表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/50

第五話 サンガララの戦(9)

従軍医と共に、再び、負傷兵の治療場へと戻ったコイユールではあったが、今しがたの突然のアンドレスとの再開に、その心はすっかりここにあらずの状態になっていた。

三年以上前に会って以来、この反乱がはじまってからは、同じ陣営にいながらも彼女の前には全く姿を現さぬアンドレスの真意は、コイユールには推察することしかできなかった。

歳月が経ち、もはや自分のことなど忘れてしまったのか、あるいは、彼の立場や責任の重さ故に、安易な行動をとれぬためなのか…。


しかし、先ほどの、アンドレスの目の色は、そして、あの時の瞬間に覚えた感覚は、コイユールの心に熱い波紋を投げかけずにはいられなかった。

いや、アンドレスの真意は、結局は、今も、わかりはしない。

アンドレスの自分に対する感情がどうであるか、ということよりも、むしろ、コイユールは、己のアンドレスに対する感情の強さを、再び、真正面から突きつけられた思いに憑かれていたのだった。


アンドレスがインカ軍で重要な位置にあり、彼なりに懸命にその責を果たそうとしていることを認識していた彼女は、彼が存分に力を発揮できるように決して邪魔はすまいと、そして、自分も自分なりにインカのために精一杯のことをしていくのみだと、心を既に整理していたはずだった。

だというのに、偶然、アンドレスを間近に目にしただけで、これほどに心が動揺し、胸苦しいのは、どうしたことだろう…――!!


(私、本当は、アンドレスのこと…全然、気持ちの整理なんて、ついていないのでは?)

自問自答しながら、無意識に深い溜息が漏れる。

ふと気付くと、すっかり上の空になっていた自分の手は、全く誤った薬草の配合をしているではないか。


(いけない…しっかりしないと!!)

すっかり慌てて薬草を配合し直しているコイユールに、やはり負傷兵の看護に当たるインカ族の女性が、心配そうに視線を向けた。


「コイユール、少し休んだ方がいいわ。

ここは、私が見ているから、ね」

と、優しい笑顔で促してくれる。


コイユールは申し訳なさそうに瞳を揺らしたが、しかし、とても仕事が手につく状態でないのは、自分が一番よくわかっていた。

「ありがとう…。

それじゃ、ちょっと…外の空気でも吸ってこようかしら」

「行ってらっしゃい」

再び相手の優しい笑顔に背中を押され、コイユールも微笑み返し、「それじゃ…」と、治療場を出ていった。


治療場を出ると、既に、雪のやんだ夜の野営場のそこかしこからは、兵たちが炊き出しをしているのだろう、煮炊きされた食物のにおいが漂ってくる。

そんな空気の中を歩んでいると、ふと、祖母のいる故郷が無性に懐かしく思い起こされてきた。

「お婆ちゃん…どうしているかしら…」


しかし、たちまち故郷の連想の中から祖母の姿は消えゆき、やはり、そこに現われでてくるのは、まだ少年だった懐かしくも愛しいアンドレスの姿ばかりであった。

いっそう切ない思いで胸が締めつけられる。


コイユールは、記憶を吹き飛ばすように、思い切り頭を振った。

そして、険しい目で前方を見据えながら、意識的にアンドレスのことは考えまいとしながら、当ても無くただ野営地を歩みはじめた。


力無く歩むコイユールの足は、結局は向かう場所など無く、いつの間にか自分の属するビルカパサの連隊が天幕を張る界隈へと戻ってきていた。

そのまま所在無く歩いていると、5〜6名の馴染みの兵たちが天幕の片隅で円陣を組み、笑顔になったり、時に深刻な表情になったりしながら、談笑している様子が目に入る。


コイユールも、ふらりと、そちらの集団の方に足が向く。

その円陣の中心に陣取っているのは相変わらずあの黒人青年ジェロニモで、彼はやや興奮気味になりながら、周囲の兵たちに何やら夢中で説明している。


「それが、ホントに、すごかったのサ!!

