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牡羊は雪原で走り回る

1939年12月2日 ローマ


ローマは古からの都である。

かつてローマ人たちがこの地に根付いて数千年、一時は地中海世界を支配したローマ帝国の中心にして、多くの素晴らしい大理石の建造物や巨万の富をたたえたこの地中海の宝石は蛮族などの侵攻やイエスお兄さんを信仰するヒステリックな方々によって大競技場などの建造物を採石場にされたりと散々な目にあったりはしたがそれでもなおイタリア半島における象徴的存在であり続けた。

そして現在では久方ぶりに統一されたイタリア王国の首都として機能している。


そんなローマの一角に軍の参謀本部がある。

その一室で現在、この後のイタリアの運命をある意味左右するある会議が行われていた。



「・・・まずいね」


「参りましたな」


白衣を着たラテン系のオッサンとイタリア陸軍の士官達が一枚の写真を見ながらため息をついていた。

そこには、がっしりとした鋼鉄の車体と、車体の割りに巨大な砲塔を搭載した一両の戦車の写真があった。

はるばる雪のフィンランドより送られてきた写真である。


1939年の末、フィンランドとソヴィエト連邦との戦争・・・世に言う冬戦争において、フィンランドはソ連軍の劣悪な練度と厳しい冬に助けられ、なんとか善戦を続けていた。

しかし、1940年に年を越えるとソ連もいい加減に本気をだしてきて・・・というか筆髭野郎がいい加減に焦れてきて大規模な増援と新兵器を次々投入し始めたのだ。


そんな中に数両の試験戦車があった。


写真に写っているのもそんな試作戦車の一つでドレッドノートとよばれている。


後に、「KV2」と呼ばれることになるソヴィエトの超重戦車であった。

70ミリの前面装甲に128ミリ砲というバケモノ染みた重火力をもつ文字通りの怪物であった。


フィンランドはスンマ村近郊にてはじめて姿を現したそれは早速フィンランド軍の偵察隊によって発見された。

その写真は回りまわってイタリアの観戦武官の手に渡った。


そのとき、イタリア軍人達は衝撃を受けた。


こんなバケモノ戦車をソヴィエトは実戦配備できるほどにまで強化されているということを、この写真は如実に示していた。


今はまだ数が少ないだろう。


だが、将来的にはどうか?


かなり不味い。

確実に量産されるのは目に見えているからだ。


ただでさえ、イタリアは共産主義を敵として認識しており、今回の冬戦争においてもイタリアはフィンランドに対して支援物資を送るなどしている。(その一方で艦艇建造の技術協力などで取引をしていたが)

全世界の共産主義による統一を狙っているソ連である。

いずれ友邦たるドイツが攻め込むかソ連が攻め込むかのどちらかは分からないが、いずれイタリアはドイツと共にソヴィエトと正面衝突することは確実であろう。


ならば、イタリアが今やるべきことは?


この例の戦車に打ち勝つだけの戦車を整備することであろう。


イタリアにはソ連戦車に対して非常に苦い経験を持っていた。

それは数年前に起こったスペイン内戦にあった。


当時フランコ政権側を支援していたイタリアは増援軍ということで軍隊を派遣していた。

そこには戦車部隊もいたわけだが、ある時イタリア戦車隊は同じく義勇軍という形で派遣されていたソ連のT26戦車隊と衝突して玩冑一触で撃破されるということがあった。


当時イタリアは自国が山がちなことを懸念して(予算が少なかったこともあるが)小回りの利く豆戦車を中心に整備していた。

だが、豆戦車ではしょせん機関銃か小口径の大砲しか搭載できない。


だが、時代の流れは戦車に重装甲、重武装化を促している。


より直接的な脅威・・・イタリアが長年仮想敵としてきた隣国のフランスもまた重装甲のソミュアなどの戦車を開発して前線に配備しているのだという。

これはイタリアとしても乗り遅れるわけにはいかない



ということで、M11/39軽戦車やM13/40戦車(開発中)を作っていたりはしたが、その搭載火力はいずれも37ミリや47ミリ砲クラスであり、これではソ連の重戦車には不十分と考えられていた。

(まぁ、当面はM13クラスの戦車なら大丈夫だろうということで、主力にはするつもりだが)


・・・ならばどうすべきか?


決まっている。


より優れた戦車を作らねばならない!


イタリアは決心した。


この戦車の開発競争に乗り遅れるわけにはいかない。そのためにも写真の化け物と戦える戦車を作り上げなければならないということを!


