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第四話 皇帝光臨(6)

翌朝早く、隣郡キキハナへ向かう山間部の険しい道を進軍するインカ軍の元に、先遣隊として、いち早くキキハナへ向かっていた参謀オルティゴーサの一隊が、激しく砂塵を散らしながら馬で駆け戻ってきた。

オルティゴーサは、すぐさまトゥパク・アマルの元に騎馬のまま駆け参じる。

そのオルティゴーサの険しい表情に、馬上のトゥパク・アマルは瞬時に事態を察した。


「トゥパク・アマル様、キスピカンチ群の代官カブレラは既に領土を放棄し、いずれかに逃走したもようです!!」

激しく息を切らしながら、緊迫した、低く、太い声で、オルティゴーサが言う。

トゥパク・アマルもまた、やや緊迫感を滲ませた眼差しで頷いた。

「オルティゴーサ殿、ご苦労であった」

トゥパク・アマルの言葉にオルティゴーサは恭しく頭を下げ、その場を下がる。


トゥパク・アマルは険しい目で、前方を見据えた。

手綱を握る手に、無意識のうちに力がこもる。

問題は、代官カブレラを捕えられなかったことではなく、そのカブレラがこの反乱を知り、その情報をもったまま逃走したということであった。

代官のことだ、恐らく、当地からは最もスペイン人による植民地支配の中枢に近いクスコ辺りを目指して、逃げ上ったに相違あるまい。


いっそう険しさを増したトゥパク・アマルの切れ長の目元が、鋭く光る。

かつてのインカ帝国の首都クスコには、今や植民地支配の中枢を牛耳るスペインの大物役人が数多くひしめいており、反乱の勃発についてクスコに知れることは、すなわち、首府リマに知られることと同義であった。

しかも、クスコには、この植民地におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭、かのモスコーソもいる。


モスコーソ司祭がトゥパク・アマルたちを反逆者とみなす時には、それは、すなわち、この国のカトリック教会にとっても逆賊とみなされることに等しい。

今やインカの民にとっても精神的支柱となっているキリスト教に反旗を翻したとみなされることは、今後、トゥパク・アマルが民意をつかむことを困難にする危険性をあまりに多分に孕んでいた。

それは、彼が最も避けたいことの一つであった。


実際には、トゥパク・アマルはキリスト教が、今やインカの民にとっても重要な精神的支柱となっていることを深く認識していたため、今回の反乱の眼目の中には、キリスト教の否定は全く含んでいなかった。

しかしながら、モスコーソ司祭がそのような彼の意志など汲み取るはずもなく、むしろ、反乱を押さえ込むために、敢えてキリスト教への反逆者に仕立て上げ、追い詰める宣伝材料に利用してくる可能性はきわめて濃厚である。

手綱を強く握り締めたまま、トゥパク・アマルの表情は、一瞬、完全に動きをとめ、彼の頭の中で今後の対応への思いがめまぐるしく動き出していることが明らかに見て取れた。


その時、トゥパク・アマルのすぐ傍にいた側近たちの中から、いち早く声を上げたのは、あのアンドレスだった。

「自分がすぐに代官の後を追い、捕らえて参りましょう!!

もはや一刻の猶予もなりませぬ」

トゥパク・アマルの先ほどからひどく鋭くなった目を見据えるアンドレスの眼差しも、また、トゥパク・アマルにも増して鋭く、ことの重大性を明らかに見抜いているのがわかる。


しかし、すかさずディエゴが、アンドレスを制した。

「アンドレス、おまえにはまだ別行動は、はやすぎる!

まずは軍団と共にあり、己の隊をしかと統率できるようになることを学ぶのが先決だろうが」

ディエゴはアンドレスの父親のごとくの眼差しで見下ろしながら、やや叱咤するな、それでいて、諭すような口調でそう言った。


トゥパク・アマルも、そんなディエゴの言葉に同意する。

そして、先刻から鋭くなっていたその目元に、今は静かな笑みをも湛えながら、その目を細めてアンドレスに言う。

「アンドレス、そなたの心意気は買おう。

しかし、ディエゴの申す通りだと、わたしも思う」


「しかし…!」と、今にも馬を駆りださぬばかりのジリジリとした眼差しで、アンドレスはまだトゥパク・アマルを見据えている。

「こうしている間にも、代官は逃げ延びてしまいます!!」

ディエゴが「おまえが言わずとも、わかっている!」と、再びたしなめるような口調で言う。

それから、「全く、出すぎた奴だな」と肩をすくめてから、しかし、すぐに父親のような包容力のある眼差しに変わって、「おまえが行かずとも、俺が行って捕らえてくるから、案ずるな」と、アンドレスの肩を、その岩の塊のような逞しい手で一発叩いた。


ディエゴは、改めてトゥパク・アマルに視線を返した。

彼は、その巨大な、隆々とした体を反らし、力の漲る眼差しで、トゥパク・アマルに真正面から向いて言う。

「トゥパク・アマル様、自分が行って参りましょう!!

