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第六話 牙城クスコ(8)

ひとまずは大人しくなったアパサが、再び本拠地のラ・プラタ副王領に兵を率いて戻っていくと、早速、トゥパク・アマルは側近たちと会合をもった。

ディエゴを筆頭に、参謀オルティゴーサ、アンドレス、ビルカパサ、ベルムデスなどのかねてからの側近たちの他、最近ではロレンソもトゥパク・アマルの信任を受け、側近の一人として加わるようになっていた。


しかしながら、今、それらの面々の中に、フランシスコの姿はない。

もちろん、これまでと変わらず、トゥパク・アマルは重要な側近の一人としてフランシスコにも会合への出席を求めていたが、当のフランシスコ自身は体調不良を理由に己の天幕に引き篭ってしまっていた。


今回もフランシスコの姿が見えないことに、トゥパク・アマルは悲しげに目を細める。

戦闘の心理的な後遺症が緩和するまで戦場に出てはならぬとフランシスコに伝えたあの時、自分の言い方がまずかったのかもしれぬ、言葉が足りなかったのではないか。

彼は心の中で小さく溜息をついた。


そして、アンドレスもまた、最近、フランシスコの姿をめっきり見かけぬことを気にかけていた。

彼の脳裏に、サンガララの決戦が終わった夜、二人で話した時の光景が甦る。

あの時、あまりに残虐な戦闘による心理的な衝撃によって身体症状を呈したフランシスコが、その苦しい息の下で自分だけにそっと打ち明けたあの言葉…。


『今日、あの戦場で、わたしは、自分が生き残るのに必死だった。

…わたしは、ただひたすら逃げ続けたのだよ。

あの酷い戦闘のどさくさに、味方の中に身を潜ませ、敵の刃を逃れて、必死に…。

そう…味方さえ、盾にしたさ。

そうでもしなければ、わたしは今頃、死んでいた。

そして、やっとのことで生き延びた。

…本当に怖かったのだ。

怖くて、怖くて…その挙句が、このざまだ』


(フランシスコ殿…)


アンドレスの目が思いつめた色になる。


(あのサンガララの戦いの後、クスコ戦でも戦場に出ていらしたけれど、かなりご無理をされていたのではあるまいか)


フランシスコの繊細な一面を己の一面とも重ね合わせて見ているアンドレスにとって、フランシスコの心痛は他人事とは思えなかった。

そして、さらに、あの同じ晩の、フランシスコの言葉を思い出す。


『アンドレス、そなたは勇敢で、心根も、姿も、美しい。

トゥパク・アマル様の覚えもめでたい。

実に、羨ましいよ』


今、あの時の言葉を想起するアンドレスの眼差しは、いっそう思いつめたように苦渋に歪む。


(フランシスコ殿…何故、あのようなことを仰ったのか…。

トゥパク・アマル様が今でもあなた様をどれほど大切に思われているか、誰が見ても明らかなのに)


アンドレスには、あの時の言葉以上に、それを語った時のフランシスコの表情が、今も生々しく脳裏に焼きついて離れなかった。

その苦しげな言葉とは裏腹に、底知れぬ異様な、背筋を凍らすほどの色味を帯びたあの時のフランシスコの微笑みは、あの時はあまりにも不可解で、アンドレスを深い混迷に陥れた。


(でも…)と、アンドレスは、今、苦しげにその瞳を揺らす。


(今思うと、あの時、それほどまでに、フランシスコ殿はひどく追い詰められた心境になっていたのではあるまいか…)


アンドレスの脳裏に、もはや止められぬままに、あの晩のフランシスコの言葉が走馬灯のように巡り続ける。


『トゥパク・アマル様には、全く、ご迷惑ばかりおかけしてしまって、わたしは身の置き所のない心境なのだよ』


『トゥパク・アマル様は、表面にお気持ちは表さぬお方だ。

ご本心では、何を考えているかなぞ、わかるまい。

それに、他の側近の者たちがどう思っていることか…。

皆、口には出さぬだけで、きっと心の中では、わたしを責め、苛立っているに違いあるまい』


『わたしは、キキハナの代官を逃してしまった汚名を注ぎたくて、今回のサンガララでは力を奮いたかった。

だが、実際には、あの恐ろしい戦場でわたしは身がすくんでしまったのだよ。

わたしは、あの戦場で逃げ続けた。

ふふ…そんなことは、トゥパク・アマル様には言えないが…』


(フランシスコ殿…――!!)


