それは、空色の魔法使い
1
空の黒色が、明け方の橙色に溶けていくようだった。
地平線の彼方は赤く、街は影のように黒く。
まるで影絵のように、建物や木々がモノクロのシルエットとして浮かび上がっていた。
『鳥』の瞳に映るその世界は、目が覚める前の世界だった。
それは、夜と朝の境界線。
夢から覚めたばかりのような町並みを、『鳥』は空高くから眺めていた。
真新しい『鳥』の制服を身に纏い、裾に縫われた青い一枚の羽のシルエットを風に靡かせながら。
濃緑色の双眸で、『鳥』は自分の新しい住処を見据えていた。
「……ふぅ」
『鳥』がほんの少し微笑むと、空の色は彼女の頬と同じ朱色に染まり始めた。
街と人と、そして自分の物語を形成する歯車との、その両方が回り始める合図である。
長距離飛行を終え、世界すらも飛び越えて。寝ぼけ眼をこすりながら、箒に跨った『鳥』は―――
否、この街では『鳥』と呼ばれる職業になるその『少女』は、小さく呟いた。
誰にでもなく。まるで、自分で自分に確認をするように。
「……おはよう」
自分の中で燻っていた色々な想いに、語りかけるように。
透き通るような銀髪の、小さな魔女が呟いた。
2
まるで空の青のように、またはガラス玉の透明のような。
街の雑踏に埋もれた一人の少女の瞳には、水面の色が映し出されていた。
そして、写し返す水面には、深い黒色の髪に無感情な自分の顔があった。
透き通る水は町中の水路を流れ、それを表現する言葉が両の手では足りないほどに綺麗な色合いを放っている。
水に乱反射する光、そして空を優雅に舞う真っ白い『鳥』の影。
古くから伝わる石畳の街に、お城のようなレストランや喫茶店。
過去の記憶と現在の営みの混在する、まるでおとぎ話のような世界の街並みがここ存在していた。
どこもかしこも、少女の心を高ぶらせるには十分なものだった。
いまこの瞬間でさえ、飛沫の舞う水面に心奪われている。
でも、
「……沈んでいく。私の思い出が」
目の前の無機物と同様に、高揚していた少女の心は急速に沈んでいる最中だった。
石造りの橋の上で少女は――ホルンは茫然と呟いた。
無感情に見えるその瞳は、いまや明確に悲しみの色を湛えていた。
落としてしまった。
この旅行の思い出が詰まった小さなタブレットを。大事なそれは、ついさっきまでホルンの小さな手に収まっていたものだった。
でも、今は透き通る水の中。
空を飛ぶ『鳥』と呼ばれる魔法使いの少女を目で追いかけて手を伸ばした。するりと、驚くほど簡単に零れ落ちてしまったのだ。
幸いなことに、タブレットには最新の完全防水機能が備わっている。可逆性の水溶化学繊維だとかなんとかだとか。水に落ちた瞬間に、基幹部分を密閉する優れも、とのキャッチフレーズである。乾けば元通り。
ホルンにはよく分からないが、とにかく凄い技術の塊らしい。
けれども、いくら水に耐えられるといっても回収できなければどうしようもない。触れられない宝物なんて意味が無い。
宝物なのだから、もっと別の場所に置いておけば良かったのだ。
例えばそう、ネットワーク上のアーカイブにデータを保存するといった方法など。
ただ残念なことに、機械に疎いホルンにはタブレットの内部記憶装置に保存するのが精一杯だった。普段ならそれで十分、しかし今回はそれが災いした。
彼女の大事な思い出は、小さな板切れとともに沈んでしまったのだから。
心が沈むホルンのもとに、大きな声が響いた。若干、焦燥の滲んだ声色で。
「ふっぉぉぉあ!? ちょっ、ホルン。落ちる! 落ちるって! お姉ちゃんってば、自分と同じ体重の妹を支えきれる自信ないんだけど!? お願いだから戻って!」
「あぅ……」
