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第五話 サンガララの戦(7)

結果は、インカ軍の圧倒的勝利であった。

しかしながら、その戦闘後の惨状は、どちらの軍にとっても筆舌に尽くし難いものであった。

スペイン側の討伐隊は、ほぼ全滅だった。

汚名を注ぐべく参戦していたキキハナの代官カブレラも、一旦はクスコに持ち越したその命を、このサンガララの地でついに落とした。


そして、インカ側にも多数の負傷者、そして、死者が出た。

戦場となった広場は、降り積もった雪の上に累々(るいるい)と横たわる死体の流す血で、殆ど白い部分が見えぬほどに真紅に染まっていた。


今、雪は既にやんでいる。

インカ軍の多くの兵は生き残ってはいたが、皆、その手足に、顔に、髪に、服に、ベッタリと返り血を浴びて、呆然とその惨憺たる情景を見やっていた。


次第に日が高くなるにつれ、辺りに生臭い血の臭いが立ち込める。

まさしく、そこは地獄絵さながらであった。


トゥパク・アマルもまた、返り血で全身を染め上げたまま、その背筋も凍るような情景を眺めやった。

愛馬の純白なはずの肢体も、大量の血を浴びて、赤黒く染まっている。

トゥパク・アマルは愛馬の傍に立ち、その馬の体にそっと触れた。

その指が、微かに震えている。


彼は、愛馬の胸元に額を押し当て、じっと瞼を閉じた。

このような惨憺たる眺めを創り出したのは、一体、誰だ…――。

己自身であろう、と、彼の心の奥から非難めいた声がする。

馬はトゥパク・アマルの心の内を察するかのように、その鼻先で、血糊のこびりついた主人の髪に静かに触れた。


そして、また、心の激しい苦悶に喘いでいたのは、トゥパク・アマルだけではなかった。

生き残ったインカ軍の兵たちは、皆、自分の為した所業に、今更のように恐れ慄いていた。

らねば、殺られるという究極の状況で、しかも、相手が銃を持っているという極度の恐怖感は、彼らを計り知れぬほどに狂暴にさせた。


今、我に返って、己の為したことを思うと、自らぞっとせずにはいられない。

多くの場合、一人のスペイン兵に対して、多数のインカ兵が鈍器を手に襲いかかり、一斉に殴り殺したのである。


そして、かのアンドレスも、頭のてっぺんからつま先まで血みどろになったまま、虚ろな目で屍の中に佇んでいた。

常に自ら最前線に立って敵に向かい、味方の指揮を執りながらも自ら剣を振るう己は、今日、まるで殺人マシーンのごとく、果たして何十人の敵を切り殺したのか?!


彼は鞘に収めることさえ忘れたサーベルを、ぼんやりと眺めた。

血糊にまみれたそのサーベルは、まるで自分の意志を超えて、敵の血をしきりに求める魔物のごとくに今は見える。

人を切る時のあの感触、悲鳴、飛び散る血、臭い、倒れる音…――すべてが渦巻くようにアンドレスの脳裏を襲い、そのまま彼は崩れるように地に膝をついた。


たとえ敵とはいえ、たった一つしかもたぬその命を、その歴史ある人生を、たかが一人の小さな人間でしかない己のこの手が、幾多にも渡って奪い去ったのだ。

アンドレスは、今更のように、己の為した所業の恐れ多さに自ら圧倒され、深く打ちひしがれていた。

手足が痙攣するように、震えている。


そんなアンドレスの傍に、静かにディエゴが近づいていく。

そして、アンドレスの肩に手を置き、その心を察するように、彼もまた苦しげな眼差しで、己の息子にも等しいアンドレスを見つめた。

「アンドレス、これがいくさというものだ」


ディエゴの太く、深遠な声に、アンドレスは虚ろな視線をゆっくり上げる。

その瞳に、ディエゴは頷き返す。

これが我々の負ったごうなのだ、と、そんなふうにディエゴの目は言っていたかもしれない。

アンドレスは頷くことができぬまま、しかし、それでも何とか立ち上がった。


その時、彼の目の中に、遥かに聳えるアンデスの山々の姿がふと飛び込む。

山々はいつもと変わらぬ清冽な輝きを放ちながら、しかし、今日は、まるでその懐に全てを包み込もうとしているかのごとくに、その裾野を懸命に広げているかのように見える。

アンドレスは立ち止まり、心を奪われたようにその山々に見入った。


(アンデスの山々よ…ありがとう…)

彼は心の中で小さくそう呟くと、山々の気を己の中に取り入れるかのように、一度、深く息を吸い込んだ。

そして、一歩一歩、トゥパク・アマルらのいる本営へと戻っていった。




インカ軍の本営では、少なくとも表面上は、既に平常通りの様子で振舞うトゥパク・アマルの姿があった。

彼は早々に血糊のついた服を新しいものに着替え、手足や顔、髪にまでベッタリとついていた血痕を拭い落としていた。

傍目から彼だけを見たら、何事もなかったように人は思うかもしれない。


今、トゥパク・アマルの前には、生き残り、捕虜となったスペイン軍の兵たちが30名ほど引っ立てられてきていた。

いずれの兵も負傷しており、その目は呆然と宙を漂い、放心状態である。

あれだけ多くの兵がいたというのに、生き残った者たちはこれだけなのかと、トゥパク・アマルの心は再び、ひどくざわめく。

「全員、治療をさせて、自由に立ち退かせよ」

トゥパク・アマルの指示を受け、部下は恭しく礼を払い、捕虜と共に下がっていった。


下がった部下と入れ替わるように、他の部下が、最後の捕虜を連れてきた。

それは、討伐隊に所属していたスペイン人の従軍僧であった。

従軍僧は、もはや覚悟を決めた表情で、無言でトゥパク・アマルの前に立っている。

従軍僧なれば、釈放すれば、すぐさまクスコのモスコーソ司祭らの元に舞い戻るのは必定であった。

だが、トゥパク・アマルはやはり、「自由にこの地を立ち退かれよ」と静かに言って、従軍僧の釈放さえ命じ、自らは広場の教会の方に向かって本営を出た。


彼は教会の前まで来ると、入り口でまだ折り重なったままの数体の死体の前に跪き、長い黙礼を払った。

それから、部下に命じて、入り口の死体を丁寧に移動させ、血痕を片付けさせ、もと通りの状態に整えた。


教会の中では、そんなトゥパク・アマルの行動を呆然と見やりながら、完全に放心しているスペイン人の神父の姿があった。

トゥパク・アマルが神父に近づくと、その神父はやっと我に返ったように、しかし、同時に怯えきった眼で、おずおずとトゥパク・アマルを見上げた。


トゥパク・アマルは深く頭を下げ、神父に礼を払う。

神父は驚き、言葉を失ったまま、しかし、喰い入るようにトゥパク・アマルの方を見ていた。

トゥパク・アマルも真っ直ぐに視線を返した。

その目は、このスペイン人の神父にさえわかるほどに、ひどく苦渋に満ちている。


トゥパク・アマルは丁寧に包んで持参した分厚い紙幣の束を、神父の方に恭しい手つきで差し出した。

神父の顔に、大きな戸惑いの色が浮かび上がる。

トゥパク・アマルは、再び、神父の方に深く礼を払った。

「神父様、何卒、これで教会を修繕し、死者の弔いをお願いいたします」

ひどく驚いている神父に、トゥパク・アマルは「どうか」と言いながら神父の手にその包みを握らせ、再び、苦しそうに深々と頭を垂れた。

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