幸いと言っては何だが、イタリアにはそれが可能なだけの余裕があった。


1930年ごろに日本のとある商社がイタリアの植民地であったリビアの開発事業に参入、そこで偶然大油田を掘り当てたのだ。

当時油田開発は半ばばくちで、現代のようなデータを用いて・・・なんてことはできなかった。

井戸掘っていたら偶然出たとか、タール沼があったから石油があるとかそういう認識でしかなかったのだ。


このイタリア油田の開発はドイツ資本などの流入を招き、国内開発に必要なだけの資本をイタリア国内に流入させることに成功した。

また、公共事業も数多く行われ、トリポリとベンガジには最新鋭の港湾設備が、ジェノバの街には巨大な石油コンビナートが整備された。

これによって、イタリア経済は奇跡の回復を遂げたのである。

現在はソ連やイギリス、フランスの軍拡に対抗するために、マルコ・ポーロ級戦艦やヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造に着手していたし、ドイツのDB601エンジンのライセンス生産などを得たこともあって、戦闘機開発が加速していたが、肝心の陸軍はいまいちであった。


国土を守る最後の砦は陸軍である。

その陸軍の保有する戦車がボロい旧式戦車ばかりではあってはならない!


幸いなことに景気の回復と工業力の活性化によってイタリアでも戦車の開発が可能な状況だ。


いつ作るの?


今でしょ!


そんなわけで、開発が開始した。


イタリア軍の戦車の基本構造はイギリスのヴィッカース6t戦車が基本モデルとなっている。

これはT26とも同じ構造だ。

だが、イタリアはそれでは不十分だと感じた。


もともと、ヴィっカース戦車はたしかに優れものだが、信頼性も低く故障が頻発していた。

それでも他にいい手もないので悪戦苦闘しつつ運用していたのだが、それでは限界もあろうと言うものであった。


だが、どうしようか?


とりあえず、敵の戦車から調べてみるのはどうか?

敵を知り、己を知れば・・・まぁ、マシな戦いはできるって孫武さんもいっていたと思うから。


ちょうどいいことに、今のフィンランドには冬戦争によって手に入れた大量のソ連戦車があった。

大半がT26であったが、そのほかにもBT戦車と呼ばれるまた違った形式の戦車があった。


こいつはクリスティ懸架式と呼ばれる方式を用いた戦車で、これまでの小さな転輪を回したりするようなものではなく、大型の転輪を用いたり、部品を可能な限り簡素化することで故障にも強くするという進んだ構造をもっていた。

もともとはアメリカのクリスティとか言う男が作ったものだが、本国ではあまり注目されなかったこともあってその特許をソ連に売り込んだのである。


その結果できたのがこのBT戦車だった。


イタリアはとりあえずスクラップでも何でも良いからBT戦車を送ってくれるように頼んだ。


フィンランドとしても、自国を援助してくれた国の要請をむげにはできず、早速スウェーデン経由で自走が可能な状態のBT7戦車を輸出した。


数週間後、フィンランドから送られてきたBTを検分したイタリア人技師たちは驚いた。


「こんな簡素な部品で動くのか!」と


戦車と言うものは現代の自動車のように何キロ走っても大丈夫と言うような丈夫なものではなかった。

もともと、キャタピラーと言うクソ重い鉄やゴムの塊を車輪にまとわせ、それに加えてこれまた重い装甲を身にまとうのだ。

おまけに強力な反動と重量を有する大砲も車体に搭載した上に、現代よりも西濃も信頼性も弱いエンジンを搭載したら・・・走るだけでぶっ壊れることは火を見るより明らかだ。


だが、ソ連軍のそれは構造を可能な限り簡素化したことや、高速を発揮可能な上に燃費も良好なディーゼルエンジンを搭載したこと、ビスだらけでこそあるが、対弾性を上げられる被弾傾斜を取り入れた装甲、