懇願するような呟きも虚しく、ホルンの伸ばした手は空を切る。その下で美しい蒼色の水面にモニタの光を放つタブレットが沈んでいった。
脱力したホルン。その体をもう一人の少女――カノンが引っ張り、橋の欄干から引き戻した。
引っ張られたホルンは石畳の上にぺたんと腰を下ろし、急に力の抜けたホルンに驚いたもう一人の少女は、豪快に尻餅をついた。
「はぁ……はぁ……びっくりした。すっごくびっくりした!」
大きく身体を動かしながら、感情表現をするカノン。そんな姉に対し、妹のホルンは淡々とした様子でその事実を口にした。
「……姉さん、沈んじゃった」
「いや、うん。今お姉ちゃんはそれどころじゃなくてね、やり場のない怒りの矛先をどこに向けようか迷ってるんだけど」
「……沈んじゃった」
「あ……ぅ……」
繰り返し呟くホルンの言葉に、カノンは言葉を詰まらせた。
ホルンの表情は無表情だ。だが、その瞳が今にも泣き出しそうなものだと言うことを、カノンは気付いていた。姉の直感で。
「もう、そんな悲しそうな顔されたら怒れないじゃない」
カノンの張りのある声と、ホルンの意気消沈した声。二人分の言葉が、混ざり合って空気に溶けた。
落ち込むホルンに変わり、カノンが橋の欄干から川下を覗き込んだ。
ホルンと違って、カノンは飛び込みそうなほど体を宙に伸ばすことはしない。数階のビルに相当する高さの橋は、流石に肝が冷える。
カノンは小さなサイドテールを揺らしながら、ひょこっと顔を出して水面を覗き込んだ。
その目に映ったのは、かろうじてモニタの光が針の先ほどの点に見えるほど、川底に深く沈んだ様子だった。
ホルンに向けて、残念そうな顔を向けるカノン。
その表情を見て状況を察したホルンは、口をきゅっと結び、哀しそうな目をした。
姉であるカノンにしか分からないほど微細な表情の変化だが、ホルンが落ち込んでいることは目に見えて分かった。
どうにかして励まさないといけない。そう思ったカノンは口を開いた。
「あ――……まぁ、これは流石に諦めるしかないよ。もう何年も使ってたんだし、帰ったら私が新しいの買ってあげるよ。今はお姉ちゃんのカメラ、貸してあげる。だから元気出して。ね、ホルン」
上の空のホルンに、カノンが、優しく声をかけた。
この旅行で、殆どすべての時間を一緒に過ごしていた姉のカノン。そのカメラには、ホルンの撮った写真と似たり寄ったりの出来事が収められている。
カノンとホルン。双子の姉妹はいつも共にいたのだから。
二人で笑って、二人で驚いて、二人で体験した初めて出来事の全てが、そこに収まっている。
宝物なのだ。ホルンにとってではなく、二人にとっての。
残りの滞在期間、カノンはカメラを貸してくれると言っていた。
その一台があれば、二人分の思い出を残すのには充分過ぎるほどの容量がある。
だが、ホルンはそれを是としなかった。
カノンの撮った写真は、カノンの瞳から見たこの旅の思い出である。そこにはホルンもいて、ホルンと一緒に見ていた街並みや人々も映っている。
でもそれは、ホルンの知る世界じゃない。
カノンから見た世界の『記憶』はカノンだけのものであって、ホルンの物では無いのだ。
こればっかりは、双子といえども譲れない。ホルンはそう思っていた。
自分が見た世界の『記憶』は、自分が落してしまったあの小さな箱にしか入っていないのだ。
「……」
黙考するホルン。そして結論はすぐに出た。
回収するしかない。
「……姉さん」
「ん? どうしたの、ホルン」
妹の言葉に首をかしげる姉。その怪訝そうな表情は、次の瞬間には驚きに変わった。糸が切れたように脱力していたホルンは、突如として俊敏な動きで立ち上がった。
「飛ぶ。荷物お願い」
そう言って、ホルンは自分のコートを姉に押し付けた。
