それは、感情を奏でる自動人形
風が頬を撫で、広がる視界は全ての方向から街と青空とを見渡せた。
少女が笑うと、軋む音が聞こえた。
身体中の螺子と、歯車が駆動する音。そして、
―――コーン
「……ふぅ」
身体の芯を揺さぶる音。少女のいる広い空間から甲高い音が響いた。
音の発生源は自分の頭の真上、時計塔の頂上付近。計365段の階段を昇り切ったその先にある、無数の鐘からだ。
巨大な金属が空気を震わす音。それは町全体に、遠く空を舞う『鳥』にも届くように作られた大鐘楼によるものだ。
時計塔の最上階に位置する鐘突室には、一人の少女の姿があった。無数の鐘を、ピアノのような演奏機器で『弾く』少女。
クラヴィール時計塔に住まう、機械仕掛けの自動人形。
オートマタ―の少女、リヴィアンネは空を見上げた。正確には、窓ガラスの先に映る、真っ青なキャンバスを見つめていた。
小さな点のように見える無数の『鳥』の少女たち。
水路を見守る魔女を眺めながら、リヴィアンネは自分の心に久しぶりの感情が渦巻くのを感じた。
ずっと昔、届かない空の雲に手を伸ばした時に近い感覚。
そんな想いと、今見える景色を記憶するように、リヴィアンネは深く目を閉じた。
そして、
「今の気分はダールトーン」
白と黒の鍵盤を、その細い指で叩いた。同時に緻密に組み合わされたギミックが動き出し、無数の鐘がメロディを奏でる。
空気を揺らし、鼓膜を震わせ、心臓に響く音。
今日もまた、一日が始まる。
自律人形である鐘弾き少女の変わらない一日が。でも、
「今日はちょっぴり、ビビッドトーンかな」
つい先ほど見た、一人の『鳥』の少女を思い出して微笑んだ。
突然に、自分の大切な時計塔を足蹴にしてくれた銀髪の少女。
けれどもその顔は凄く必死で、とても人間らしかった。
ほんの少し、いつもと違う色合いの世界を感じながら、リヴィアンネは鐘鍵楽器を奏でた。
彼女の心模様を表すかのように、いつもよりも軽快なステップの旋律を。
「奏楽用自動人形」
彼女の役目はこの街で鐘を鳴らし、時を刻むことにある。
そのためだけに彼女は生まれ、そしてこれまでの百年間、ずっとそうして過ごしてきた。
彼女を作った技術者もメーカーも、今はもう存在していない。補償対象期間はとうに過ぎてしまっている。
今の彼女は、誰かの指示で動いているわけではない。この鐘も、もう鳴らす必要はないのかもしれない。
でも、それでも彼女はこの街で鐘を鳴らし続けている。
誰のためでもない、ただ自分のために。
リヴィアンネは今日も、鐘を弾く。
――♪
鐘の音が響く中、二人の少女は空にいた。
真っ白な長い髪の少女と、瑠璃色の髪と瞳の少女。
シロノとルリアは、今日の最初の仕事に向かう途中だった。
「この音……なんだろ」
「時計塔の刻時曲、今日は気分が良いみたい」
シロノの問いに、ルリアが答えた。その答えに、首を傾げるシロノ。
「曲? 音じゃ無くて?」
鐘の音と言えば、音をイメージする。
例えば正午に鳴り響く鐘といった、時間を知らせるただの音のように。
けれども、ルリアは曲と言った。
その意味を、シロノはすぐに知ることになる。
「この鐘は、時計塔の鐘楼台にある無数の鐘を奏でているの。ほら、今も聞こえている」
箒に跨り街並みを俯瞰するシロノの耳に、鐘の音が聞こえた。
音と言うより、旋律だった。
巨大な鐘からは想像しがたい、繊細なメロディ。まるで、意識に直接響いて来るような音が、シロノの意識を震わせた。
その隣で、ルリアが口を開いた。
「オートマタの少女が鐘を弾く。それが通称、クラヴィール時計塔」
「そう言えば、パンフレットに載ってたね。へぇ、これがそうなんだ」
「こういう案内も私達の仕事だから、覚えておいて」
「うん、大丈夫。私、記憶力は良い方だから」
真面目な口調でシロノに説明するルリア。それだけ聞けば、ちゃんと先輩らしい指導をしているように思えた。
こんな、やる気の無さそうな飛び方をしていなければ、だけれども。
「ルリア、よく落ちないね」
「これが私のベストポジション。シロノもやってみる?」
「いい、やめとく。それより、この音なんだけど」
箒に全身を預け、物干しざおにぶら下がった洗濯物の様に器用に飛ぶルリア。そんな曲芸飛行に驚きながらも、今はこの音色のほうが気になった。
「気になる?」
「うん、すっごく。なんだろう……感情に直接触れているっていうか、誰かの心の声を聞いているような、そんな気がして……ぁっ」
黙考するシロノを不思議そうな顔で見つめるルリア。その顔に恥ずかしそうな様子でシロノが言った。
「えっと、なんていうか、どんな人が弾いているのか気になって」
「それなら大丈夫。これから向かうところだから」
そう言うと、ルリアは箒の周りをなめらかに動き、姿勢を正した。
ちょうど、目的地が見えてきたところだった。
今日一日で何度目になるだろうか、この街を象徴する大きな時計塔が見えてきた。
「なにしに行くの?」
「壁の修理。古くなった建物の補修も、「鳥」の仕事の一つだから。どっかの誰かが壁を蹴って穴を開けたらしいんだけど」
「……あっ」
「ん?」
ルリアの言葉に、シロノははっとした表情をした。
「どうしたの?」
「壁の修理って、もしかして頂上付近?」
「そうだけど……え?」
何かを察した様子のルリアにシロノは言った。
とても申し訳なさそうに、白い肌の頬に冷や汗を流しながら。
「多分、私が蹴ったとこだ」
今朝の出来事を思い出しながら、そう言った。