことを思い出させるからなのかどうかは判らない。街の人々が肌の上に何枚も何枚も、色とりどりの生地を重ねていく様を観るのが好きなのだ。いま思い浮かぶのは、赤い地に黒のチェックの模様が入ったマフラーをしているFCの姿。それも少しくすんだ感じの、朱に近い赤色。そんなどことなく、『鏡の国のアリス』のようなマフラーがあったらいいと思う。………


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