「えっ! ちょっ! はい!?」
未だ状況をつかめない姉を尻目に、ホルンは橋の欄干に飛び乗った。そして、
「行ってくる」
「逝っちゃ駄目だよ!?」
人生で何度目だろうか、以心伝心の双子に、意志疎通の齟齬が生じた瞬間だった。
姉妹で意味合いの異なる言葉を口にした瞬間、ホルンは躊躇いなくその身を宙に踊らせた。
サラサラしたミディアムヘアーが、ふわりと浮かぶ。
同時にホルンは、薄ピンク色の唇をきゅっと噛みしめた。
不格好に体を縮ませながら、それでもホルンは思い出を掬い上げるために水面へと飛び込もうとした。
姉さんと一緒に旅をした、この気持ちが詰まった宝箱を取り戻すために。
だが、彼女は知らなかった。
水面への落下時に受ける衝撃は、彼女の想像よりもずっと大きく、華奢な彼女の体では耐えられないということを。
「っ!」
頭より先に、体が本能的にその事実を察知した。
このまま落ちれば、大変なことになる。
気持の悪い浮遊感に肺腑がすくみあがる。直後に体が重力に従って落下するのを感じた。そして、
「(あ、駄目だ)」
今更ながら、全身を恐怖心が襲った。四肢が強張り、無意識のうちに蹲ってしまう。落ち葉のように宙を舞うホルンの体は、彼女自身の意思に反して危機回避行動を取ろうとした。
でも、もう遅い。
数十キロ程度の体の重さでも、人は空中で重力に抗う術を持たないのだから。万有引力に従って下に落ちるしかない。
動けない。
沈む。
やだ。
……――怖い
目を閉じようとした。その時、
「っ!」
「ぇ?」
ホルンには鳥が飛んできたかのように見えた。太陽を背にした黒い影、ホルンがそれを視界に捉えると同時に、水飛沫が立ち上がった。
――ッ!!
途切れかけた意識と頭に響く耳鳴り。そして、気がついた時には自分の体が宙を舞っていた。
正確に言うと、彼女は飛んでいた。
橋の上よりも高く、建物の屋根よりも高い場所。『鳥』と呼ばれる魔女の通り道、空の交通路を。
街の人々が米粒ほどに見えるほど遥か高くを、ホルンは飛んでいた。
「……っ! ……っ!」
声にならない叫び声を上げながら、ホルンは無我夢中に目の前の塊に抱きついていた。
ぎゅっと握った自分の手。
そこから伝わる、適度な起伏と柔らかい感触。そこで初めてホルンは、何かではなく誰かに抱きついていると気付いた。
そして、自分が箒で空を飛んでいるのだということを知覚した。
「……ぁ」
見上げると、真っ青な空の下で、真っ白な長い髪が目に留まった。
透き通るように輝く美しい白髪は、彼女がまるで人形だと錯覚しそうになるほど奇麗だった。
ほんの少し、自分が呼吸をすることを思い出すだけの時間が経過してから、ホルンは彼女と視線が合った。
すると、彼女はそっと優しい笑顔を返してきた。
「……っ」
同性でも、ほんの一瞬目を奪われるほどの、純真な笑み。
その顔を見て、ホルンは自分も笑おうとした。だが、緊張で固まった表情は思ったより硬く、引き攣った笑みになってしまった。
だって、箒で飛ぶなんて経験なんて、彼女の生きた十数年の人生の中で初めての経験なのだから。
怖い。でも、凄く……楽しい。
ほんの少し、でも自分にとってはこの旅の中でものすごく長く感じられた時間が過ぎた。
急降下する箒は橋の上まで接近し、寸でのところで停止した。
ちょっとした絶叫マシンの気分。でも、不思議と気持ちが悪くはならなかった。三半規管は安定し、乗り物酔いのようにはならなかった。
これも、『魔法』によるものなのだろうか。
先に地面に足をついた魔法使いらしき少女は、抱きかかえていたホルンの体を石畳の上に下ろした。
自分の足に慣れ親しんだ重力の感触が戻った瞬間、ホルンは安堵で力が抜けた。
「あ……う……」
ありがとう。