そして、大転輪。


この構造はイタリア人技師たちにとっては衝撃的であった。


と、同時にこれをモノにできれば・・・という思いもあった。


基本はBT戦車を応用しつつ、その一方で火力と装甲を強化するという方針を打ち出した。

その結果、要求項目はかなりハードなものとなった。

当時の結果がこれである。


イタリア陸軍発令 1940年1月5日


要求車種:重戦車

  重量:20トン

  武装:75ミリ以上×1門

     ブレダ8ミリ機銃×2

  時速:40キロ以上

航続距離:200キロ

  用途:対戦車戦闘、歩兵および火力支援



国内メーカーに期限は一年、それまでに優秀な戦車


これには、イタリアの多くのメーカーが葉を競いだ。


イタリアという国は良くも悪くも職人の国であった。

そして、相応の技術もあった。


締め切りは守らないが・・・


そんなわけでトリノにある小さな自動車メーカーが参加した。


その会社の名は「モンテデュアル自動車工業」


社員も10人ほどと言う小さな自動車会社だった。

普段はフェラーリなどの下請けをしていたのだが、これを機に打って出てやろうと父から社を受け継いだ若干20台の若社長たるエリオ青年は野心に燃えていた。

(開発さえしたら、後は製造権などはすべてフィアットなりどこなりに売り払うつもりだった)


エリオは早速軍がコピーしたBT戦車の設計図をもらってきてそれをたたき台にすることにした。

特許?そんなもん後で問題になって空でいいのだ!(なんというやつだ!)


エンジンには大出力が発揮可能な航空機のエンジンにしようと考えた。

空を飛ぶ飛行機のエンジンはその安全上、ある程度の年齢を経たエンジンは出力が低下するため交換せねばならなかった。

だが、地上を走る戦車ならば、そんな事は関係ないため、十分な運用が可能であった。

そのエンジンにはやや旧式化しつつあるフィアットCR32につまれているA.30エンジンを搭載することにした。

これを定格の600馬力を10パーセントほどデチューンして540馬力にまで落とした。

多少大型だが、水冷エンジンによって同クラスのエンジンよりも大きさを絞ることができた。

さらに足回りは大転輪として不正地でも高速で走り回れるようにした。

さらに、前面装甲も50ミリ、側面装甲を20ミリとし、内前面装甲は35度の傾斜装甲を付与した上に、溶接を行うと言う野心的な試みをおこなった。


砲は最新鋭のDa75/32野砲を採用した。

32口径75ミリ砲は装甲貫通能力をもち、火力支援任務にもうってつけであったのだ。

これを手直しして搭載することで、当面のある程度の戦車には太刀打ちできるだろうと考えた。

砲塔部分は、量産性をあげるために溶接とした上で箱型としたが、それでも前方部はやはり傾斜装甲を採用した。


その結果、手間と重量がかなりかさみ、予定の22トンから大幅に超過してしまい、結果、36トンと言う当時としては化け物のような戦車が完成することとなった。

だが、それでも速力47キロと言う高速性を発揮できた。


形としては、かなり現代のイタリアのアリエテ戦車とそっくりとなった。


こうして1941年2月1日

予定よりも少し遅れただけと言うイタリアにしてはすごくハイペースな設計と開発のけっか、それは完成した。




とはいえ、そのクリスティー戦車特有の走破性や溶接を多用してビスを少なくした構造は先進的であり、イタリア軍上層部もすっかり目を輝かせた。

また、棟梁たるムッソリーニもこれをひと目見て気に入り、「これこそ我等が『アリエテ(牡羊座)』にふさわしいと褒め称え、結果M41重戦車・・・通称アリエテとなる。

そしてアリエテは早速採用&量産することが決められた。



ただ、モンテデュアルでは十分な量産ができないこともあって生産の大半はフィアット社が行うこととなった。

だが勿論、モンテデュアル社自身もまた、小規模ながら生産工場を建設して生産に入ることとなった。


時は1941年5月2日、ようやく先行生産車両およそ32両が両社から軍に出荷された。


それから3週間後の1941年6月、ドイツは宿敵たるソヴィエトへと兵を進めた。


これから長く続く独ソ戦の始まりであった。


イタリア軍としても共産主義との戦いはムッソリーニの悲願であったこともあって軍団の投入を決定、自動車化歩兵師団2個(第3快速師団『アオスタ侯アメデオ皇太子』、第52自動車化師団『トリノ』)と機甲師団1個(第131機甲師団『センタウロ』)からなる第35機械化軍団を編成し、イタリア王国ロシア方面派遣軍の中核となった。


なお、そのセンタウロ機甲師団にはアリエテ重戦車を中心とする1個大隊(25両+セモベンテ自走砲(47ミリ砲装備)12両の計37両装備)が第101重戦車大隊として配備ることになった。


