その背に闇の手が伸びる
「戦場より戻ったら、今度は剣でなく、お前を貰いに訪ねよう」
出立の前夜。エインハルトはわざわざマヤの家に来た。そして、彼女の手を包み、瞳を覗き込んで言ったのだ。
「そうして、あの庭で式を挙げよう。私たちが出逢ったあの庭で、花が美しい季節に」
そうしてエインハルトは旅立った。
エインハルトのいなくなった日常を、マヤは剣を鍛えて過ごしていた。鍛冶職人の業務だからというのもあるが、強くて頑丈な武器を作ることで戦争の早期終結に――そして、エインハルトの無事の帰還に貢献できないかと思ってもいた。入ってくる噂は嫌なものばかり。唯一の救いは、第三王子の殉死の知らせがないことである。
研いだ剣を脇に置き、溜め息を吐く。あの約束は、いつ果たされるのだろう。エインハルトの告白は彼のいない日常を慰めてくれたが、同時に苦しめもした。もし、彼が約束を果たせなくなったら……? その絶望が恐ろしい。
「マヤ。手が空いていたら、届け物を頼まれてくれないか」
鍛冶場をイールが覗き込む。
届け物とは、新しくできた鍬。これを郊外のある家に。戦争をしていても畑を耕さねば生きてはいけないのだ。
「行くわ」
マヤはエプロンを脱ぎ、立ち上がる。鍬を受け取ると、1人郊外へ向かう。
戦場は遠く離れた国境、不穏な噂も離れた街での出来事だった。だから、この町は比較的安全であるはずだった。
しかし、マヤはそれきり鍛冶屋に戻ってくることはできなかった。
目を開くとそこは暗く、自分が何処に居るのかわからなかった。目が慣れてきて、屋内であることがわかる。そして、周囲に人。
確か、届け物の最中だった。鍬を届けるように頼まれて、郊外の農家へと向かった。もう少しで目的地というところで、背後から襲われて、眠らされたのだ。呪文のようなものを聞いたので、おそらく魔術によって。
今手元に鍬はない。凶器にもなるから捨てられたのか。
そしてここは何処かの檻の中、若く美しい女性ばかりが集められているようだった。
少し前にイールに聞いた話を思い出す。一部の魔術師集団が人を拐って人体実験をしているという。それは首都から離れた、西の乾燥草原の中にある町村での話だったはずなのだが、とうとうここまでその手が伸びたというのか。
この場に居るのは女ばかりだから、従軍している男たちの慰みものとして売り付けられる可能性も勿論考えた。
だが、それならば、この獣の臭いはどう説明される……?
イールのように情報に詳しくないのが悔やまれた。もっとも、知ったところでなにもできないけれども。
檻の外で誰かが近づいてくる音がした。意識のある女たちが身動ぎする。皆、訳もわからずにここに閉じ込められているのだろう。全員がこれから自分の身に降り掛かる事態に恐怖した。
檻の向こうに、魔術師のローブを纏った男が立つ。男は吟味するように檻の中の女たちを見渡した。
「お前」
男は、マヤを指差した。
「出ろ」
足がすくんで立つことができなかった。苛立った男は、マヤの手を引っ張って無理矢理檻の外から出した。
倒れ込んだところを、立て、と命令されて、渋々マヤは立ち上がる。
ついてこい、と言われても逆らう術は持たなかった。
「妙な気を起こすな。ここには至るところに魔術の仕掛けがある。逃げようとしたら無事じゃあ済まない」
何をしても逃げられない、ということだ。
檻は地下にあったようで、魔術師についていくと階段を上らされた。建物は堅固な石造りで、おそらく城塞かその遺跡。階段を上がった廊下も狭くて暗い。
やがて、強固な扉の部屋に通された。無駄なものはなにもない、真ん中が空けられた部屋で、転がされた重い鉄の枷が妙に目立つ。
その中で、開かれた書物に目を奪われた。描かれているのは、背に翼を生やした男とも女とも見分けのつかぬ麗人の姿。
「天使というんだそうだ。旧世界に神の使いとされていたらしい」
旧世界。何百年か前に神に滅ぼされた世界。かつては数多の信仰があり、色んな神が居たそうだ。その一部で、神と人間の仲介者として、このような存在があったらしい。
「あんたの未来の姿だよ」
枷を足に嵌められながら囁かれた言葉に、マヤは驚いて振り返る。
マヤの足に触れた男は、理知的な顔ににやりとしたおぞけの走る笑みを浮かべて、彼女を見上げた。
「娼婦として売られると思ったか? 残念ながら、あんたはそれよりも酷い目に遭うだろう」
酷い目。天使。未来の姿。いったいなにをされるというのか、考えようとするのを頭が拒む。
「だが安心しろ。運良く成功したら全て綺麗に忘れさせてやる。痛いのも苦しいのも、なにもかも全て、な」
睦言に似た甘い囁きと共に、マヤの意識は闇へと落ちた。
エイン、と助けを呼ぶ声を、果たして男は聞いたか否か。
どちらにせよ、それは望む相手に届くことはなかった。
魔術師の言った通り、気が付いた時にはなにもかも――自分自身のことでさえ忘れてしまった。
新しい姿で、新しい生き物として、存在するようになった。
ただ、唯1つ。
空っぽのはずの記憶の中で、自分を見つめる翠色だけが妙に強く残っていた。