ただそれだけ言えれば良かったのに、口が思うように動かなかった。
もっと言うべき言葉が、言いたい言葉が胸の内にあるような気がするのに。それがうまく言葉に出来ないでいた。
こういうとき、引っ込み思案な自分の性格と語彙量の無さが悔しくなる。
ホルンが何かを言おうとしていると、先に白髪の彼女は手を伸ばし微笑みながら頭を撫でた。
まるで、言葉より行動でホルンを落ち着かせようとするように。
次第に、ざわついていた心の波が静かになるのを感じた。
そして気付いた。飛んでいるときは大人びて見えたが、ホルンに手を伸ばしてきたのは彼女よりほんの少し背の低い、小さな少女だった。
銀髪と、深いエメラルドブルーの瞳。そして、薄青と白を基調とした青空のような服。
それはまるで、空色の魔法使いだった。
彼女が箒を飛んでいるという事実に、何の疑問も抱かなくなるほど純然たる『空の色』だった。
彼女の背丈を越える大きさの武骨な金属製の箒を見て、ホルンはすぐに気付いた。
この街の特徴とも言うべき空の魔女、『鳥』と呼ばれる魔法使いなのだと。
軽く手を振ると、『鳥』少女は何も言わず、来た時と同じように箒で空へと飛び立った。
それはまるで、空を飛ぶという行為が当たり前のように。まさに鳥という名、そのままだった。
残されたのはかすかな残り香と、頭に残る手の感触。そして、自分の胸に生まれた言いようのない高揚感だった。
「……言えなかった。私の馬鹿」
銀髪の少女が描いた箒雲を見つめながら、ホルンは悩ましげな吐息を漏らした。
凄いものを見た。凄い、凄い、とっても凄い。
言葉に表せないほどの高揚感が、胸の奥から溢れてきた。
でも――なんだかソワソワする。
何か、物足りない。釈然としない。
高ぶる想いとは別に、心のもやもやが渦巻くもう一人の自分がいた。
空を見た。そして、足元を見る。
「(高い空。低い……わたし?)」
地面に立つ自分と、空を自由に舞う彼女。いったい何が違うのだろう。
それを考えた瞬間、ホルンは胸の奥が締め付けられる思いになった。
哀しい? 寂しい? 悔しい?
違う。そのどれもが、自分の本当の想いじゃない。でも、ホルンには自分がどうしてこんな気持ちになるのか分からなかった。
―――トンッ
そんなホルンの思考を遮ったのは、体に受けた軽い衝撃だった。
「?」
空から視線を下へ向けるホルン。そこに映ったのは、目元に大粒の涙を溜めた姉のカノンだった。
「ふっぐ……ひっぐ……ホ、ホルン。よがっ……良かっだぁぁぁ」
「泣き過ぎだよ。姉さん」
「だっ……だっでぇ……ぅあああああ」
そう思いながらも、ホルンは姉の綺麗な黒髪を優しく撫でた。
いつも落ち着いていて、しっかり者の姉。それが今は、周囲の目も憚らずに大粒の涙を流していた。
その姿を見て、ホルンは改めて自分のしでかしてしまったことの大きさに気が付いた。
飛び込んだことや、周りを騒がせたことなどは問題ではない。
ただ重要なのは、他の誰でもない。たった一人の大切な家族を泣かせてしまったことだった。
「(やってしまった……)」
また、心配をかけてしまった。
「姉さん。大丈夫だよ」
「でも……ホル……いなくなっ……わたっ……私……」
「大丈夫。大丈夫だよ。姉さん」
泣き虫な双子の姉の頭を申し訳なさそうに撫でながらも、心の半分は別の方向を向いていた。
青空の彼方、あの箒雲の先へと。その時すでに、ホルンの気持ちは決まっていた。
「えっぐ……ぐすっ……?……あ……れ?」
「ん、どうかした? 姉さん」
怪訝そうな目を向けるホルンに、姉は―――カノンはホルンの口元を指さして呟いた。
「ホルン、笑ってる?」
「……え?」
そう言われて初めて、ホルンは自分が笑っていることに気がついた。
「ホントだ」