アンドレスの中に、今更のように強く案ずる念が突き上げた。


(あの時、俺は、フランシスコ殿の様子がおかしいと気付いていながら、あの晩以来、心のどこかであのお方のことを遠ざけてしまっていたのかもしれない。

もっと…、もっと、しっかりとフランシスコ殿のお気持ちに寄り添うことをしていれば――!!)


彼の中に自責の念が渦巻いていく。

アンドレスは、いつもフランシスコが座していたディエゴの隣のあたりに目をやった。

今は空席になっているその場所に、ふと気付くと、トゥパク・アマルもまた、周囲に気付かれぬよう僅かにうつむき加減になりながら、その場所にじっと視線を注いでいた。

アンドレスは、ハッとしてトゥパク・アマルを見る。

トゥパク・アマルもアンドレスの様子に気付いており、二人の目が真っ直ぐ合った。


(アンドレス、そなたも、フランシスコ殿のことを気にかけてくれているのだね)


トゥパク・アマルの目が無言で語っている。

それから、アンドレスの目の中で、トゥパク・アマルは静かに微笑んだ。

周囲からはいつもと変わらぬ微笑みと取れたかもしれぬが、アンドレスには、それに宿る寂しげな感情をはっきりと読み取ることができた。

彼の胸は、いっそうの自責と切なさで苦しくなる。


(フランシスコ殿、あなたは、このように大切に思われているのに…!!)


そんなことを思っていると、まもなく、武人らしい表情に切り替わったトゥパク・アマルの、いつも通りの感情を統制した声が聞こえてきた。


「あのリマの褐色兵の将、フィゲロア殿と早急に話をつけねばならぬ」


一同も頷きはするが、「しかし、いかにして」とディエゴが皆の内面の声を代弁するかのごとくに問う。


「わたしが直接、これからフィゲロア殿のもとに行き、彼と1対1で話をして参る」


「え?!