当初は第35軍団とともにロシアに向かう予定だったのだが、訓練の遅れや展開の遅れなどからセンタウロ師団での配備は10月頃になってからであった

彼らはドイツ第11軍の指揮下に入り、戦車師団長となったジョヴァンニ・メッセ少将の指揮の下、第101重戦車大隊は南方軍集団で一翼を担うこととなる。


そして1941年11月20日、ついにアリエテ重戦車はついにその真価を発揮する機会に恵まれることとなった


当時センタウロ機甲師団はドニエプル周辺での戦いに参加していたが、そこで緊急連絡が入ってきたのだ。


ソ連軍の新型中戦車を中核とした1個旅団規模の戦車部隊が前線を突破した、敵は歩兵の1個連帯を伴う・・・と


早速第101戦車大隊に出撃命令が来た。

現在そこで投入できる唯一の戦車部隊だった。


「出動する!」


大隊長のヴェネト・パエッタ少佐は絶対に個々で敵を阻止すると言う強い決意の下、愛車であるアリエテに乗り込んだ。

今、彼の手元にはアリエテ重戦車の2個中隊18両(残り7両は故障などにより出撃できず)とセモベンテ突撃砲の1個中隊6両、それに自動車化歩兵の2個中隊約400名、そして対戦車砲の1個中隊(ソ連製のF22対戦車砲6門装備)があった。


「前方は大隊本部および第1中隊で固める。第2、3中隊は歩兵を伴って敵の背後に回り歩兵部隊を蹴散らす!迎撃地点は103高地とする以上!」


彼の作戦構想はきわめてシンプルだった。

突出してくる敵戦車部隊を重戦車部隊及び戦車猟兵部隊が食い止めて、その間に後方に回り込んだ別働隊が後に続く歩兵部隊を蹴散らすというものだった。


大急ぎで対戦車砲が設置され、戦車は丘の後ろに隠れる。

小数の歩兵が見張りとして山頂部に塹壕を掘って隠れた。


やがて、地平線の先から土煙が上がった。

ソ連軍の戦車部隊だ!

どうやらKV1重戦車を先頭に持っているようだがT34もいるらしい。


パエッタはどこか胸が高鳴るのを感じた。


もともとこのアリエテ重戦車はKV1に対抗するために作られたのだから。

さらに、新たなる敵の主力戦車であるT34とも戦える機会が得られたのだ。

ワクワクするのも無理はない。


だが油断は禁物だ。

何しろこいつは初の対戦車戦闘なのだから。

「各車、距離1400から発砲を許可する。」


パエッタは表面上落ち着き払った声で通信機で命令を送った。

各車から了承の返答が来る。

さぁ、後は敵の到達を待つだけだ。


やがて敵との距離が1400となったことを砲手が言った。


「よろしい、砲撃開始!」


彼の命令の下、アリエテの75ミリ砲が火を噴いた。


初弾はどうやら外れてしまったようだ。


「外れた!次発装填急げ!」


「り、了解!」


装填手が慌てて砲弾を装填する。


「装填完了!」


「よし、撃て!」


砲手が引き金を引く。


再びの轟音が社内に届く。


今度は・・・?


ペリスコープから恐る恐る狙いをつけた車両を見つめる。


それは煙を吐いて停止していた。

どうやらアレはうわさのT34らしい。

前面装甲を打ち破ったようだ。


慌てて乗員が逃げ出しているのが見えた。


パエッタは歓喜した。

弱い弱いと自分たちを侮っていたドイツ軍ですら手も足も出ないような戦車を一撃で葬ったのだ。

嬉しくないはずがない。


だが、いつまでも感傷に浸っているわけにも行かないのもまた確かだった。


「よし、次いくぞ!」


「了解!」


彼の命令に車内にいたものたちは一様に明るい声で返答した。

パエッタ率いる機甲戦闘団はその後も押し寄せるソ連軍戦車部隊と熾烈な戦いを繰り広げた。


そして、ついに奴が姿を現した。


「っ前方に巨大戦車!・・・ギガントと思われます!」


きたかっ!

パエッタは身構えた。

もともとこの戦車はKV戦車と戦うために生み出されたのだ。

今こそ、真の力を見せるときであろう・・・!