いや…いつも、全く、驚くばかりなんだけどね。

だけど、今日は特に凄まじかった!!

馬に乗ったり、下りたりしながらサ、蒼く光るようなサーベルを振り翳し、次々と敵をなぎ倒していくんだ。

いや…本当に、人間ワザとは思えない…ちょっと、あれを間近で見たら、ゾッとするくらい…だぜ、全く…!!」


恍惚とした表情で身振りを交えて語るジェロニモを、周りの兵たちも顔を輝かせながら、あるいは、やや慄きの眼差しで、固唾を呑んで聞いている。

「いやあ、ジェロニモの話を聞くと、俺も見てみたいって、いつも思うんだけどな…。

だがなあ…、実際、あの戦場じゃあ、とてもそんな…見てる余裕なんてないねえ、俺には」

周りで聞いていた男たちが、溜息混じりに言う。


ジェロニモも頷き、そして、相変わらず興奮を滲ませた声で言う。

「ああ、俺もはじめはそうだった。

だけど、あの姿を見ると、なんだか勇気が湧くっていうか、やる気になるんだ!!

だから、つい、探して見ちまうのサ!!」

周囲の男たちが、再び、眩しそうな眼差しで頷き返す。


一方、ジェロニモは、やや声のトーンを落として、深刻な表情になった。

「だけど…いつも、最前線に立って、あんなに派手に振舞っていちゃあ、幾ら命があっても、足りないっても思うぜ。

まあ…余計なお世話には違いないが、心配になる時もある。

何でもありの戦場じゃあ、目立つ奴ほど狙われるのが常だ。

ましてや、あたりには、鉄砲の弾がガンガン飛んでるんだし、ナ。

まだお若いのに、難儀に思えてしまことさえある…。

あのおかたが命を落とされるなんてことになったら、それは勿体無いって…、はは…いや、余計なお世話だろうけど、つい、思っちまうんだよナ」


「そ…それって、誰のこと…?」

「――え?!」

不意に背後から女性の声がして、ジェロニモや他の兵たちが振り返った先には、いつの間にそこにいたのか、コイユールの立ち(すくむ姿があった。


「なんだ、驚いた!コイユールか。戻ったの?」と、声をかけるジェロニモの視線の先で、しかし、コイユールは完全に顔色を無くし、強張った表情でこちらを凝視している。

そのただならぬ様子は、ジェロニモのみならず、そこにいた他の兵たちにもハッキリとわかるほどで、皆、驚いたように互いに目配せし合う。


一方、当のコイユールはそんな周囲の様子など全く目に入らぬ様子で、「今、話していた人って、誰のこと?!まさか…!!」と、殆ど睨みつけるがごとくの険しい目になってジェロニモに詰め寄った。

やや訝しげな目になりながらも、ジェロニモがありのままに応える。


「ああ、今のは、アンドレス様のことだよ。

コイユールは知らないかもしれないが、インカ軍の最年少の連隊長さ」

「アンドレス!!…やっぱり…!!」


「『アンドレス』…?!」

いきなりコイユールが連隊長の一人を呼び捨てにしたのには、周りの方が驚いて目を見張る。

「あ…いえ…アンドレス…様…」


さすがに冷ややかに注がれる周りの空気に我に返ったコイユールが訂正するものの、皆、興ざめした表情になると、「そろそろ寝るか…」と、その場を立ち去りはじめる。

「あ…ああ、おやすみ!」


そう皆に返事を送るジェロニモの、そのすぐ脇までコイユールは再び詰め寄った。

「もっと詳しく教えて、ジェロニモ。

アンドレス様の戦場でのご様子は…?!

そんなに危ないことをしているの?!」


睨んでいるのか、泣きそうなのか分らぬ表情でしつこく詰めてくるコイユールに、ジェロニモは、ますます不審の表情になる。

「今、話した通りサ。

俺が見たのは、それだけだ。

それより、何なんだ?