トゥパク・アマル様、今、何と?!」


側近たちが、どよめき、騒然となった。

アンドレスも目を見張って、「そんな無茶な…!」と、思わず小さく叫ぶ。


「トゥパク・アマル様の仰ることの意味が、よくしかねるのですが…」


険しく、しかし、やや混乱した表情で再びディエゴが問う。

トゥパク・アマルは側近たち一人一人に頷き返すようにして全体をゆっくりと見渡しながら、包み込むようなあの眼差しで微笑んだ。

それだけで声に出さずとも、案ずるな、と、側近たちの心に響いていく。

天幕に静けさが戻ると、トゥパク・アマルは改めて、決意を秘めたゆるぎなき声で再び言った。


「これから、日が落ち次第、わたしはクスコのフィゲロア殿の屋敷に行ってくる。

そして、彼と1対1で話をして参る」


再び、どよめきかける側近たちを、トゥパク・アマルはそのしなやかな褐色の手をさっと翻し、鋭く制する。

瞬時に、周囲は水を打ったように静まった。

トゥパク・アマルの目がにわかに遠くを見る眼差しに変わる。

彼の脳裏に、あのクスコ戦で、直近で見た際のフィゲロアの目の色が甦る。

その目は、非常に凛として、そして、極めて純粋であり、とても真っ直ぐなものだった。


「案ずるな。

大丈夫だ」


トゥパク・アマルのその声は、全くの沈着で、絶対的な自信に満ちていた。

結果、側近たちの表情にも、徐々に落ち着きが戻ってくる。

トゥパク・アマルは、アンドレスの朋友、ロレンソの方にゆっくり視線を向けた。

不意に目が合い、ロレンソが瞬時に恭しく深い礼をする。

トゥパク・アマルも礼を払う。


「ロレンソ殿、そなたはクスコの地の出身であったね」


「はい!!」


ロレンソが力強く応える。

トゥパク・アマルは頷き、「クスコに放った斥候によって、フィゲロア殿の屋敷は既に掴めている。クスコの城門を通らずに、街の中心部まで行く抜け道を知ってはいまいか」と問う。

ロレンソはしっかりと頷き、「幾つかのルートがございます」と自信をもって応える。

「それはありがたい」と、トゥパク・アマルは目を細めた。


「それでは、ロレンソ殿、そなたに案内をしてもらい、二人で早速でかけよう」


そのトゥパク・アマルの言葉に、周囲は今度こそ本当に騒然となった。


「暫し、待たれよ!!

二人で行かれるとは、いかなることです?!」


やはりトゥパク・アマルに正面切って常に切り込む役割は、さすがにトゥパク・アマルの右腕ディエゴであった。


「案ずるなと言うのに…」


トゥパク・アマルは少々肩をすくめて、小さく息をついて、それからニコリと微笑んだ。


「クスコに潜入するには、わたしであることを決して敵に悟られぬように行かねばなるまい。

大勢で行けば、もう、それだけで怪しまれるであろう」


「トゥパク・アマル様であると知られぬように…?!」


一同が息を呑み、しかし、どこか少々合点がいったような顔に変わる。

その表情に応えるように、トゥパク・アマルは再び全員に行き渡るように丁寧に目配りをして、「姿も変えていかねばなるまいね」と、そして、「どのような姿なら、わたしだとバレずにすむだろうね」と、呟いた。

その声と表情は、いたずらを考えている少年のような色さえ帯びている。

側近たちは、驚き、唖然としつつも、もはやトゥパク・アマルを止められぬことを悟って、且つ、実際、他の方法も考えつかぬため、深く溜息をつきながらも同意するしかなかった。


しかし、ディエゴだけは最後まで、「何という無謀なことをお考えになるのだ。そのお命、我々インカの存亡を左右するほどに重要なものだというのに…。それを、それほどの危険に晒すとは…」と、苦渋に満ち満ちた表情で半ば睨みつけるがごとくの気迫でトゥパク・アマルを見据えていた。

そして、さらには「トゥパク・アマル様のお考えには、もはやついていけぬ時がある。全軍を率いる将として、いかなるものかと思う時さえある…」と独り言のように言い放つと、あからさまに大きく溜息をついた。

かといって、他に妙案も浮かばず、彼もまた、腕を組んだまま黙るしかなかったのだが。


それから、側近たちは、クスコに潜入するトゥパク・アマルが彼であると決して敵に悟られぬために、いかなる変装をしたらよいかという、今まで練ってきた戦術のたぐいとは全く異質な難題に頭をひねらすことになった。

トゥパク・アマルの知恵袋でもある年配のインカ族の重臣、ベルムデスに皆の視線は集まった。

しかしながら、さすがのベルムデスも「う〜む…」と言って、顎にその褐色の骨ばった手を添えたまま首をひねっている。


皆、思いつくままに、「一民兵を装う」「いやいや、いっそのこと物乞いはどうだ」「おしろいを塗って白人になりすますとか…」など、一応アイデアを出してみるが、言うだけいっそう虚しくなっていく。

