序章
地下は日の光が入らなくて暗い。風通しも悪いし、壁からじわじわと染み出す水がそれに追い討ちをかけている。そんな居心地が最悪の場所で、マヌの友人は働いている。
昔はこの深い場所で、石炭を掘ってお金を稼いでいた時代もあったけどそれも今は昔。地盤沈下の恐れがあるから埋めることになったのだ。と、ここまではマヌが知っている知識。
崩落事故なんかが起きたりすると、一気に海水が流れ込んで作業している方はただじゃすまない。埋めるくらいなら最初から掘るな。と、ここまでは友人の話だ。絶えず壁から染み出してくる水を掻きだすのも大事な仕事だそうだ。
作業場の入口には見張りの人がいて、労働者以外の人間はよっぽどのことがない限り入れない。
その少し手前で待っていると、下から布ずれの音が近付いてきた。
「マヌ!」
泥だらけの服を纏った少年が、マヌに駆け寄った。危険がつき物の現場で着る服は厚く、それに泥まじりの海水がしみこんでごわごわとしている。
見張りの大人二人が嫌そうな顔で二人を見たが、マヌも親友のラクもそんなことはもう気にしなくなった。そろって階段を登って地上を目指す。
「今日は早かったな」
すぐに裏庭に出た。マヌは深部にはいけないから、待ち合わせの場所から上ってくるのもすぐだ。マヌは芝生に座り、ラクは潮風に当たって体を乾かした。地下以外で二人が自由に話せる場所はここしかない。本当はマヌが地下にいくのもあまりいい顔はされていないし、ラクが裏庭に来るのは勿論だ。裏庭は、上から下へ行くためのものであって、下から上に来るなんて想定していない。
「また誓約様に捕まってさ。いつもの二倍気疲れしたよ」
マヌは大袈裟に溜息をついた。いっそ次の開門の時に帰ってしまおうか、と投げ遣りな気分になる。その隣にラクが飛び込む。硬い葉の芝生の上に寝転がるなんてマヌには信じられないけれど、確かに地下の岩や石に身を投げ出すことを考えれば柔らかいのかもしれない。
と、マヌは慌てて自分を叱り付けた。駄目だ。そういう事を考えちゃいけない。友達はそういってバカにしちゃいけない。ラクは親友だから。そう、親友だ。
マヌは一人で納得してうんうんと頷いた。
その首を後ろにそらせて、どこの窓も開いていなくて誰も見ていない事を確めた。
「上も大変だなー。俺そういうの絶対無理」
ラクは屈託なく笑った。マヌの知り合いはもうしなくなった笑いだ。つられてマヌも笑った。
マヌの制服に滴った水滴はもう乾いていたけれど、ラクの服はまだ深い色のままだった。それでも所々乾いて白っぽい色になっている。今は染み込んだ泥の色に染まっているけれど、元の色はマヌと同じ薄い青。浅葱色だったはずだ。
柵の向こうには果てしない水平線があって、そこに太陽が少しずつ近付いていく。
この場所はとても狭いんだ、という話をいつかした事があった。書物で学び知っていることではあるけれど、あの太陽が沈むその先にマヌが知るよりももっと大きい大陸があるなんていわれても、実感がわかない。
寧ろラクの方が、世界の広さというものを知っているように見えた。
上に行きたい。とラクはよく言う。
いいところじゃないよ。とマヌは返す。
マヌは正式な学徒としてここに籍を置いていて、ラクは大勢いる労働者の一人だ。一緒にいても身分は違う。
厳格な規律と最高峰の知識を誇る、海に浮かぶ島。
カトル・ウィン・サクレ。
それはその建物をさすと同時に島そのものを示す名称だった。