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第四話 皇帝光臨(8)

その晩、コイユールは先刻のマルセラとのやり取りにずっと心を占められたまま過ごしていた。

すっかり夜も更け、そろそろ多くの兵は天幕の中で就寝に入る頃である。

コイユールも、天幕の下でその身を横たえていた。


しかし、とても眠れる気分ではないし、静かに横たわっていると、かえって余計なことばかり考えてしまいそうだった。

今が、インカ軍にとって、いかに緊迫した状況下にあるのかを理性ではよく認識していた。

今は、心を一つに、インカの民の復権のために、心を一つに、そのことだけに心を集中しなければならないはずだ。

それなのに、今の自分の心は、一体、どこを向いてしまっているのだろう…!!


コイユールは横たわっていた身を、素早く起こした。

そして、そのまま天幕をそっと抜け出し、片付けを先ほど済ませたばかりの炊き出し場に向かった。

時々、インカ軍の警護の者が松明を片手に巡回しているくらいで、辺りはすっかり静かになっている。

彼女は炊き出し場の一隅に積まれているジャガイモの方へ向かい、それらを大きなカゴに入るだけ入れた。

どのみち、近いうちにしておかねばならぬ作業なのだ。


それは、この地域の保存食「チューニョ」をつくるために、ジャガイモを野ざらしにし、霜で凍結させる作業である。

実際、晩春の、まだ気温の低い夜のうちにやらねばならぬことだった。

どうせなら、眠れぬ今、やってしまおう。

幸い、今夜は冷え込みも厳しいし、作業にはうってつけの夜だった。

コイユールはカゴいっぱいに積み上げたジャガイモを炊事場から運び出すと、天幕が張り巡らされている界隈から離れ、訓練場の端の方にある空き地に向かった。


空き地の入り口付近で警護に当たる険しい目つきのインカ兵が、鋭い声でコイユールを呼び止めた。

「こんな夜中にどこに行く」

コイユールは重そうなジャガイモのカゴを抱えたまま、兵の方に頭を下げた。

「チューニョをつくるために、空き地の隅にジャガイモを野ざらしに行くだけです。

すぐに戻ります」

兵は、コイユールとジャガイモとを見交わして、「こんな夜中にせずとも」と訝しげな目をしてはいたが、「では、すぐに戻ってくるように」と、通してくれた。

コイユールは、もう一度、頭を下げてそこを通り抜けた。


空き地の隅に着くと、ジャガイモと一緒に持ってきたむしろを敷き、その上にジャガイモを丁寧に並べはじめた。

まだ冷え込みの強い季節のうちにこの作業を終えておくことで、貴重な保存食、チューニョを作ることができるのだった。

チューニョはアンデス地帯に古来から伝わる伝統的な保存食で、冷え込みの強い夜間のうちにジャガイモを野ざらしにして霜で凍結させ、その後、真昼の強い日差しで解凍させることを3〜4日繰り返し、最終的に、しっかりと足で踏みつけてよく脱水することによってできあがる加工食品である。


晴れた空に輝く月明かりがコイユールの手元を照らし、その作業の進行を助けてくれる。

黙々とジャガイモを並べているうち、心の平静が少し戻ってくる。

半分ほど並べ終えると、彼女は冷気に凍える手を軽くこすり合わせた。

そして、手元を照らしてくれる月に感謝するように、白い月を優しく見上げた。

手の平をそっと開くと、その中に月の静やかな白い光が満たされる。

その手の中の美しい光に見入る彼女の傍を、深夜の冷たい風が静かに吹き抜けていく。

まるで精霊でも現われてきそうな、幻想的な雰囲気の漂う夜の風景だった。


いっそう幻夢を誘う夜風が、周囲の草木をそっと揺らしていく音がする。

コイユールは、その優しい音に耳をすませた。

精霊の声が聞こえるかもしれない、そんな気持ちで。

そんな彼女の耳元に、風の音にしては、やや趣の異なる規則的な音が微かに響いてきた。

それは、何か、まるでくうを鋭く切るような音である。

その音の方向に視線を動かす。


空き地の少し先にある高台の一角で、美しい構えでサーベル片手に、一人、素振りの練習をしているのは――。

それは後姿ではあったが、コイユールには、すぐにそれが誰か分かった。

(アンドレス…!!)