トゥパク・アマルも、やや前傾姿勢になったまま神妙な顔になって、「ううむ」と考え込んでいる。

各人がそれぞれにイメージを膨らますかのように、皆、改めてトゥパク・アマルの方を見た。

それから、誰彼とも無く「はあっ…」と、溜息をつく。

ついにアンドレスが観念したように、「恐れながら…」と、トゥパク・アマルの方にかしこまって言う。


「トゥパク・アマル様は、ええと、何と申しましょうか…――、ともかく、そのお姿というか、雰囲気というか…、何にしろ、もともと目立ちすぎるのです。

いえ、決して悪い意味ではないのですが。

ただ…、どのようなお姿になられても、恐らく、すぐ敵に分かられてしまいましょう」


「そうそう、そうなのです」と、他の側近一同もアンドレスに深く同意する。

その時、ずっと腕組みをしたままムスッと黙っていたディエゴが、不意に言い放った。


「いっそのこと、女人にょにんにでも扮して行かれたらどうです」


それは、もう、明らかにヤケッパチな口調であった。


「えっ?!」


側近たちがギョッと目を見張る。

トゥパク・アマルも、びっくりした目で、思わずディエゴを見た。

ディエゴは腕組みをしたまま、その大柄な体を反らして軽く横を向き、相変わらずムスッと不貞腐れた表情のままである。


「ディエゴ、そなた、相当怒っているのだな…」


さすがのトゥパク・アマルも、様子を伺うような声になる。


「あ!!

でも、それ、いいかもしれませんね!」


不意に明るい若者の声が響く。

トゥパク・アマルをはじめ、皆が再びギョッとして振り向いた先には、アンドレスの朗らかな笑顔があった。


「女装をすれば、さすがに敵方もトゥパク・アマル様だとは分かりかねるでしょう!

背は高すぎますけれど…、顔もお綺麗ですし、髪も長いし、その上、かぶり物か何かをなさいますれば、お姿も大分隠せましょう」


そう言うアンドレスの口元からは、彼なりにこらえようとしているのだろうけれど、どうにも止められぬ感じの楽し気な笑みがこぼれている。


「アンドレス…そなた…面白がっているな」


トゥパク・アマルが、じぃっと恨めし気な目でアンドレスを見た。


「いえいえ、そんな、まさか…!」と、必死のていで否定しながらも、アンドレスはどうにも勝手な想像を止められず、ついには笑いだしてしまった。

そんなアンドレスを前にして、いっそう恨めし気な眼差しになっているトゥパク・アマルの周りで、しかし、他の側近たちもそれぞれに想像を膨らませ、思わず吹き出してしまう。

あれほどムッとしていたディエゴすらも、顔を隠すようにしながらも、ついにこらえきれずに吹き出した。


「そなたたち…」


わななく声でそう言いながら、暫し、眉間に皺を寄せてじっと固まっていたトゥパク・アマルだったが、しかしながら、久しぶりに見る側近たちの明るい表情に、思わず彼自身の瞳の色も優しく変わっていく。

なかなか笑いを止められずに苦しそうな側近たちを見渡しながら、「全く、そなたたちは」と呟くトゥパク・アマルの眼差しは、まるで全員の保護者のごとくに深い包容力を宿した穏やかなものになっていた。