コイユール、まさか、アンドレス様と知り合いか何か?

そういやあ、君はマルセラ様とも知り合いだったし、ナ」


やや皮相なジェロニモの目つきと口調に、コイユールは言葉を呑む。

言葉に詰まったように固まってしまったコイユールに、ジェロニモは真正面から向き直った。

「そうなのか、コイユール?!

まさか…本当に、アンドレス様と知り合いなのか?!」

「いえ…まさか、そんな…」

「それじゃあ、ナゼ、そんなに気にする?」


口ごもるコイユールに、今度は逆にジェロニモが詰めた。

「今更、隠し事なんて、水臭いナ」

「それは…。

ただ、知りたくて…」

下を向いてしまったコイユールに、ジェロニモはじっと視線を注ぐ。

コイユールの握り締めた華奢な指が、明らかに震えている。


ジェロニモは一つ深く溜息をつくと、いつもの落ち着いた声に戻って言った。

「アンドレス様の敵を倒す腕はスゴイよ。

俺には、人間ワザとは思えない。

だけど、最前線で、あんなことを続けていたら…命の保障はできないだろう。

それだけは、言える」


再び顔を上げて愕然とした表情で喰い入るように己を見据えるコイユールの目の色を確かめると、ジェロニモは真顔で「やっぱり、そうか…知り合いなのか…」と、独り言のように呟く。

そして、さっと視線をそらすと、全てを吹き飛ばすように大きく伸びをした。

「ああ〜!!

それにしても、今日は良く戦ったナぁ」


そう言って己の天幕の方に向き直り、去りかけて、もう一度、ジェロニモが振り返る。

「アンドレス様には、立派な馬も、恐ろしく良く切れるサーベルもある。

それに比べて、俺たち義勇兵は、斧や棍棒がせいぜいだ。

…――こっちだって、死ぬか生きるかの瀬戸際なんだぜ」


その口調は、本人も驚くほどに深刻だった。

コイユールは胸を突かれたように、固まったまま、完全に動けなくなっている。


一方、そこまで言ってしまってから、ジェロニモは急に我に返ったように慌てた表情になると、コイユールに再び向き直った。

そして、今しがたの自分の発言を打ち消すように、いつもの冗談めかした笑顔をつくる。

「…ったくぅ、コイユールが、あんまり深刻な顔してるから、俺にまで移ったじゃないかぁ!

ホラホラ、コイユール、なんだかよくわかんないけど、元気だせって!!

なんなら、また、ここで一緒に踊る?」


「ジェロニモ…」

コイユールも懸命に笑顔をつくろうとするが、顔の筋肉が固まってしまったように動かない。


そんな彼女から視線をはずしたジェロニモの横顔には、ふと寂しげな色がよぎる。

「事情は知らないケドさ、それにしたって…、あ〜あ、コイユールも、やっぱアンドレス様かぁ…。

ちぇっ、やっぱ、カッコイイもんナ〜!!」

愕然とした目の色のコイユールに、「ああ!!もう、冗談だって!!そこで突っ込んでくれないと〜!」と、ジェロニモは笑顔をつくるが、彼のその表情もどこかいつもと違って無理がある。


そして、ついに観念したように、ポツリと言う。

「本当はサ、少しは、喜んでほしかったナ…こうして、俺が生きて戻ったこと」


(あ…それは…もちろん…――!!)