「ぐすっ……すごくびっくりしたのに。ホルンは笑ってるし……」
「ごめん、姉さん。なんか……自分でも分からない」
ニヤニヤと緩んだ笑みを浮かべるホルン。でも、膨らんだ気持ちは抑えることが出来なかった。そんな彼女に怪訝そうな顔を向けるカノン。
この旅の思い出が詰まった記録は失ってしまったけれども、それ以上の記憶を手に入れることが出来た。
自分だけの大切な、この気持ちを。
銀髪の彼女が飛び立っていった空を見つめながら、ホルンは強い意志のこもった声で呟いた。
「何か、良いもの見つけた?」
「どうしてそう思うの?」
「いつも通り、双子の感ってやつよ」
あっけらかんと言う姉のカノンに、ホルンはため息をついた。
どうしてカノンはこう、適当なことを自信満々に言えるのだろうかと。そして、どうしてこうも、自分の考えを第六感で当ててくるのだろうか、と。
ホルンは、自分が見つけたものを確認するように、呟いた。
「……空」
「ん?」
「……私も、飛べるかな」
「もう飛ばないでよ」
ホルンの言葉に、カノンはムッとした様子で呟いた。ぎゅっと握るその手が、もう絶対に離さないと言うことを、行動で物語っているようだった。
「大丈夫だよ。もうあのカメラは諦めたから」
「でも飛ぶって」
カノンの言葉に、ホルンは苦笑いをしながら答えた。
「違うよ。そういう意味じゃ無くて、あの人みたいにってこと」
そういうと、ホルンは空を指さした。
「空……飛びたいな」
無表情に近い表情のまま、ホルンは自分の想いをポツリとつぶやいた。
漠然とした、ひとり言のような言葉。でも、その声に答える人がいた。
「大丈夫。飛べるよ。だって、ホルンと姉さんに出来ないことなんて無いんだから」
「出来ないことのほうが多い気がするけど」
「う……ほ、本気を出せばってことよ!」
目元を赤く腫らし、ばつの悪そうな表情をする姉のカノンの姿を見て、ホルンはやんわりと笑った。
「ん、そうだね」
いつも自分の隣にいて、生まれた時からずっと一緒にいる大切な人。
血は繋がっていないけれども、同じ時、同じ場所で生まれて同じ時を育んだ紛れもない双子の姉。
彼女の言葉に、ホルンは自分の想いを口にした。
「いつか飛びたいね……二人で一緒に」
ホルンのその言葉に、カノンは驚いた様子を浮かべると、すぐにいつも通り満面の笑みを浮かべた。
―――無口な双子の妹と、感情豊かな双子の姉。
魔法に憧れ、空を夢見る双子の少女が見上げた空は、心躍るような青空だった。
二人がこの街をまた訪れるのは、これから少し後のことになる。
3
――それは、一人の少女が橋の欄干で突飛な行動を起こす、ほんの少し前のこと
真っ白な少女は、空の上から古き良き街並みの残る景色を見ていた。
水上バス、水上の家。
水と言う存在が、人々の生活に深く根付いている街。
それがこの街、アルナシュタットだった。
都市全体に張り巡らされた人工水流の水路を抱くこの街では、水上交通手段が数多く存在する。
橋の横には水上バスの待合所。各番号の水路には信号、各水路には水先案内板。
そして、最も目を惹くのは彼女ら『鳥』の存在だった。
『はーい、そこの高速艇。制限速度いくつだと思ってんの。つーか公序良俗をすこしは守りやがれってんだこの野郎』
右から声がした。通り過ぎる高速艇の音と呼びかける声が、ドップラー効果で遠ざかっていく。
別の方向からは、おっとりとした優しげな声が聞こえてきた。
『お困りでしたらご案内いたしましょうか? ええっと、フォート・グラウス……第3運河沿いの地元料理のお店ですね。それでしたら―――』
上下左右、様々な場所から聞こえてくる女性の声。
水路の空には、運河を利用と運行をサポートする『鳥』が飛んでいた。
