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3 ユールの周囲、種々の説明

 板張りの窓を開けると、朝日がほのかに赤髪の女――ユール・ベスノンの顔を染めた。

 娼館二階の通りに面した室。春から夏へと移り変わるこの時期の朝は日の出が早く、それに合わせて人の営みも変化した。

 家々からはもうウッスラと白煙が昇っている。夜間燠火にしていた炉の火を強めたのだろう、スープや湯を煮たり、仕事の準備を始める気配が、それら複合された匂いとしてユールの鼻をついた。かすかに吹く風は市の外れにある港から……つまり海風であって、土地柄、今日は暑くなるかもしれない。

 眼下の通りにはゴミやら酔夢者が転がり不潔で、時々野良犬がかじりついている。どこかへと駈け出していく徒弟や朝帰りの冒険者に食事を出す食堂だとか、ここダーズンが農村のように眠る事はなかった。燠のようにあり続ける喧騒は他所者の流入――市の冒険的性質に因んでいた。このため、娼婦も成り立った。

 ユールは寝起きの赤髪を捻ったり鼻に押しつけたりしてしばらくボーっとしていたが、朝課の鐘が鳴ったので、卓子の手拭いを持って室を出た。遠く離れた市の中心部・教会地区の時報を各分所が経由するので、場末の娼館通りでも聞き取れた。時はあまねく。

 階下へ降り、食堂へ行くと数名がすでに働いていた。世間では「パン焼き女」「洗濯女」「丁稚」と言われていたが、ユールはこのような言い方を好まなかった。いわゆる売り物にならない女達であったが、同性を貶める事は己に唾棄するのと同じに思えた。彼女らの脇を抜けるとやや汗ばんだ気配を感じた。

 中庭に出た。今出てきた建物は娼婦の住み家としての棟。中庭を挟んで貯蔵庫と若干の家畜を飼う納屋と監守棟がある。そして、中央に井戸が掘られていた。

 伸び始めた草が革サンダルの爪先に当たった。近々草むしりをしなければならない。娼館は不名誉な場所であるので、荒れた庭というのは乱倫を「助長する」というのだ。当局によって罰金の対象らしい。請求は娼館の長たる監守へ向けられ、そのツケは娼婦一人あたりの人頭税に――つまり、上前をはねられてしまうのだ。伸びた草に思う事など、この程度だ。

 車井は屋根付きなのでろくろがついていた。この点は贅沢といえるかもしれない。井戸の使用は職業や階級で設備・場所が異なった。井筒を木の蓋で覆うだけの雨ざらしもあり、細民の井戸は病気の元になった。悪徳ではあるが必要悪と見なされていた娼館には当局の意向で、屋根・蓋・釣瓶の洗浄が義務づけられ、怠るとこれも罰金のようだ。このような清掃は当館に住み込みの或る男に任されていた。

 車井の柱に釣瓶が掛けてある。放り込まずにろくろを回して釣瓶を落とすが、滑りが悪いので難儀だ。加減して汲み上げると、少量の綺麗な水が揺れていた。地下水の質は良い。しかし、水脈は弱いので一人当たりの使用は限られていた。体を洗う際はこれをたらいに移し、手拭いで清拭する。水は恵みだ。ところが、手をつけようとした、その時、

 「ダメよユール!」

 不意に甲高い声が聞こえた。驚いて振り返ると、短い黒髪の友人が足早にこちらへ向かってきた。メアリーだ。

 「あんた、死にたいの!?」

 彼女は声を震わせていた。シュミーズ一枚で、起き抜けの野暮ったい顔をしているが、黒い瞳はこちらを見据えていた。

 「聞いたでしょう? あの流行り病のこと、海から渡って来たっていう……」

 「……ええ」

 ためらいがちにユールは言った。

 「でもメアリー、ここの水は正常よ。流行り病といっても王都の噂だけで……こことは離れているわ」

 「あの二人の――フーラとムスウの変わり果てた姿を忘れたわけじゃないでしょ!」

 「……」

 フーラとムスウはユールと同室であった。卑しい娼婦が個室を持つ事は法によって規制されていたわけだが、蒸庶(注1)のための娼館など常に貧しい。錠付きの室はなく、調度品も共有であった。フーラ、ムスウ、ユールはともに異国生まれであって、食料・薬・衣服・不名誉を分け合い、“仕事”でお互いの背を預け合った仲でもある。

 娼婦業は出入りが激しく、刹那的な友情に変わりはないのだが、フーラとムスウの屍体を見れば、やはり人としての哀れみが込み上げてくる。肌は象皮のように固く、苔色に変わり、赤ん坊を仰向けたように四肢が硬直し、まるで握り拳を顔面で作ったというような凄絶な死相だった。ユールの貧する感性に一撃を加えた出来事であった。