ひとしきり笑い終えた後、皆、ふうっと深く息をつく。

アンドレスは相変わらずあの輝くような笑顔を浮かべて、是非、そのアイデアを実行しましょう、と言わぬばかりの目でトゥパク・アマルを見上げている。

トゥパク・アマルはその眼差しにひるむように、さっと視線をそらした。

さすがに女装などとは、冗談だけにしてほしい!!――当然、トゥパク・アマルの心境はそれである。


しかしながら、「いやはや…、しかし、確かに、女装とは妙案かもしれませぬ」と、ついにあの賢者ベルムデスさえも言い出す始末だった。

「あなた様まで、そのようなことを…!」と、トゥパク・アマルが思わず気色ばむ。

「いえ、トゥパク・アマル様、わたしも賛成です。というか、他に、手段がありませぬ」と、ビルカパサさえ言い出す始末。


「ビルカパサ、そなたもか…!!」


もはやトゥパク・アマルの眼差しはひどく恨みがましい。

その目つきに、側近たちもにわかに我に返りはじめ、「しまった、やりすぎたか…」と、それぞれの心の中で冷やりとする。

トゥパク・アマルは眩暈を覚えたかのような足取りで、寝台の方にフラフラと歩いて行くと、そこに座り込んでしまった。

薄暗い天幕の隅で闇に紛れるようになってしまったトゥパク・アマルの様子を、側近たちが気まずい雰囲気で、暫し、見守る。


当のトゥパク・アマル本人は、少し集団と離れたその場所で、しかし、今、真剣な思考の状態に入っていた。

まるでふざけたような今しがたの一連のやり取りではあったが、あながち、的をはずれてはいないかもしれぬ、と、冷静な頭で振り返る。

実際、普通の変装では、いかなる身なりをしようとも、敵の目をくらませるとは思えなかった。

しかし、いくらなんでも女装などとは!!…――と、内心ではやはり大いなる抵抗を覚え、トゥパク・アマルは深く溜息をついた。


そんな彼の様子を、すっかり頭も冷えて、今や先刻の自分たちの態度を客観的に振り返ることの出来てしまっている側近たちは、少なからず緊張の混じった表情で見守り続ける。

トゥパク・アマルはゆっくりと顔を上げた。

そして、何か言おうとして、しかし、躊躇ためらうように一瞬うつむき、しかしながら、再び顔を上げると今度こそ思い切ったように言った。


「女装に扮して、クスコに参ることにする」




こうして、トゥパク・アマルは、スペイン兵の嫌疑の目を逃れてクスコ入りを敢行するために、ついに本当に女性の身なりに扮することになった。

トゥパク・アマルのこの陣営には、彼の館があるティンタ郡の本陣にて物資の補給に当たる、かのトゥパク・アマルの妻ミカエラから、あらゆる物資が滞りなく届けられていた。

インカ軍には多数の女性も参戦していたから、当然ながら、女性用の衣類もミカエラの手によって補給されていた。

今回、それらの衣類の中から適当なものを選ぶのは、やはりトゥパク・アマル自身である。

決して女装に積極的な気分ではなかったが、しかしながら、他の側近たちの中で、今回の目的に相応しい女性用の衣装を適当に見繕えるようなセンスの持ち主など殆ど思い当たらなかったのだ。


ところで、もともと戦場に届けられる物資に含まれるような衣類は、機動性重視の簡素なものばかりである。

目的に合った適当な種類の衣服を選びたいのは山々であったが、男性の中でも特に長身のトゥパク・アマルには、とりあえず己の身の丈に合うような女性用の衣類を見つけ出すことさえ非常に難儀であった。

もはや、己の身長に合うものであればどのようなものでも構わぬ、という心境になってくる。

トゥパク・アマルが眉間に深く皺を寄せながら、すっかり閉口した表情で女性用の衣類を掻き分けているのを、その物資を保管している天幕の入り口で警護に当たるビルカパサは心配そうに見守った。


(ああ…トゥパク・アマル様が、あのようなことを…!

しかも、もう、随分長いこと、ああしておられるが。

やはり女装など、トゥパク・アマル様のお気持ちが乗らぬのであろうな…。

だから、いっそう適当なものがみつからぬのであろう)


先刻は、自分も女装を推奨するような発言をしてしまって、あれは非常にまずかったな…と、今、改めて、つくづく苦々しく感じてもいた。

しかし、一方では、「とはいえ、他の扮装では、トゥパク・アマル様だと明らかであるし…」と、ビルカパサの口元からも深い溜息が漏れた。

相変わらず女性用の衣類の山を掻き分け続けているトゥパク・アマルの姿を見ながら、ビルカパサは苦虫を噛み潰したような表情になる。


(しかし…いくら事情があるとはいえ、トゥパク・アマル様があのようなことを…あまり見たい光景ではなかった…)