鳥とは俗称で、その姿は箒に跨った魔女。紺と白の制服を身につけた少女達である。
空を優雅に舞う彼女達は、この街でこう呼ばれていた。
――アルナシュタットの九文鳥。
一言で『鳥』と言えば、それがこの街では彼女たちのことを指すのである。
彼女――シルヴィノ=フローランもその『鳥』の一人だった。
愛称はシロノ。
シロノは、透き通るような長い銀髪を風に揺らし、水路と水路の隙間を器用に飛んでいた。
ガラス細工のような端正な顔付きに、卓越した箒の操舵技術。
言うなれば、綺麗な空の魔法使い。
白い制服を翼のようにはためかせるその姿は、まさにこの街の『鳥』を体現するような少女だった。
彼女は、どんな想いで空を飛んでいるのだろう。どんな素敵なことを考えているのだろう。
その姿を見た人々は、空を駆ける幻想的な姿に想いを馳せていた。
だが、彼女の内心はとても俗物的で現実的なものだった。
「……どうしよう。どうしたものでしょう。ていうか、どーゆーことなのかな」
焦っていた。どうしようもなく焦っていた。
道に迷った。しかも配属初日に。
昨日貰ったばかりの地図を必死に頭の中で展開するも、回転数の低い目覚めたばかりの脳では思うようにイメージ出来ない。
そもそも、シロノがこの街に来たのは、つい昨日だ。目的地どころか自分の家に変えることさえ危ういのだ。
そんな大荒れの心模様で飛ぶシロノ。眼下に広がる街は、道と水路と、そして『鳥』が使用する空の交通網とが複雑に入り組んだ迷路のようだった。
目が廻りそう。
「えっと……16番水路と第2エアターミナルがあそこだから、よし! 次の角を右に……行けない!? 曲がり角無い!?」
壁の直前まで高速で突っ込み、急旋回をしながらシロノは叫んだ。
その姿を見て、建物の窓から顔を出していた中年女性が、驚いて目を丸くした。
ごめん、おばさん。
「もう! ここ何処なの!?」
そう言いながら、箒の先端を空へと向けるシロノ。背中を地面に引っ張られるような感触を感じながら、箒の生み出す揚力で彼女は勢いよく空へと飛んだ。
アウタースポットと呼ばれる空と地上の交差点を通り、地上の交通路から空の交通路へと移るシロノ。一度急上昇をし、自分のいる場所を把握しようとした。
『鳥』という魔法使いにだけ見ることのできる、空の道。そして宙に浮かぶ標識。
それらを視界に収めながら、シロノは持ち前の視力の良さを発揮して、目的地である『鳥』の中継基地を探した。
自分の新しい勤め先、『鳥』に関する各種業務を請け負う会社の一つであるその場所を。
鳥の巣――ガーベルロンデを。
配属初日に遅刻して怒られたら、泣いてしまうかもしれない。というか現在進行形で泣きそうだ。
泣いてしまいたい。いっそ泣いて、全部放り出してしまいたい。
だが、シロノの頭にかろうじて残った現実が、その考えを放棄した。
集中、集中、集中。
普段あまり使わない脳のシナプスをフル稼働して、目に入ってくる景色から目的地を探り出す。
そして、シロノはついに見つけた!
――――橋の欄干から、今まさに水路へ飛び込もうとしている少女の姿を。
……
…………
………………は?
「ちょっ……とぉぉぉぉ!? 何してくれちゃってんのよあの子は!」
遥か遠く、視界の端っこに映ったその姿をシロノは見つけた。
一瞬、ほんの少しだけ思考が凍結した。そして、思い出したように叫んだ。
この穏やかな水の街で、今まさに穏やかなじゃないことが起きようとしていた。
あの高さから落ちればどうなるか、いかに水面であってもただでは済まないことが明白だった。
同時に、瞬間的にシロノの頭の中で思考の整理が行われた。
遅刻? ルート逸脱による航空法違反? 魔導士免許はく奪? 懲戒免職? 刑事罰?