 たまたま警吏に引っ立てられたユールが路上で身元確認をしたのだが、その際心配したメアリーもついてきて、その有り様を見てしまった。

 「水の病気よ」

 メアリーは言った。

 「傭兵の一人が噂していたのは本当の事なのよ。フーラ達みたいに怪物になって死んでいる人が“ザーナス”では大勢いるって……。異大陸の死病族が呪いの吐息を“ダナビステ”に吹きかけているって事も……」

 彼女は自分を抱きしめるように粟立つ肌を擦った――。

 

 ――『ザーナス』とは王都の名称であり、この国は『ダナビステ』と呼ばれている。ダナビステは『バルバシュラ大陸』の西方にあって、半島状に突き出した地形の国である。眼前には『最果ての海』が広がるばかりであったが、海向こうの異大陸との交易が活発化し国交を結んだのが10年前である。この異大陸は『アタナトン』と呼ばれている。

 ダナビステはアタナトン大陸から最短距離である事から貿易が盛んであり、バルバシュラの周辺国に異文化を再輸出した。これによる利益は海洋国家の地位のみならず、新たな人動論(注2)として両大陸の因習に文運の矢を打ち込んだ。

 しかし、両大陸を分断する海洋を越えるためには航路、天候、巨額の船賃の問題があり、人的交流はいまだ隆盛を極めない。言語・風習の違いを穴埋めするためのハンドブックが上流市民、貴族間で流行ったものの、そもそも下層民の識字率は低く役立たなかった。コモン(共通語)の研究も行われたが、一部の前衛芸術に留まっている。

 アタナトンからの船は、決まってザーナスに入港し検閲を受ける。関税の役人はハンドブックを片手に異大陸の宝を取り調べた。そのほとんどが王侯貴族向けの希少贅沢品で蒸庶には縁遠いため、関税は無実し、商品をより多く売りさばくための賄賂となった。それに乗り遅れた役人は生真面目に仕事をこなして割りを食うか、盗みを働いてブランコで詠うか(注3)――異大陸といえど、商人らの踏破的欲望はバルバシュラ人と変わらず……鏡裏である。

 ややもすると商船にお尋ね者だとか、破倫を尽くした邪教徒だとかが、新天地としてバルバシュラないしアタナトンへ乗り込み、検閲逃れで密航した。これに乗じて商船の機構化も進み、闇の商人らは巧みにこれを隠し、海上の海軍検疫をやり過ごした。国交10年の頃には、こうした悪徳の航路は賄賂というマストに風を受けて、ほうぼうに広まりつつある。海風はかやりの風……。

 こうした密航路のひとつが、ユールの住むダーズン市にある。ダーズン・ザーナス間は行商人の徒歩で3日、馬を潰しての早駆けならたいした距離ではないだろう。ちょうど旅人の足が疲れ、日暮れる頃の距離に旅籠村だったり、木賃宿を貸し出す農村があったので、渡来のお尋ね者も身を潜めた。その中には用心棒として雇われ正業とし、少なくとも蒸庶としては真っ当な道に戻る者も現れた。 

 かようにして異文化は流入したが、犯罪者、邪教徒、異種族による悪徳・病気・薬物も広まった。もともと風土が異なるのだからやむを得ない側面ではある。しかし、貧富を問わず人々は娯楽を求め、未知なる新世界の見聞と、これを研究する博物誌に翻弄される事で大胆になった。幻視、高等魔術の実践、美食、不老不死、そして快楽――やがて新たな病気と中毒性の薬物は娼婦と親しくなり、フーラとムスウのように悪魔と冥婚する者が現れた――。


 ――メアリーは清拭するユールを黙って見ていた。

 その日に焼けたような小麦色の背は痩せ、ところどころに傷があった。手拭いを搾る動きを見せると肩の細い骨が浮き上がって、ユールの神経質な一面を垣間見せているかのよう。もっともメアリーのように病気の噂に頓着しないのだから、その点においては神経質ではないのだろう。しかし、メアリーの知らない過去によってユールの懺悔は続いているように思える。彼女が腹の底から大声で笑う事も、客のおごりで好き勝手呑むのも見た事はない。珍しい赤髪に水色の瞳……ユールは何を考えているのだろう……そもそもどこから来たのだろう。10年来の付き合いだが、彼女はそこを話したがらない。

 そばかすの丸顔、短い黒髪のメアリーも生まれはダナビステではないが、この周辺国を含めた人々は黒髪・黒目ばかりだ。自分の知らない遠くの地……アタナトンではないから、バルバシュラ東方からだろうか――メアリーはそっと近づくと、ユールの後ろ髪をくしで梳いた。太く固い髪質だ。

 とっくに朝課の鐘はなっていたから、早く身支度を済ませなくてはならない。


(空白行含む)

注1 21行目

蒸庶(じょうしょ)……庶民、民衆の事。細民。


注2 30行目

人動論(じんどうろん)……作中では単純に、多くの人が動く事による思想の変化、そのエネルギーを指す。社会現象。


注3 32行目

ブランコで詠う……ブランコは絞首刑の事。極悪人でなければ、死の直前に即興で辞世の句を詠む事が許可されていた。中には悪魔的な詩歌を詠う者もいた。


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