ビルカパサはトゥパク・アマルの方から視線をはずし、再び溜息をつく。

それからだいぶ経ってから、トゥパク・アマルが深い紫色のビロード調の衣類を手に、やっとのことで天幕を出てきた。


「適当なものがございましたか?」


微妙な表情で問うビルカパサに、トゥパク・アマルも微妙な笑みを返す。


「従軍僧用の僧衣が混ざっていたので、それを持ってきた。

あれなら、ロングドレスのようにも見えるしね」


そして、やれやれと小さく溜息をついて言う。


「他のものでは、衣服の丈が全く足りないのだ」


「そうでしょうね…」


ビルカパサも納得して頷いた。

それから、トゥパク・アマルはビルカパサに視線を向けて、「そなたの姪御殿に、身だしなみを手助けしてもらおうかな」と、やや頼りなげに呟く。


「えっ!?

あのマルセラに、ですか…?!」


ビルカパサは、いっそう微妙な声色になる。

あの男性的なマルセラに、女性らしいセンスを期待するのはかなり無理があるのではないか、という思いがビルカパサの中をかすめていくが、藁にもすがる様子のトゥパク・アマルを見ていると、少なくとも自分よりはマルセラの方がまだマシか…、という気になっていく。

トゥパク・アマルとビルカパサと、どちらからともなく「はぁ…」と、またもや溜息がこぼれた。


「わかりました…。

マルセラをトゥパク・アマル様の天幕に遣わしましょう」


自信なさげにビルカパサが言う。

「そうしてくれると助かる」と応えるトゥパク・アマルも、何とも所在無げな様子であった。




こうして、女装に扮するのを助けるために、叔父であるビルカパサから声をかけられてトゥパク・アマルの天幕に向かったマルセラだが、彼女も全くもって苦虫を噛み潰したような表情である。


(ああ…もう、憂鬱〜…!!

私、こういうの、すっごく苦手なんだけどなぁ…。

叔父様ったら、わかってるハズなのに、なんで断ってくんなかったのかなぁ…、もう〜…)


既にゲンナリした表情のマルセラが当の天幕に近づくと、その入り口付近ではアンドレスやロレンソが心配そうな表情で、外側から天幕の様子を伺っている。

辺りは既に日が暮れかかっていた。


「アンドレス様に、ロレンソ殿!

トゥパク・アマル様は、クスコにこれから行かれるのですか?」


そんなふうに問いながら、憂鬱と戸惑いの混ざったような表情を見せているマルセラに、アンドレスたちが頷く。


「ああ、そのようだよ。

夜の方が人目につきにくいから、と。

トゥパク・アマル様だと決して分からぬようにお着替えになられたら、でかけるらしい」


「そう…なのですか。

にしたって、何という危険なことを…」


ぶつぶつと呟きながら、今は目前の任務に、アンドレスのこともロレンソのことも殆ど目に入らぬ風情のマルセラは、「入っていいのかしら?」と、天幕に足を踏み入れかけて問う。


「ああ…。

君が来たら通してほしいと、仰っていらしたよ」


そう応えるアンドレスに、マルセラは、相変わらず憂鬱そうな顔で問う。


「トゥパク・アマル様は、中で、もう、お着替えを…?」


アンドレスは微妙な表情で頷いた。


「ああ。

既に、お着替えになられているらしい…。

君には、仕上げを手伝ってほしいと言っておられたが」


「じゃ…あ、既に、女の人の恰好になってるの…かしら?

あのトゥパク・アマル様が…?」


「ああ…らしい…。

俺も、どんな恰好なのかまでは、詳しくは聞いてないけど…」


「…」


アンドレスとマルセラと、二人を見守るロレンソも、暫し、複雑な表情で視線を泳がせる。

想像しているだけの段階なら笑い話でも、実際に、あのトゥパク・アマルが女装となると、皆、真顔にならざるをえなかった。

あのトゥパク・アマル様が、まさか、本当に女装…――?