「・・・距離1000・・・いや、500から砲撃!なんとしても奴をここで叩き潰す!各車、油断するなよ!」


パエッタはマイクに向かって叫んだ。


パエッタのを初めとして付近にいた数両のアリエテがうなり声を上げて動き出した。


いずれも砲の照準をKV2に合わせている。


「距離500です。」


「よろしい、射撃開始!」


再度アリエテが咆える。


32口径75ミリ砲弾が立て続けにKV2に命中するが、いずれも命中の火花を散らせるだけで決定打には至ってはいない。


「ダメです!この距離だと・・・」


「500でもダメなのか・・・!」


パエッタの顔が険しくなった。

直後にKV2からお返しのように砲口がピカッと光った。


KV2から放たれた128ミリと言う巨大な砲弾はそのまま直にそばにいた2号車に命中した。


命中と同時にアリエテは巨大な火柱を上げ、同時に砲塔そのものも吹き飛んだ。


・・・どうやら中にあった砲弾にも瞬時に引火してしまったらしい


「そんな、一撃で・・・くっやむをえん!もっと詰めろ!」


パエッタの指示の元、アリエテは前進を始める。

KV2は今度はパエッタのアリエテに向けて砲を旋回させようとする。

だが、それをさせまいと生き残った遼車がKV2に砲弾を命中させる。


そのためだろうか、KV2は思うようにパエッタ車に砲弾を命中させることができなかった。


やがてパエッタ車はKV2のすぐ目の前にまでやってきていた。


距離に計ると100メートルもないかもしれない

これでダメだったら・・・もうダメだ。


「撃てえッ!」


パエッタが叫んだと同時に砲弾がKV2の側面装甲に吸い込まれていった。

こちらからでも聞こえる命中音


そして・・・何も聞こえない

仕留めたのか・・・?


パエッタは恐る恐るKV2をみた。


どうやら奴は沈黙しているようだ。

これは・・・勝ったか?


パエッタ自信はそう思ったがそれはすぐに否定された。

砲塔がゆっくりとだがこっちに向かって旋回していたのだ

奴はまだ生きていたのだ!


「う、撃て!しとめるまで撃て!」


うろたえた様にパエッタは再び命じた。


何発もの75ミリ砲弾がKV2へと吸い込まれていく。


・・・それからどのくらい立ったのだろうか?

1秒かもしれないし、ひょっとしたら1時間かもしれない


そんな永遠とも思えるような時間が過ぎた後、パエッタは再度KV2を見つめる。


KV2はエンジンルームから煙を吐いて、今度こそ動かなくなった。


そう、パエッタたちはやり遂げたのだ。


敵もどうやらこのKV2がやられたことを受けて算を乱して敗走していったようだ。


分離した別働隊もどうやら敵の歩兵部隊を蹴散らすことに成功したようだった。















・・・戦いの結果はイタリア軍機甲部隊の勝利であったと言える。

これにより、ソ連軍は脆弱なイタリア軍の戦線を突破してドイツ第11軍の背後に進出しようとした意図は完全に封じ込められることになったのだ。


だが、それ以上にイタリアは大きなものをえた。

この戦いで、イタリア軍は強力なソ連戦車ともある程度互角に戦えると言うことが証明されたのだから・・・。

だが、課題もまた大きかった


ソ連軍のKV2戦車やT34戦車を検分した結果、まだまだ有利に戦えるとはいえず、さらなるアップデートが必要だった。


とはいえ、この戦車の登場は、それまでソ連戦車に苦戦を強いられてきたイタリア軍やドイツ軍将兵にとってはまさに福音であった。

これで、数こそ少ないがまともに戦える戦車がようやくイタリア軍とは言え味方の手に入ったからだ。


ドイツ南方軍集団を率いたルントシュテット元帥もこの戦車に対しては期待を抱いていたと言う。




この戦いの後、イタリア軍は冬のロシアでの苦しい戦いに参加していくことになる。

だが、イタリア軍は決してあきらめなかったし、決して不利ではなかったからだ。


この冬、ロンメル大将率いるドイツ第48戦車軍団(史実のアフリカ軍団)がついにモスクワに突入したからだ。


もともとモスクワはソ連の交通の基点であった。

モスクワが失われたことで、ソ連軍の物流や移動能力は麻痺、スターリンはかろうじて脱出できたが、いまや戦いのイニシチアブはドイツを始めとする枢軸同盟軍のものであった。


とはいえ、一時はデミャンスク周辺が包囲されるなどの被害を受けたものの、ドイツ軍はいまだ十分な戦力を有していた。

そして、春の雪解けを待って、イタリアからも次々と増援が到着、イタリア軍は結局機甲師団4個、機械化師団6個、歩兵師団3個、山岳師団1個という編成となり、イタリア第8軍となった。


