秩序と誓約
翌朝、マヌはノックの音で目が覚めた。鐘の音はまだ聞いていないから、起床時間は過ぎていない筈だ。今がどのくらいの時間なのか、いつもの癖でまず蔀窓を開ける。遠くから聞こえていた波の音が途端に間近に迫る。マヌの部屋は町とは反対の方向に面していて、真下は崖と海だ。
霧の立ち込める窓の外は、波が穏やかで風もない。日はまだ出ていないけれど、仄明るかった。今日も昨日に引き続き晴れのようだ。 空気が青い。
マヌは潮の匂いがする空気をいっぱいに吸い込んだ。
すると、もう一度今度はさっきよりも少し強い調子で扉が叩かれた。マヌは自分がまだ寝巻きのままだったことに気がついて、慌てて戸に走る。
「ごめんなさい。もう少し待ってください」
扉越しに声を掛けながら、服を脱ぎに掛かる。クローゼットから服を取りだして、袖を通す。ズボンを履きながらローブに手を伸ばしたとき、履きかけのズボンに足を取られて転んだ。
情けない声を上げて床に転がると、外から穏やかな笑いが聞こえてきた。
「焦らずとも構いませんよ。誓約様がお呼びです。着替えたら出向くように」
さら、と布ずれの音がして人の気配が遠ざかっていった。恥かしさで顔を真っ赤にしていたマヌの表情が、落胆と興奮が入り混じったものに変わる。
(笑われた! けど、顔を見られなくて良かった)
今の声は秩序様だ。カトル・ウィン・サクレの最高位は誓約で秩序がそれに次ぐ。先代からその職を受け継いだばかりだけれど、怖くて厳しい誓約様と対照的な秩序様は、皆の憧れの的だ。そんな人に直々に部屋に出向いて貰えるなんて、光栄だ。間近で見れなくて残念だけど、寝起きのだらしない様子を見られなくて安堵もした。
その秩序の言葉を思い出して、マヌはがっくりと肩を落とした。
また、呼び出された。
何を失敗したのか、マヌはあの人に目を付けられてしまったらしく、呼び出されては雑務をさせられて、手際の悪さを怒られる。講義に出られないから勉強も遅れるしいい事なしだ。
そんなことを思っていたら、起床の鐘が遠くから聞こえてきた。
さっき取り損ねたローブを羽織って、身支度を急ぐ。
靴が片方しかない。頭に手を当てて昨晩の自分を思い返して、ベッドの下を覗き込む。案の定そこに蹴りこんであった。手をいっぱいに伸ばして靴紐をつかんで引っ張り出して、足をねじ込む。
また誓約様に呼ばれたなんて知れたら、皆に笑われる。成績だって悪くないし真面目に講義にも出ているのに、何でこんな目に会うんだろう。名誉な役目なんて思っていたのは、最初の一日だけだ。
ああ、こんな事をしていたらまた誓約様に嫌味を言われる。
鐘の音が止まった。
活気付いてきた廊下を避けるようにして裏庭に駆け込む。
太陽がちょうど頭をのぞかせた所らしくて、照らされる町並みの真ん中が黒々と影になっている。マヌは石の手摺に近寄って眼下に広がる石造りの町を見た。
海から生えた岩山のような島の麓には、カトル・ウィン・サクレを成り立たせている人たちの居住区がある。島に必要な物資を運んできてくれる商人の家。中にはマヌたちの制服をつくる仕立て屋や、本屋もいる。ラクも、あのどこかで目を覚ました所なんだろう。
この高台にある大きな建物の所為で、町にはまだ日が当たっていない。しかし、家々の隙間の道には、荷車と人影がちらほらと見えた。 石畳も立派な家もマヌの故郷では見たことがないから、ここが随分と立派な町だということは遠目に見てもわかった。
「裏庭に隠れていれば見付からないとでも思ったか?」
かなりの怒気が混じった声がした。
ぎょっとして振り向くと、藍色の制服姿の二人がそこに立っていた。特別な役割を与えられたものだけに許される色だ。
誓約様と、秩序様だ。
制服を身につけているのは十代が殆どの場所で二人の長身はとても目立つ。それに加えてその藍色は一線を画しているのだ。誓約様はいつにもまして目が釣りあがっていて、まさに怒髪天をつく勢いだ。その後ろで秩序様が困ったように笑っていた。
言い訳を何か、と思うけれど、何か言わなくちゃという心の声ばかりがうるさくて言葉が出てこない。
「先に俺の部屋に行け」
視線で後ろを示されて、マヌは返事もできずに二人の脇をすり抜ける。対照的な二つの顔が、マヌを監視している。一つは指一本でも無駄に動かすことを許さぬ一対の目。一つは優しく穏やかな、度を過ぎた自由はけして許さない一対の目。
マヌよりも先に誓約は歩き出し、寄宿舎に向かった。
(あれ?)
めずらしいな、と振り返って足を止めた。振り返ると同時に、その勢いを殺すようなタイミングで肩に手が置かれた。体を震わせて、その手の持ち主を見ると唇の前に手を立てている秩序がいた。横目で誓約の姿を確認すると、こちらには気づかないで裏庭と寄宿舎を繋ぐ扉に向かって歩いていた。
「怖い思いをさせてしまいましたね。君のせいではないので、安心してください。今日は少し機嫌が悪いようです」
問題児がいまして、といわれてぎくりとするが、皮肉ではないらしい。いつも通りの困ったような笑顔を浮かべたまま、誓約の後ろ姿を窺った。
ずしりと重い、布をかけられた籠を手渡された。
「後でお茶でも淹れましょう」
秩序の体がそよ風のように密やかに通りすぎた。
重たい手の中の籠から漂ってくる香りに気がついて、そっと布の中を覗くと、中には簡単な食事が入っていた。誓約が帰ってくる前に食べるようにと書かれた紙切れも一緒だ。
涎が溢れる前に、秩序様にお礼を言おうと振り向いたマヌだったが、藍色は既に見えなくなっていた。もう一度整った字で書かれたメモを見て、次に渡り廊下に友人の姿を見とめて、慌てて誓約の部屋へ繋がる建物に駆け込んだ。