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桜の花が咲く頃に

作者: 沢 あつき

あの頃はまだ私の世界は小さかった。

生きることに不器用で、自分の殻に閉じこもることしかできなかった私を救ってくれた健斗が、世界の中心になった。

未熟で小さい世界だと知るすべはなかったけど、だからこそもうあんなにも真っ直ぐに人を好きになることはないだろう。

初めての恋は淡く溶けて、私の心の奥底でひっそりとキラキラと揺らめいている。



「お母さん」

  呼ばれて振り返ると、夫の周りを子供たちが走りまわっていた。満開の桜が散らす花弁を空中でキャッチする遊びが楽しくて、見て欲しかったらしい。

  小学校入学を控えた長女は負けず嫌いで、花弁をなんとか取ってやろうと必死になり、三歳の次女は只々楽しそうだった。

  この瞬間があまりに幸せな景色で、おもわず眼を細めた。


  田舎の城跡には一面に桜が植えられ、小高い山は薄いピンク色に染まる。城壁の一番上から見ると、桜が雲海のように広がって地上とは別の世界にいるようで、いつも何故だか少し泣きたくなる。

  小さい頃から一番好きな場所だと、夫に話した時、どうしても見たいとなかば強引に帰省を決めてしまった。いつも穏やかな人なので驚いたが、彼がみせた我がままが少し可笑しくて嬉しかった。

  この時期に有休を取るのは大変だったけど、子供達も楽しそうだし、帰ってよかったと思う。

 

  桜の雲を見上げると花弁があざやかに舞い散って、古びた記憶が鮮明によみがえった。

  あの頃と何も変わっていなくて、心の奥がざわついた。

  彼が笑顔でわたしをみてくれるだけでよかった。名前を呼んでくれるだけで、自分の名前が好きになった。大嫌いだった自分のことが、少しだけ誇らしかった。


  健斗とは中学校から高校まで同じ学校に通っていた。彼は明るくて運動神経もよかったので、当然のように人気があったが、そんなことには全く関心がないみたいだった。

  同じクラスだったけど、別の世界に住んでいる人みたいで、特に話をしたこともなかった。それどころではなかったのかもしれない。

  わたしは周りから無視される時期が続いていて、容赦無く傷ついた。受けながすにはまだ心が幼すぎたのかもしれない。

 

  自分が存在したい場所で、存在していない扱いを受けると、自分を保てなくなる。必要とされていないという現実は闇だ。底なし沼のように、深く深くただ堕ちてゆくしかない。

 

  学校から真っ直ぐに家に帰る気にもなれなくて、一人で立ち寄っていた場所も、たまたま犬の散歩をしていた健斗に会ったのも、桜の下だった。

  彼はにっこりと笑って「よう」と言っただけだった。 学校でも特に仲良く話すことはなかったけど、普通に接してくれた。

  どうしても学校に行けなかった日も、彼は変わらず犬を連れていて、わたしの体調のことだけを聞いた。風邪をひいていないことだけを確認して、よかったと彼は笑った。

  わたしにはそれで充分だった。笑ってくれるだけで、自分を保つことができた。

  負けずに学校に通い続けれたことは、今でもちょっとした自信になっている。

  健斗と仲良くなったのは高校からで、仲がいいと言っても五人の仲間の一人だった。それはとても居心地の良い関係で、臆病なわたしは自分の気持ちを彼に伝える勇気など湧いてはこなかった。


  わたしは「好き」という言葉から逃げたのだ。何故だかその言葉が、とてつもなく怖かった。誰にも知られることはなく、浄化できない想いは、なかなか消えてはくれない。

  卒業してもう会うこともないのなら、想いを伝えればよかった。そうすれば、小さくても彼の記憶にわたしが刻まれたかもしれない。


  次女がわたしの足元へ飛び込んできたので、反動でよろめいた。

「ママ。なに見てるの」

  丸くて大きな眼をクルクルさせて聞いてきたのに、次の瞬間にはもう夫のもとへ走って行った。

「お母さん。見てごらん」

  夫に呼ばれて振り向くと彼は、ひらりひらりと漂うように落ちてくる花弁を器用にキャッチした。 その瞬間のドヤ顔がおかしくて笑うと、夫も笑った。


  彼と結婚して良かったなぁと思う。

  穏やかな人で、一緒にいるとわたしまで優しい気分になれた。ドキドキするような出会いでも恋でもなかったけど、彼の横はなによりも暖かく居心地がよかった。

  自分の居場所ができることで、人は強くなれるのかもしれない。

  仕事はやっぱり大変だし、大人になっても人間関係で悩まされることは多い。それでもあまり傷つかなくなった。

  家族が元気に笑っていられれば、後のことは割とどうでもいいことだった。

 

  暖かな風が吹いて、ざわざわと音が鳴り響くと空間がピンク色に染まった。

  子供達は歓声をあげながら、花弁を追いかけて走り出した。

「きれいね」

  思わず口にしたとき、子供の向こうに立つ人にわたしは眼を見開いた。

  時間が止まったみたいに、健斗だけを見ていた。彼は充分大人になっていたけど、瞬間的にわかってしまった自分におどろいた。

  子供っぽい笑顔も、無駄のない綺麗な立ち姿も変わっていなかった。わたしの知らない世界で、同じだけの歳を重ねた健斗。

  彼はわたしの視線に気づいてこちらを向いた。

  一瞬驚いた顔をして、それからわたしの名を呼んだ。

「久しぶり」

  彼がそう言った時、彼の足元に小さな女の子が抱きついて、彼は慣れた手つきで抱っこをした。

  健斗にそっくりの二歳くらいの女の子は、わたしをじっと見ていたが、健斗に促されてにっこりとわらって手を振った。

  それがあまりに可愛くて、わたしも笑顔で手を振った。

  長女がわたしを呼ぶのと、小学生の男の子二人が彼を「お父さん」と、呼ぶのはほぼ同時だった。

  彼は家族が待つ方へ歩みだしたが、振り返ってわたしをみて軽く手を上げた。

  眩しいくらいの笑顔だった。

  わたしも軽く手を上げると、彼はわたしに背を向けた。

「お母さん。今のは誰」

「お母さんの同級生。お友達よ」

  そう言って顔をあげると、彼はもう人混みに紛れ見つけることはできなかった。

「ねぇ見て。桜をつかまえたよ」

  そう言って長女はゆっくりと手を拡げた。小さな手の上の桜はキラキラと光って見えた。

「きれいね」

  長女は嬉しそうに笑った。


  桜吹雪は落ち着いても、桜はちらりちらりと降り続け、地面を少しずつ桜に変えていく。

  わたしの時間も少しずつ重なっていく。どれだけ時間が降り積もっても、今日の日を忘れることはないだろう。

  桜の花が咲けば、花弁舞う中の笑顔の健斗をひっそりと思い出すだろう。そして一人、学生の頃を懐かしむだろう。

  誰も知らない。わたしだけの想い出は、心の奥底でキラキラと揺らめき続ける。



 

 

 

 


 

 

 


 


 

 


 



 


 



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