1 娼婦として
1 娼婦として
満月に照らされ、何もかもが――その女の何もかもが美しく洗い流されるようだ。
小麦色の肌、その先端の胸で編まれるかぼそい指――女は神殿の方角に祈りを捧げている。
痩けた顔は神の厚情と加護と、せめてもの愛の言葉を瞼の奥に。砂漠の民の血を象徴するその赤い髪には、亡き父母への深い想いが表れているようだった。
長年の風雨でなく、もともと建てつけの悪い窓からは月の採光を濁しながら、人々の隆盛が聞こえてくる。篝火、松明、酒の歌、輪舞、剣戟、船のいざり――そこに神の礼賛はなく、海鳥の羽ばたきと甲冑の音を付け加えて、人々の粗野な夜物語は尽きない。
胸裡に浮かぶ愛の節を反芻するうちに、女の心は海鳥へと変じ、夜街を一望する――商船の停泊する港、小高くなった中心部の教会や役所、そこから大きく飛び去った先の組合通りと貧民街を抜けながら、市街壁を飛び越えようとしつつ諦めてしまい……大路を遡ってくると、松明を掲げた傭兵の列が巡回にあたっている。ひとつ大きく羽ばたいて上昇すると、三階建ての娼館――建てつけの悪い窓辺に留まり、娼婦ユールは目を開けた。
街は月光に包まれ、月光は街の全てに含まれる。この忌まわしい情欲の産物すらも月に陰りを覚え、溶けこんでしまえばいいのに、と清い光が差し込む一室で月を見上げるのだった。
月はその形から世界卵と見なされ、可能性と予知の神グースコレーの象徴である。転じて発展・独立を司る神として、この港湾市ダーズンでもてはやされたが、闇の勢力に加担する者や異大陸渡来の異教族、傭兵や冒険者の類を引き寄せる街娼らにとっては、都合の良い乱痴気騒ぎの口実に過ぎず、次第に廃れていった。
つかの間の遊び心で海鳥を気取ったのに市壁を越えられない自分は、ここで死する運命にある、と思う一方で脱出を諦めきれない。過去の因縁も係累一家も捨てて身軽に飛べたらどんなに素晴らしいだろうか。しかし、想像の翼ははためかず、ユールは市壁の向こうを忘れてしまった……。
この未練がグースコレーの信仰をつなぎ止め、夜中の拝跪を促していた。床は清掃され、調度品も整えられて、住まい手の心を反映していたが、家族や恋人のため日銭を稼ぐこの女の身体が最も汚れたものである事は、彼女の宿命であり、恥のくびきであった。だが、祈念を忘れるほどに堕落してはいなかった。
窓辺に手をつき、通りの灯りを覗き込んだ。相変わらずの街の色に何も思わなかった。それ故に青い瞳は涙に濡れた。いつか願いは成就するのだろうか。虚しいばかりだ……。
――ここで誰かが部屋の戸をノックした。ユールは袖で目元を拭い、鼻をすすってから返事をする。戸は二度ほどガタガタと揺れてから、建てつけ悪く開いた。
「インプにかけて! 忌々しい!」
つっかえる戸に悪態をつきながら、娼婦仲間のメアリーが首だけを部屋に差し入れた。廊下からのランプ光がウッスラと影を割いた。
「また泣いているのかい」
と、友人は声を落とした。
「……あの二人の事? 死んじまったのはあんたのせいじゃないよ。病気が悪いんだ」
「いいのよ、メアリー、何でもないの。それより何か用かしら」
同室の者が亡くなってからは何かとこれを言われてしまう。暗い室では見えていないユールの涙を、優しいメアリーは先回りして心配するのだ。
「もう夕餉だよ」
「あら。もうそんな頃かしら」
夕課を知らせる教会の鐘を失念していたらしい。この後の晩課に移るまでの頃が、娼婦にとっての稼ぎ時であるから、急がなくてはいけない。窓を閉めて、卓子から商売用の小鞄を取ると室を出た。
「また祈ってた?」
「ええ、決まり事ですもの」
下階の食堂に向かいながら、メアリーは肩をすぼめて、
「ああ、本当に神様がいるのなら、あたしの前に降りてきて、お金と幸せをくれないかしら」
「そうねえ」
と、ユールも相づちを打つ、鼻をすすりながら。
メアリーは明るく気を利かせた。そのおかげでユールの涙は食事中に乾いたので、他の仲間との会話も恥ずかしくなかった。
火がくべっぱなしの大鍋には塩気ばかりのスープが湯気立ち、それを個々の食器に取り分けて、めいめい長テーブルに腰かけ、立食し、英気を養った。カチカチのパンをスープに浸して中の混ぜ物を大事に噛み潰し、仕事の合間に一口かじるための塩漬け肉も少し漬けて塩味を抜いておき、食べさしのパンに挟んでおく。それを没薬で燻した布にくるんでおけば、仕事の合間は保った。
食堂は数十人の娼婦やパン焼き女、時には流れの私娼が紛れ込んだが、充分な広さで中庭に続いていた。食事を済ませると各々戸をくぐって、夕闇の街へ消えていく。そこで戦う相手は真っ当な客ばかりではないので、二三人の徒党を組まなければならない。うっかり支払いを「通り過ぎようと」する居酒屋の酒乱であるとか、稼ぎが少なく苛立った警吏、夜警当直の隣組・同職組合における追い剥ぎ、路地裏に潜むマルジノー(無宿人)などがこれに当たる。
食事を終えたユールとメアリーは壁炉の燠からランタンへと火を移した。薄い鉄板と不燃の革でできたランタンが、店じまいを知らせる晩課の鐘がなるまでの灯火になった。二人はこの後の忌まわしい仕事に言及せず、黙々と仕事の準備をした。カメから果実水(ピケット)を汲み上げて土製の水筒に注ぎ(注1)、服の隠しに仕込んだナイフを確認し、先ほどの漬け肉を小鞄に差し込むだけなので、速やかに終えた。
パラパラと出かけて行く仲間に混じって中庭を抜け、脇の門径へ差し掛かれば、自然とユール、メアリーの目つきは厳しく、男を誘うために妖しくなる。夜街に出れば娼婦は侮蔑と不名誉と悪徳の対象であって、法の庇護から逸れた細民であるから、ユールとメアリーはお互いの命を預け合う腹心の友でなければならなかった。乱痴気騒ぎで殺される娼婦は珍しくない。
虎穴に飛び込むような悪徳の商売では、背中を守る傍輩あっての日銭であり、これを裏切れば遠からず自分も同じ境遇になる。悪評の朋輩はいずれ孤立し見捨てられるだろう。
かようにして異国生まれの娼婦ユールは日銭を稼いでいた。一日は不安と空腹と係累の義務でわずかに自立し、いつでも瓦解しそうであるのは、メアリー他も同様であった。
娼館には口減らしや流れ者が行き着く。しかし、かすかに希望は燃えている。
(注1)31行目
果実水(かじつすい)……作中では、果実から酒・油などを作る際に出る搾りかすへ、更に粗末な水を少量加えて搾った液体。細民はこれを常水としている。世帯によっては腐敗を遅らせる果実も一緒に搾る、もしくは澱引きを行った。ピケット。