2 通りから様子を窺う刺客
夜もふけ、月たる天空の女神グースコレーが静かに銀光を色濃くした。その幾条にも都市ダーズンを鈍く照らす様は、神話における八方への光の名残りのようであった。熱心な信徒によって、これは万物の根源を表出する世界卵の聖なる光という、ペダンチックな解釈が流行したのは、さほど古い事ではなかった。
銀光の一条一枚が華やかな商店街をかすめ、灯りの――幸の乏しい娼館に届いて、或る一室を照らした。
建てつけの悪い窓から月光は注ぎ、辺りの調度に暗く触れた。物言わぬ調度は、主な使用者である赤い髪の女をじっと待ち続けているように見えて淋しい。目の良い者なら、その影にイタズラなインプが潜んでいるのを見つけたかもしれない。
しかし、ここには誰もいない。悔しがる遊び役がいなければ、インプもその姿を消してしまうように、月光に浮かぶ室の陰影は通りの喧騒を受けて色もなく、寂寥としている。忌々しい館とはいえ、この静けさは安居たる様相でもあり、人の営みを受け入れ、どこか優しい。
一方、娼館に面する通りは賑わっていた。夕課から晩課への鐘は教会から鳴らされる。晩課以後の深夜は法によって外出禁止となるので、めいめい用事を急いだ。たいてい急ぐ者は仕事の都合であり、多くは酒飲みと賭博を楽しんだ。これによる市民と冒険者らのケンカが絶えない事もあっての外出禁止ではあるものの罰則は緩やかで、「夜は寝るもの」という慣習に沿うものだった。
通りには店舗が連なり、その間を埋めるようにして行商の露店が座する。さらにその隙間を「明かり持ち」とかファロティエとか呼ばれる人らが立ち、明かりを供する。これは店の子供だったり、正職であるわけだが、売り物を体裁良くごまかし、盗人を近寄らせないためであった。そのため雑踏の足許は明るかったが、人々は肩をぶつけあって、勇ましく決闘を宣言したりもした。
石を鎧うドワーフ、異大陸の矮人、幻想を追う中毒者、それを笑うパーティー、巡礼の僧侶、そしてフードを目深に被る魔術師――露天に広げられた獣皮の風呂敷を覗き込む野良犬を蹴飛ばす酔っ払いの高らかな歌声は、英雄もかくやという不敵さがあった。
――かような娼館通りの賑わいからやや離れた所に、冒険者風の或る男が立っていた。通りを挟んで、筋向かいの娼館を睨みつけている。二階の建てつけの悪い窓は閉じられ、明かりはない。そこには赤い髪の女が住んでいる筈だった。
時折、腰に下げた革の水筒を口につけ、すすぐようにしてから飲んだ。粗末なピケット(果実水)ではなく、貴重な水漿だった(注1)。彼を司る偉大な神への聖句をひとつ唱え、喉を湿らせるとともに口腔の洗浄も兼ねていた。汚れた口で唱えては加護を得られぬ。
男は戦いに来たのだ。遠く異国より砂漠を越えて、主神に抗う者を引き戻しに来た。従わぬなら殺害する。砂漠の民は等しく主神の盟約において、砂の海で生きねばならぬ……。
砂海生まれの彼は優れた視力を有し、わずかな灯りを拾って娼館を見張っていた。その出で立ちは頭に赤い布を巻き、その上から鉄で補強された革の兜を被っていた。紐で面頬と一体化しているため、表情は隠れている。同じく補強された革の胸鎧には神聖文字が記され、砂漠の主神を礼賛する経によって守られ、貫頭式の外套で日差しと雨を払った。腰、背、外套の内側に旅の道具一式、軽業に富む武器を仕込んでいる。
――しばらく不動であった男は面頬から覗く目をやや細めて、その場を離れた。通りの人混みに揉まれながら、その目……青い瞳は件の女を認めたのだろうか。
青い眼……兜を脱げば、ユールと同じ濡れたような艶を持つ赤い髪、即ち砂漠の民である盟約の証が現れるだろう。この男の名前はフッリキューメ。ユールの運命を決する刺客だ。
(注1)9行目
水漿(すいしょう)……作中では飲料水を指す。濾過した高価な水。