シロノがこれまで懸命に積み重ねてきたその全てが、一瞬で無に帰するかもしれない。今ここにいるシロノは、彼女が懸命に努力をして、やっとなることの出来た憧れの姿なのだ。
でも、
(悩むな。私の馬鹿!)
シロノは判断の枷になる事項を瞬時に破棄し、自分の心に判断を委ねた。
願い想いのままに空を舞う。それが彼女の、シロノの魔法だから。
「ああもうっ! まったくもう!」
考えている時間も、迷っている時間もない。
シロノはすぐ近くにる時計塔の頂上付近の壁に足をつけ、地面に対し水平に静止した。
そして、箒を強く握り呟いた。
「第1航行形態展開――形状トリフォニウム」
その言葉に応えるように、大きな機械仕掛けの箒は瞬時にその形態を変化させた。
にび色の金属光沢を放つ箒。
濃い灰色の外装は順次展開され、彼女の跨る箒はより空気を掴みやすい形状へと変化を遂げた。
四つ葉のクローバーの様に広がる大きな金属翼、そしてその下には無数の小さな金属羽が所狭しと並んでいた。
剥き出しになった内装には、白い文字でこう記されていた。
【 Idell grant 】
それは、その箒を製造した工房の名を示す文字だった。
魔女の箒としての姿を露わにした箒は、可聴域外の高周波音を響かせながらシロノの命令を待っていた。
呼吸を落ち着け、瞳を閉じ、空気の匂いを感じる。
心拍と自分の感覚が同期したのを感じた瞬間、シロノは静かに魔法を展開した。
「……――fire 」
小さな声を漏らすと、シロノは壁を強く蹴った。
高反発術式によって時計塔とシロノの間に形成された斥力場は、爆発的な加速力で箒に跨ったシロノを砲弾の様に撃ち放った。同時に、足裏に幾重にも幾何学模様が展開される。
多重展開された重層魔法陣。その層数が増える度に、シロノの体は加速した。まるで飛行機のエンジンが回転数を上げるように。
制服の帽子を置き去りにし、風になって空を舞う白い少女の体。
遠目に見ていた人には、時計塔から何かが発射されたように見えていたに違いない。
橋の欄干から飛び降りようとしている少女の姿を視界に収めたまま、シロノは一直線に向かった。赤茶色の屋根に石畳の路地。俯瞰していた街並みが、急激に眼前へと迫ってくる。
体を襲う重力と、内臓を持ちあげる浮遊感。
朝食のスクランブルエッグが、もっとスクランブルされて口から出てきそうになる。
鼓動が速い。
箒を握る手が冷たい。
胃の内容物が逆流しそうな恐怖心が全身を包み込んでくる。
でも、
「(間に合えっ!)」
こみ上げそうになる恐怖心を必死に抑えつけ、溢れそうになる涙をこらえながら、シロノは飛んだ。
街灯を避け、橋の下を潜り、少女のもとへと飛ぶ。速く、もっと速く。
そして、
「っ!」
「ぇ?」
捉えた。
刹那、シロノはありったけの力で急制動した。緩衝術式を展開し、受け止めた力が少女に及ばないように、周辺一帯に衝撃を分散させた。その影響で、辺りに広がる衝撃と爆音、同時に水柱が大きく立ち上がった。
ちょっとした通り雨の様に、街道に運河の水が降り注いだ。
観光客や通行人には申し訳ないけれども、事態が事態なので許して欲しい。
そう思いながら、シロノは抱き止めた筈の『誰か』を覗きこんだ。
「(大丈夫……かな?)」
シロノの疑問に、ギュッと自分の体に抱きついてくる彼女の感覚が答えた。
伝わってくるのは少し早い鼓動、そして強く握った手のぬくもり。
「(はぁ……良かった……)」
シロノが安堵すると、ふと抱きかかえていた少女に目が合った。
射抜くようなまっすぐな瞳。それを見たシロノは思わずにやけてしまった。半笑いとも苦笑いともつかない笑みだと、自分でも感じていた。