アリエテも数を増やし、各機甲師団にそれぞれ1個大隊が配備されることとなる。


本国ではこの戦いの結果を踏まえてさらなるありえてのアップデートが行われているのだと言う。

早ければ来年かさ来年にはより強化されたアリエテが戦場に現れるはずだ。



1942年夏、イタリア軍はバグー油田を狙うブラウ作戦に参加し、ドイツ軍の側面を守ることとなった。


ドイツ軍は燃料の不足に苦しみながらも、進撃を続けた。

黒海の制海権が同盟国たるイタリア海軍によって抑えられてシーレーンが確立できたことが大きかったのかもしれない。


そして、運命のスターリングラードの戦いが始まる・・・。



当時イタリア第8軍はルーマニア軍やハンガリー軍とともにスターリングラードで戦うドイツ第6軍の後背を防衛していた。

だが、ある日、再びソ連軍がやってきたのだ。


今回は以前は数の少なかったT34を大量にぶつけてきた。


だが、イタリア軍とて無能ではない。


軍司令官となったメッセ大将の指揮の下、イタリア軍はドイツ第49戦車軍団(史実の第48戦車軍団)やルーマニア軍らとともに苦しい戦いを続けた結果、かろうじて撃退できた。


この戦いでもドイツ軍は優位のうちに戦いを終了することができた。

それでも、モスクワの付近であるクルスク周辺が一時奪回されるということを受けたが・・・


だが、アメリカやイギリスからのレンドリースもアルハンゲリスクやアゼルバイジャン、そしてムルマンスクなどといった地域を損失あるいはドイツ海軍によって破壊、封鎖された以上、どうやっても届くことはなかった。(辛うじてウラジオストクより物資が届いていたが、それでもシベリア鉄道などで運ぶ以上、十分ではなかった)



その後の本格的な戦いはその後の5月のクルスクの戦いにまで待つこととなる。


イタリア軍はその間にもさらに頼もしい見方がやってきてくれた。


アリエテ駆逐戦車の誕生である。


アリエテを砲塔を撤去し、かわりに車体に90ミリ砲を搭載したと言うものだった。

外見上では、ドイツ軍のヤクトパンターにそっくりであったが、これは待ち伏せ戦闘や歩兵と合同の戦いにその威力を発揮することになる。


その後も、アリエテはイタリア軍とともにロシアの大地を駆け巡り、1944年10月5日の独ソ休戦のその日

まで戦いを続けることとなる。






ヴェネト・パエッタイタリア王立陸軍退役中将著 『牡羊座の軌跡』 より



・・・ところでモンテデュアル社はどうなったかって?

アリエテシリーズが売れたので纏まった工場を建設した後、目ざとく目をつけてきた日本商社と自動車の開発、生産をしているんだとか


と言うわけで、今回は初めて短編を書いてみました。

なかなか短編って難しいですね。

もしもイタリアが強力な戦車を作っていたら・・・?

という物語です。

そのためにイタリアを多少国力を強化していますが・・・たぶん本当に作ったらビスだらけの宮崎メカっぽくなっていたでしょう。

それはそれでいいのですが・・・

最初はドイツ軍の現地改造戦車を考えていたのですが、調べてみたらあの時代のドイツ軍はかなり滅茶苦茶な現地改造をやっていたようで・・・T34の車体に88高射砲乗っけるのなんて序の口で、同じくT34の車体にタイガーの砲塔を乗っけるなんて無茶をやっています。・・・上下作動はできたのか気になるところです。

まぁ、そんな無茶をやっていたのでちょっと自分では無理だと思い今回のイタリア版T34(笑)を作ってみました。

後、社長ですが某魔法少女モノ(言わないのがお約束)より拝借させていただきました。

アニメよりはドス黒くしています!

本当は社長と言うことで、桃色髪の女の子にしたかったのですが、さすがに自重しましたよ・・・


いずれ、戦艦マルコポーロを主人公にした小説を書いてみたいです。(もちろん前作とは全く違うスペックでですが・・・)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 東部戦線で大活躍するイタリア戦車というのが面白かったです。 [気になる点] 失礼ですが誤字が多いと思います。 西濃→性能 では?
[一言] 企画参加ありがとうございます。そして、イタリア戦車大活躍!楽しく読ませていただきました。あの国も新兵器の開発失敗は国力と金が関わっていますから、その枷がなくなればこれ位出来たかもしれません…
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