4 ヘレン
ユール達が朝の清拭を終える頃、娼婦ヘレンはまだ藁布団にくるまっていた。ここはメアリーとヘレンにあてがわれた室。もう一人住んでいたが、ヘレンの小銭を盗んだのち姿を眩ませたから、もういない。朝課の鐘がなったのは分かっていたし、メアリーにも起こされたから、本当は仕度をしないといけない。グズっていれば、館の監守様に咎められるだろう。
働きたくないのなら、こうして寝ている事もできる。けれど、娼館といえど旅籠と同じように日割りの宿泊費が求められる。守銭奴の監守様は金勘定が仕事だ。みかじめ料を払えない娼婦なんて流れの私娼――追放者と変わらない。
室の窓は開いていた。メアリーが開けたのだろう。通りに面しているので、街の喧騒が聞こえてくる。風は騒屑だけれど、この後強く吹くかもしれない。少し湿った風だ。
猫のように三度ほど寝返りを打って、ますます藁布団にくるまって、過ぎてしまった夢の世界を引きこもうとした。夜の夢は貝殻のようだった。皆、体を固くして眠るではないか。飢えと寒さと襲撃に備えて……体という殻に守られた夢の真珠は手が届いてしまう度に、砂楼のごとく崩れてしまう……。こんな風に弱気になるのは、昨日読み終えたレシのせいだ(注1)。ヘレンは字が読めたので、レシを買うのが生きがいであった。物語が美しく、現実が醜ければ、ヘレンの魂はそれだけ心底に沈んでいくのだ。
藁布団は破けていたので、ところどころ粉を吹いていた。それが昔を思い出させて切なくさせる。舟水車の杵、舞う粉――泓々(注2)たる河の緑を覗き込んだ幼少の日は遠い。
――過ぎ去りし妖精の日々に浸っていると、清拭を終えたメアリーが帰ってきた。
「ほら起きて」
すぐに布団をめくられた……。観念して起きようか。
あくびを一つすると、ヘレンは寝ぼける事なく立ち上がって、卓子の上に投げ出しておいたリンネルの服を被ると、挟まった後ろ髪を両手で払う。温かい藁のような黄土色の髪はややクセがあって波打ち、薄紫色の瞳にかかった。彼女も異国生まれでダナビステ人ではない。西方の国に多い色素だ。
ユールはいなかったので、同じように自室で仕度をしているのだろう。
もう清拭する時間はないので寝グセは直さず、上から赤い布を巻きつけてごまかす。これは「薔薇布」(ばらぬの)と呼ばれていて、都市法により娼婦は装着の義務を負う。これを身につけていれば合法的な「公娼」として扱われた。頭部を除けば部位に規制はなかったので、、首に巻いてスカーフにする者、リボンのように髪を縛る者、肩に巻く者、と目立つためのアクセントとしてそれぞれ工夫した。修道女や名誉ある婦人と区別するため、ヴェールのような頭部への装着は御法度。とはいえ、もぐりの私娼が真似するせいで、ヘレンは何度か警吏に引っ立てられた事がある。
リボンのような巻きつけ方は童顔のヘレンに似合っていたので、
「何それ」
と、メアリーは笑った。
諸々の仕度が済むとユールもやってきた。何となく三人での仕事になりそうだった。人数が増えると、その分各人のお鉢は回ってこない。つまり、一人あたりの稼ぎが減るという事だ。一人の客には一人の娼婦をあてがう(例によって法)。でも、二人よりも三人が安全で、メアリーがきちんとユールの安全を見ていてくれるのなら、その間ヘレンはレシを読んでいたかった。
小銭を盗んだ女もヘレンのそのようなところにつけこんだのかもしれない。今も生きているのだろうか……。悪因悪果。
ヘレンには夢があった。恋人が迎えに来る夢だった。彼は農夫として力強く、詩人として奔放で、男として最低だった。何やら修行をするという名目でヘレンを娼館へと売った。詩人たる彼には学費(遊興費ともいう)が必要で、ヘレンはその担保であった。数年経つものの待ち人は迎えに来ない。噂も聞かず、姿も見えない……海風ばかり吹く毎日だ。
駆け落ちした頃の情熱は胸中でくすぶっていたけれども、恋愛物語のようにはいかない。レシを読んで、夢の欠片を貝殻に溜め込んでいたが、虚しく、いつしか瞳は精彩を失った。いつ死んでもよいのだった。
仕度の最後にレシを小鞄に突っ込んだのは、読了したので売るためだ。余計な持ち物はいらないし、暗記するほど読み耽ったので興味を失ったのだ。手垢まみれの夢など捨てるに限る。
三人で室を出ると、下階の食堂へ立ち寄り、のんべえの監守に出くわした。関わるとろくな事はなかったが、この館の長でもあったので挨拶をした。侮蔑の目を向けられたが罵倒はされなかったので、用事を済ませてそそくさと棟を抜け、街へ出た――風気強く、きっと路上では誰かが死肌(注3)を晒している……。
(空白行含む)
注1 4行目
レシ……フランス語で「物語」の意。(コトバンク参照)
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%82%B7-151599)
作中では単に、獣皮紙や植物紙による冊子本を指す。主に庶民向けの安価なもので、紙の表面を削る事で白紙化、再生が図られており、繰り返し扱われるために質が悪い。学術・伝聞・寓話などの写本がほとんど。
注2 5行目
泓々(おうおう)……水の深いさま。
注3 20行目
死肌(しき)……血液の通わなくなった皮膚。