気持ち悪い笑みになっていなければいいのだけれども。
そんなシロノの思いとは裏腹に、胸の中で笑い返してきた少女の顔は若干引き攣っていた。そんなに自分の笑い顔は気持ち悪かったのだろうかと、ほんの少し落ち込むシロノ。
小さい頃から、素直な笑顔というのは苦手なのだ。こういうとき、どういう顔をするのが正解なのか未だに分からない。
笑顔、練習しよう。シロノはそんな思いながら、着陸地点を探した。
とりあえず、シロノは加速用に展開した箒を元の状態に戻すことにした。巡航速度で飛ぶには、いささか燃費の悪い形態なのだ。
逆再生のように、広がった金属の翼は、元の外装へと閉じた。
水路の横では、カメラを手にシロノのことを撮っている観光客が多々見受けられた。
恥ずかしい。
それに、出来れば止めてほしい。だって、遅刻と違反の物的証拠になってしまうのだから。
誰の目にも止まりませんように。
視線から逃げるように、シロノは橋の上へと着地し抱きかかえていた少女を降ろした。
「……ぁ」
声が詰まったように、口をパクパクとさせる少女。
怖がらせてしまった。
シロノはとりあえず、少女の頭に手を伸ばして撫でた。実家にいる妹は、こうすると泣き止んでくれる。
ただ、
「(あぁ……うぅ……どうしよう。どうすればいいのかな)」
シロノも泣きそうだった。
目の前にいる少女は、まだ落ちつかない様子だった。でも、それ以上にシロノ自身も落ち着かなかった。
今更ながら、足が震えてくる。
高度からの急降下に、地面すれすれでの急制動。どちらもシミュレーションの中でしか行ったことの無いものだった。
声を出してしまうと、震えて裏返った声になってしまいそう。それでなくても、既に目元は潤み始めている。
あぁ、もう限界だ。そろそろ心が折れてしまいそうだ。
シロノは誤魔化すように、とりあえず笑った。彼女の経験上、笑えば大概の事は何とかなると認識している。
シロノは少女に微笑みかけると、少女も笑った。どうやらこの行動は正解だったらしい。
だが、
「(は、早く飛び立たないと……腰が……)」
震える足のせいで立っているのすらつらくなってきた。このままだと、地面にへたり込んでしまうかもしれない。
せっかく安心させたのに、それはマズイ。
シロノにとって、地面の上よりも空の上の方が、安心する。
そう思ったシロノはその場から逃げるように飛び立った。
頬で風を切り、銀色の髪をなびかせながら、急速に空へと舞い上がるシロノ。
一瞬で遠くなる橋の上の少女の影。その姿を尻目に、シロノは自分の時計を目にした。
時刻は終業時刻の5分前で止まっている。古い時計のため、生活防水機能しか備わっていないのだが、今回はそれが“功を奏した”。
壊れた時計を見て、シロノは小さく微笑んだ。
「時計が壊れていた……これは、理由になるのかな」
やっと見つけた自分の配属先を視界に収めたまま、シロノは小さく微笑みながら呟いた。
だが、
「……ぁ」
その向こう側。今まさにシロノが足蹴にし、飛んできたその建物を見てシロノは落胆した。
時計が壊れていたなんて、この街では言い訳に出来ない。
なぜなら、街の何処からでも見渡せるほど大きな建物がそこにはあったからだ。
静かに時を刻む大時計塔。シロノがそれを目にすると同時に、時計塔は大きな鐘の音を響かせた。
科学と魔法技術の融合で作られたその鐘は、聞く者全てに同じ大きさの心地良い音色を響かせていた。
ちょうど朝の8時、この街が本格的に動き始める時間に響くその音色は、シロノの遅刻を知らせる合図でもあった。