(いくら美麗なお人とはいえ、やっぱり…顔も、体つきも、男性的なタイプだし…)


三人とも、改めて、苦々しい表情になる。


(見たくないかも…――)


声に出さずとも、三人の心中は同じだった。

やがて、アンドレスがマルセラの心中を察するように躊躇ためらいがちに、しかし、やむなく促す。


「さあ、ともかく、マルセラ、はやく中へ…。

トゥパク・アマル様がお待ちだ」


「う…はい…」


アンドレスに促されるままに、覚悟を決めて、マルセラは天幕入り口の垂れ布をめくった。


「トゥパク・アマル様、マルセラです。

お着替えのお手伝いに参りました。

失礼いたします」


そう言いながら天幕に足を踏み入れたマルセラは、しかし、次の瞬間にはハッと己の目を見張った。

そのまま、天幕の少し奥にいるトゥパク・アマルの姿に釘付けられる。


足元まで隠れるほどの裾長の、深紫色をしたビロードの僧衣を纏ったトゥパク・アマルは、神聖で高貴な雰囲気に包まれ、まるでその背後には白く輝く光が放たれているかのごとくに、それはもう眩いばかりの神々しい美しさを発していた。

さらに、その僧衣にはゆったりとした幅広の純白の袖飾りがついており、その様子がまた、トゥパク・アマルの清冽とした雰囲気と優雅さをいっそう高めていた。


マルセラは無意識のうちに胸の前で両手を組み、祈りのポーズを取ってしまったほどだった。

濃い紫の衣服にかかる彼の絹のような漆黒の髪は、いつにも増して艶やかに輝き、女性のマルセラから見ても胸がドキドキするほどに妖艶な色味を放っている。

そして、その美しい長髪と深紫のしっとりとした衣装に包まれて、彼の精悍ながらも端正で繊細な顔立ちはいっそう引き立ち、ことさらに、深い憂いを秘めたその美しい切れ長の目元が見る者の目を無条件に惹きつけた。


マルセラは暫し言葉を失って、呆然と、トゥパク・アマルのその姿に目を奪われていた。

放心したように立ち尽くしているマルセラを、しなやかな手つきで手招きし、「さあ、こちらへ」とトゥパク・アマルがいざなう。

「は、はい」と答え、おずおずと天幕の奥に入るマルセラの心臓はいっそう速く打ちはじめる。

「どうだろうか。おかしくはないか?」と真剣な目で尋ねてくるトゥパク・アマルに、「はい。とてもよく似合っておられます」と、すっかり上擦った声で応える。

何やらとても硬くなっているマルセラの緊張をほぐすかのようにトゥパク・アマルは優しく微笑み、マルセラの前に数枚の美しい布を並べた。


「これらの布をベールのように被ろうと思うのだが、どれが良いと思う?」


トゥパク・アマルの問いかけに、マルセラはいっそう身を硬くした。


(うぅ…こういうの選ぶのって、本当に苦手なんだけど…)


マルセラの横顔を一筋の冷や汗が伝う。

そんなマルセラの様子に、トゥパク・アマルは彼女の内面を察したかのように、「本当に、こういうことは難しいね」と静かな声で言った。

それから、トゥパク・アマルはじっと数枚の布を眺め渡した後、優雅な手つきで自ら一枚の布を選び取った。

僧衣と同じような深い紫色の、艶やかな光沢を発する柔らかな布地である。

布の周囲には、金と銀の糸から成る細やかで上品な房飾りが施されている。


「これなど、いかがであろうか」


トゥパク・アマルの問いに、マルセラはひたすら深く頷く。

そして、「おつけしてみましょう。どうぞ、お屈みになってみてください」と言うマルセラの言葉に促されるように、トゥパク・アマルも頷き返して、すっと身を屈めた。

マルセラはその美しい布を慎重に手に取ると、「失礼いたします」と恭しい手つきでトゥパク・アマルの頭にフワリと被せた。

そして、頭から肩、そして背を覆うその布を丁寧に整え、胸のあたりもほどよく覆い隠すように調整していく。

その布はトゥパク・アマルの逞しい肩幅をも上手い具合に覆い隠し、もともと顔も小さく、長髪の彼は、女性にしてはかなり長身すぎるという点を除けば、十分、女性の姿に見えた。