コイユールの視線は、その姿に釘付けられた。


時が止まったように思える。

周囲には、本当に、二人以外は誰もいなかった。

しかも、少し大きな声で呼べば、十分に声が届く距離である。

コイユールの心臓は、早鐘のように激しく打ちはじめた。

手足が微かに震えてくる。


釘付けられたままの彼女の瞳の中で、アンドレスはこちらに背を向けたまま、幾度も、幾度も、ただ黙々と、一刀一刀に渾身の思いをこめるようにサーベルを振っていた。

素人の彼女の目にもわかるほどに、それは、本当に、力強くも美しい動きだった。

あの少年の日、アンドレスの瞳の中に燃えていた蒼い炎が、彼の全身から発せられているのを、コイユールは今、はっきりと感じ取ることができた。


コイユールは切なさと共に、否、それ以上に、何か感極まるものを感じて、胸が熱くなるのを覚えた。

彼女は揺れる恍惚とした瞳で暫しアンドレスの姿を見つめた後、そっと瞼を閉じて、その後ろ姿にむかって心の中で指を組んで祈りを送った。

インカの民の解放、その共通の願いが、あのまだ幼かった二人の心を結び合わせた懐かしい日々。


そして、今、その同じアンドレスは、それに相応しい一人の武人に成長して、あのインカ皇帝にも等しきトゥパク・アマルの信頼のもとで、確実に、かつての願いの実現を形にしつつあるのだ。

アンドレスが己の道を真っ直ぐに進んでいるように、自分も、自分なりにできることを精一杯するのみなのだ。

物理的な距離がどれほど遠くとも、傍で感じられなくとも、大事なことは、そんなことではないはず。


コイユールは、うっすらとこみあげた涙をつい泥のついた指先でぬぐってしまい、泥が顔についてしまうと、ちょっと慌てながら夜闇に感謝する。

それから彼女は、音を立てぬように注意深く残りの作業をすませてしまうために、再びジャガイモに視線を戻した。


一方、コイユールが作業に再び戻ると、アンドレスは気配を感じ取られぬように、そっとその動きを止めた。

気配を読み取ることにも既に長けているアンドレスにとって、眼下の空き地に人が入ってくれば、瞬時にそれは分かった。

当然ながら、偶然にも、それと気付かず自分の方向にやってくるコイユールの姿を、彼もまた、心臓が止まる思いで高台の上から見ていたはずである。


そして、ついにコイユールが自分に気付き、見つめるその視線を感じながら、しかし、アンドレスはその視線に応えることはできなかった。

彼は、コイユールがしたように、相手を真っ直ぐ見つめることもできぬまま、ただ後ろ姿のままで、しかし、彼女の気配だけはしっかりと感じ取りながら、ただ気付かぬふりをしてサーベルを振るしかなかったのだ。


今や、アンドレスは、コイユールを一人の女性として強く意識している己の心を、はっきりと自覚していた。

しかし、今の彼には、己の立場と、任務と、責任と、そして、己の心とのバランスを、一体どうとったらよいのかまるで分からなかったし、この状態でコイユールとひとたび身近に接したら、ギリギリに保っているバランスを崩してしまいそうで非常に怖くもあった。


今、こうしていてさえ、サーベルを握る指も、既におぼつかない。

そんな自分を感じると、アンドレスの心はいっそう落ち着かなく、ひどく不安になった。

彼はそのまま逃げ去るように、完全に己の気配を消したまま、決して振り向かずにその場を立ち去った。




その同じ頃、トゥパク・アマルもまた、一人、天幕を抜けて深夜の白い月を見ていた。

滑らかなその月の光は流れるように地に注ぎ、彼の漆黒の影を静かに引いていく。

真夜中の木立を吹きぬける冷風に揺られながら、さやさやと繊細な音を立てる木の葉にも、月明かりが濡れたように反射している。

彼の長い黒髪が、風の中に溶け込むように静かに舞っている。


辺りは実に幻想的な眺めだった。

戦乱の足音が着実に近づいているというのに、この静けさは何だろう。

いずれが夢かうつつか分からなくなりそうだ。

嵐の前の静けさ、さしずめ、そのようなところであろう。


トゥパク・アマルの思念に呼応するがごとく、突如、静けさを破って甲高い声を発し、一羽の黒い鳥が茂みの中から上空射して飛び去った。

彼は飛び去る鳥の黒い影を目で追った。

黒い影は、深い藍色をした夜の天空に吸い込まれるように消えていく。

それは、かのインカ帝国の旧都――クスコがある方角だった。


トゥパク・アマルは、直観した。

クスコに、反乱の情報が伝わったに相違ない。


再び険しい目つきのまま上空を見つめる彼の全身に、追い討ちをかけるがごとく、一陣の強風が吹きつける。

彼の纏う黒いマントが、巨大な漆黒の翼のように、バサリと音を響かせながら大きく風の中に翻った。


いよいよ戦闘の真の幕開けだ…――!!

月明かりをその美しい目元に反射させながら、強い決意を秘めた横顔で、トゥパク・アマルは天頂を振り仰いだ。

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