コイユールが声にならない言葉を必死に搾り出そうとしている間に、ジェロニモはふっと溜息をつくと、「おやすみ」と小さく笑って自分の寝所に向かって足早に去っていった。

後には、さらに胸を突かれたような表情のコイユールだけが残された。




その夜、アンドレスとコイユールは、野営場のそれぞれ別の場所から、同じ月を見ていた。

先ほどまで降りしきっていた雪も、まるで嘘のように、今、空は澄み渡り、初夏の星座が輝いている。

標高の高いアンデスの地では、手に届くほどの近さに、無数の星々を感じることができる。

コイユールは治療場へ戻る足が止まったまま、震えるような瞳で、白々とした光を地に注ぎ続ける月を、そして、星々を見つめていた。


先刻のジェロニモとのやり取り、そして、トゥパク・アマルの側近たちの負傷の姿、次々と治療場へ運び込まれる負傷兵たちの悲惨な状態が、生々しく脳裏に飛来しては、嘔気を伴うほどの激しく不穏な感情を巻き起こした。

彼女は、ついに、草の上に小さく胃液を吐いてしまうほどだった。


(アンドレス…もし…今日…その身に何か起こっていたとしたら…、あるいは、この先、万一、命を…失うようなことになったら…――!!)

コイユールは、再び、草の上にうつ伏して吐いた。


(もし、アンドレスがいなくなったら…この世界からいなくなったら…?!)

足元の地面が崩れていくような錯覚に襲われる。


コイユールはひどく思いつめた目で、朦朧としながらも立ち上がった。

すぐさまアンドレスのもとに走り、もう戦うのをやめてほしいと訴えなければいけない!

少なくとも、前線で先陣切って戦うなどという危険きわまりない行為は、すぐにもやめさせなければいけない!!

彼女は、本気でそう思った。

本当に、自分の足に力が入っているのがわかる。


しかし、次の瞬間には、彼女は再び草の上に崩れるようにしゃがみこんだ。

再び、嘔気が突き上げる。

(そんなことできるわけがない…!)

アンドレスとて危険を承知の上で、己の意志で、命を懸けてやっていることなのだ。

インカの民の復権という、この二百年以上の間、この地の人々がずっと切望してきたその崇高な目的のために、全身全霊を懸けているのだから。


(でも、死んでほしくない、アンドレスに死んでほしくない…――!!)

コイユールは混乱した頭を両手で抱えこむようにして、震えながら草の上にうずくまった。




そして、アンドレスもまた、人気ひとけの無い、いつもの素振りの練習場所で、粛々と白く輝く月を見上げていた。

あの修羅場のような戦闘が数時間前には展開していたなどまるで信じられぬほどに、美しく清らかな初夏の星たちが煌いている。

手の中にあるサーベルも、先ほど慎重に血糊を拭き取ったために、今は何事もなかったように月明かりを反射して濡れたように輝いている。


しかし、彼には、いつもと変わらぬ風情で清い光を放つそのサーベルが、どこかひどく白々しく思われた。

あれほど残虐に次々と人を切り刻み、唯一つの命を奪い去り、獰猛な魔物のごとくに、おびただしい生き血を吸ったくせに――!!


まるで汚れたものを振り払うかのように、アンドレスは思わずサーベルを地に放り出した。

そのサーベルを握って素振りをする気などには到底なれず、彼は皮相な気分で足元の地面に目を落とした。


本当に、これで正しい方向に進んでいるのだろうか。

己の為していることは、これで正しいのだろうか?

思わず両手で頭を押さえこむ。


熱くなった頭の中で、戦場の血みどろの情景が渦巻くように甦る。

己の刃にかかって死んでいく人々の悲痛なあの表情、あの絶叫、命あるものが息絶えていく瞬間、血の生臭いにおい…己の手で残虐な苦痛を与え、絶命させた無数の命――アンドレスもまた、突き上げる嘔気にさいなまれて、その場にうずくまった。


背筋に、ひどい悪寒が走る。

急速に体温が下がるのを感じ、彼は思わず両肩を腕で押さえた。


「コイユール…」

朦朧とした意識の中で、擦れた声でその名を呼ぶ。


俺のやっていることは、正しいか?

コイユール…俺のやっていることは正しいか?

教えてほしい、コイユール、君に…――。


「会いたい……」


殆ど声にならぬ声で小さく呟き、アンドレスもまた、身を震わせるようにして草の上にうずくまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