その様子にマルセラは満足そうに頷き、いつもの少年のような闊達な笑顔になって瞳を輝かせた。


作業をはじめると、思いのほか、そのことに集中して生き生きとした眼差しになっているマルセラに、トゥパク・アマルは微かに目を細め、その一連の作業を委ねている。

さらに、マルセラは器用な手つきで、トゥパク・アマルの顔にかかる辺りの布を幾度か吟味するように開けたり狭めたりしながら、彼の美しい切れ長の目だけが覗くように慎重に調整した。

こうしてベールのように布を被ると、僧衣も女性の纏う上品なロングドレスさながらに見える。

マルセラは改めてトゥパク・アマルの全体像を見渡して、思わず吐息を漏らした。


今、トゥパク・アマルのいる辺りだけが、この現実世界から切り離されたかのように、まるで異次元の空気が漂っているように見える。

そこだけ天界の一部が切り取られて眼前に現われでてきたかのように、彼の周りが神々しく輝く純白な光に包まれ、そして、トゥパク・アマル自身は、まるで、かの中性的な輝きを放つ大天使ガブリエルの光臨のごとくであった。

なお、トゥパク・アマルの正式名は、「ホセ・ガブリエル・トゥパク・アマル」であるが、その名に戴く大天使ガブリエルは、まさしく、「復活の天使」「復讐の天使」「真理の天使」として知られる。

そして、その姿は、宗教画の中で、そのシンボルである百合の花と共に、あるいは、正義と真理を象徴する剣を持つ姿として描かれることが多い。


ともかくも、とてもうつつとは思えぬ眼前の光景に、マルセラが再び大きく吐息を漏らしていると、そろそろ準備のできたことを見計らって天幕に戻ってきた他の側近たちも、思わずそのトゥパク・アマルの姿に感嘆の溜息をついた。

暫し、皆、言葉も出ぬまま、それが同性のトゥパク・アマルであることを、一瞬、忘れて、眼前に立ち現われた「美女」に、うっとりと見惚れている。

そのような様子の側近たちに、「そんなに見るでない」と、静かながらも、少々照れくさそうな口調でトゥパク・アマルが言う。

トゥパク・アマルの、いつも通りの低く響くその声に、側近たちはハッと我に返ると、慌てて視線をそらし、思わず互いに咳払いをしたり、頭を掻いたりして、平静を装おうとする。


「それでは、今からクスコに行って参る」と、やはり、その姿とはかなり不釣合いな男性的な声に、皆、「恐れながら、お声は、そのままで大丈夫なのですか?」と、心配そうな顔になる。

「大丈夫だ。上手く誤魔化す」と微笑んで応えると、トゥパク・アマルはロレンソの方に穏やかな視線を向け、合図を送るかのように頷いた。

ベールの陰からチラリと覗く、女装のトゥパク・アマルの、その流れるような微笑みに、側近たちは、不覚にもドギマギとしてしまう。

そんな側近たちの誰もが、もはや、トゥパク・アマルを止めることのできぬことを悟っていた。


トゥパク・アマルの指示により既に平民の服装に扮したロレンソが、素早くトゥパク・アマルの前に跪き、「それでは、これよりクスコの市街地への抜け道をご案内仕ります」と恭しく頭を下げる。

「よろしく頼む」と、トゥパク・アマルは微笑みを返し、それから非常に強い不安を滲ませている側近一人一人の瞳に頷き返すようにしながら、「案ずるな、大丈夫だ」と、穏やかな、且つ、ゆるぎない声で言い残すと、ついにロレンソと共に天幕を後にした。

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