紫園(虹色幻想11)
木漏れ日の差す森の中を一人の男が駆けていた。
男は見事な牡鹿を追いかけていた。牡鹿は見事な跳躍で、森を自由自在に駆け回った。輝くような黄金色の毛並み、立派な角。
男はどうしてもこの牡鹿を仕留めたかった。
牡鹿は男を嘲るように、後ろを振り返りながら逃げた。
黒い大きな目が男を見ている。
男は矢をつがえた。牡鹿に向けて勢いよく放つ。
矢は牡鹿に当たることなく、下草に刺さった。
男は舌打ちをすると牡鹿を追いかけた。
鬱蒼と茂った森は、牡鹿に味方をした。男が射た矢はブナの幹に突き刺さった。
「きゃあ!」
女のか細い悲鳴が聞こえ、男は声の方へ近寄った。矢が刺さった幹の下に一人の女が倒れていた。
男は驚いて近寄り、女を抱き上げた。幸い怪我はないようだ。男はホッとして女の頬を軽く叩いた。
程なく、女は目を開いた。驚いた顔で男を見上げる。
長い黒髪を後ろで一つにまとめ、手には小さな籠を持っている美しい女だった。
「大丈夫か?」
女は男が射た矢に驚いたのだろう。
「すまない、牡鹿に夢中で気づかなかった」
「いいえ」
女は小さい声でそう言うと男の手を押しのけた。男は慌てて手を離した。
「ありがとうございます」
いや、と男は答えて女の籠を覗き込んだ。その視線を見て女は言った。
「薬草を摘んでいたのです」
「こんな森の奥でか?」
女は恥ずかしそうに笑った。
「はい、少し先に家があるのです」
男は森の奥を見たが、家らしきものは見えなかった。女はその様子をみて笑った。ここからでは見えません、と。
「無礼をした。家まで送ろう」
女は驚いた顔をした。他意はないのだ!と男は慌てて言った。
「ありがとうございます。ですが、狩の途中ではないのですか?」
「いや、あの牡鹿はもう捕らえることは出来ないさ。だから良いのだ」
「そうですか」
女は少し安心そうな顔をした。女もりっぱな牡鹿を見たのだろう。あれはこの森の主かもしれない、と男は思った。
女の家は森の奥深くにあった。そこだけが広場のようになり、小さな小屋が建っていた。
男は小屋の前に立ち、女を見た。
「よろしかったら、お入りになって下さい」
男は頷いて女の後ろに従った。小屋の中は二部屋あるようだった。土間をあがり、囲炉裏の前に男は座った。
女は囲炉裏で湯を沸かし始めた。
「こんなところで一人暮らしているのか?」
男は不思議に思い、小屋を見回しながら聞いた。
小屋の中は質素だが、生活できる物がそろっていた。
誰かが持ってくるのだろうか?
「はい、特に不自由な思いはしておりません」
女はお茶を男に差し出した。男はそのお茶を飲んだ。初めて飲む味だった。
「薬草茶でございます」
女が男の顰めた顔を見て口を袖で隠し、静かに笑った。
「たまに、狩の途中で怪我をされる殿方がおります。その殿方がお礼に食べ物や衣などを下さったのでございます」
なるほど、と男は思った。
女は囲炉裏に鍋を掛け、湯を沸かした。
「もうすぐ日が暮れます。今日はお泊り下さい」
そう言うと野菜など刻んだものを鍋に入れた。女は嬉しそうだった。
「こんな森にいると、あまり人と話をすることがないのです。だから今日はとても嬉しいのですわ」
「では、この森を出たらどうだ?」
男は女に詰め寄って言った。女は困った顔をした。
「ここを出たら生きることが出来ません」
「私が世話をしよう。私の屋敷に来るがいい」
男は女の手をつかんで言った。女は男を見つめた。男が強く頷いた。
「はい」
そうして女は森を出た。
女の名前は紫園と言った。産まれたときからあの森に住み、都を知らないようだった。
小屋には母親が一緒にいたそうだが、少し前に死んでしまったそうだ。
紫園は男に連れられ都にやって来た。初めて見る都は美しく、紫園の心をワクワクさせた。
男は天皇の末子で、気ままに暮らしていた。名を阿刀と言った。
阿刀は美しい紫園を側から手放すことはなかった。末子であったため、天皇も好きにさせていた。
「紫園、君より美しい人はいない」
阿刀は紫園を愛した。そして紫園も阿刀を愛した。
でも、紫園は日増しに元気を無くしていった。病気になったのかと心配した阿刀は、祈祷やまじないをした。
それでも紫園は元気にならなかった。
「どうしたのだ?」
紫園は首を横に振った。
「何でもありません」
「それが何でもない顔か?言ってみろ」
阿刀は優しく問いかけた。紫園は躊躇ったあと、静かに告げた。
「森が恋しいのです。あの小屋に戻りたいのです」
阿刀は驚いた顔をした。
この都より、何もない森がいいというのか?
「どうか、私を森に帰して下さい」
「出来ない。私はお前を手放したくないのだ」
阿刀は困惑した顔をして、紫園を抱きしめた。紫園を自分だけのものにしたかった。
紫園は静かに涙を流した。
なぜか森へ帰りたかった。
帰らなければいけなかった。
その日の夜、紫園は静かに館を抜け出した。丸い月が夜道を照らしていた。だから怖くはなかった。
紫園は通りを駆け出し、一人で森へ帰って行った。
「どこに行っていたんだい?勝手に小屋を空けるなと言ってあるだろう!」
小屋の中に一人の老婆がいて、紫園に叱りつけた。
小屋にはお香が充満している。不思議な匂いが鼻をついた。
「何ボケッとしてるんだい?早く入りな!客が待ってるんだよ」
老婆が紫園の腕を引っ張った。土間の奥の座敷の襖が開いている。
そこには一人の男がいた。
「お待たせいたしました。こちらが紫園です」
老婆は男に向かって頭を下げ、紫園を座敷に突き飛ばした。
紫園は慌てて振り向いた。鼻の先で襖が閉じられた。
「どうした?早くこっちへ」
後ろの男が紫園の手を撫で、下卑た笑いを顔に浮かべた。
この森は紫園の仕事場。
紫園は男達に春を売っている。
お香の匂いが記憶を鮮明に甦らせる。
私は汚らわしい女なのだ。
紫園は男の首に腕を回し、微笑んだ。
ここが私の生きる場所なのだ。
次の日、阿刀が森にやって来た。
小屋にいる紫園を見てホッとしたように笑った。
「急にいなくなるから、心配したのだ。帰ろう、紫園」
阿刀が紫園の手を取り、言った。
紫園はその手を振り払った。
「私はここでしか生きられない女。もう私のことなど忘れて下さい」
「なぜだ?」
「…私はここで男に春を売って生きているのです」
阿刀は驚いた。
嘘だろう?そうつぶやいて紫園を見た。
「嘘ではございません。私は穢れた女なのです」
紫園は阿刀に向かって告げた。その姿は艶やかな天女のようだった。
「それでも構わない!」
阿刀は紫園にすがりついた。
もう、紫園なしでは生きていけなかった。
紫園は笑った。
遠くで鹿の鳴き声が聞こえた。