クスコまでは距離もある。

追いつける可能性もありましょう」


トゥパク・アマルは、暫し、思慮深げな目でディエゴを見つめた後、静かな、しかし、ゆるぎなき声で言う。

「いや、そなたには、早速、分遣隊として兵を率い、近隣の郡に進軍してほしい。

同盟を結んでいる各カシーケ(領主)たちを助け、統治下に置く地を増やし、我らの元で共に戦ってくれる兵を募るのだ。

いずれにしろ、スペイン軍の討伐隊が向かってくるのは時間の問題であろう。

それまでの間に、我らインカ軍の兵力を増強しておかねばならぬ」


傍でやりとりを見守っていた当インカ軍本体の参謀オルティゴーサも、トゥパク・アマルの意見に同意した。

「トゥパク・アマル様の仰る通り、もはやスペイン軍との戦闘は時間の問題であろう。

まだ兵力の乏しい分遣隊を率いて各地に出征できるだけの実践力があるのは、今のところ、ディエゴ殿、そなたしかあるまい」


トゥパク・アマルと参謀オルティゴーサに、熱い眼差しでしかと見据えられ、ディエゴは恭しく礼を払った。

「ありがたきお言葉!!

では、早速にも!」

ディエゴの力強い返答に、トゥパク・アマルは頷き、穏やかな笑みを返した。


アンドレスは、己の父親にも等しいディエゴのその頼もしい様子に、澄んだ瞳を輝かせながら敬意をこめた眼差しを送っていた。

トゥパク・アマルの表情は、はやくも既に落ち着きはらっており、完全に平常心を取り戻していることが見て取れる。

むしろ、その瞳には、いっそうの鋭い光が宿り、まだ見えぬ討伐隊の軍団を射抜くがごとくに強く、毅然とした色が燃え立っていた。


それから、トゥパク・アマルはあの包み込むような目をして、側近たちをゆっくりと見渡した。

「大丈夫だ、案ずるな」と、その眼差しは語っているようだった。

そのトゥパク・アマルの眼差しに、側近たちも再び落ち着きを取り戻していく。


しかし、では、逃亡した代官を追うのは、どの者が…――?

再び、思い出したように、側近一同の間に緊迫した沈黙が流れる。


先ほどから、ビルカパサが、騎馬のまま何度も一歩踏み出しかけては、こらえるように再び一歩引くことを密かに繰り返していた。

再び、ビルカパサが、一歩、前に踏み出す。

しかし、彼には、いついかなるときもトゥパク・アマルを守るという任務があり、そのあるじの元を容易に離れるわけにはいかなかった。


再び、アンドレスが身を乗り出しかけたとき、集団の端の方で、やや不安気な面持ちで場の様子をうかがっていたフランシスコが、「わたしが参りましょう」と、意を決した声で名乗り出た。

その声には、明らかに緊張が滲んではいたが、覚悟の色も見て取れた。


相変わらず神経質そうな表情をした、ひょろりとしたこの男は、しかし、理知的な文化人的雰囲気を備えており、他の野性的で豪腕な雰囲気の側近たちとは一味違う精彩を放っている。

アンドレスと同様、インカ族とスペイン人との混血であったが、その文化人的な雰囲気と繊細そうな面持ちは、どちらかというとスペイン人によく似ていた。


このフランシスコは側近であると共に、トゥパク・アマルのクスコ神学校時代からの同窓生であり、行動的文化人的側面をも併せ持つトゥパク・アマルにとって、心許せる貴重な朋友でもあった。

また、トゥパク・アマル自身、本来はどちらかといえば物静かな寡黙なタイプの人物であったため、他の豪腕タイプのインカ族の者とはやや趣の異なる、この理知的で静かな雰囲気のフランシスコの存在は、彼にとってはある種の安らぎでもあったかもしれない。


実際、フランシスコは、トゥパク・アマルの息子たちの名付け親でもあった。

この時代の当地では、名付け親になることは、すなわち、義兄弟の関係を結んだ証でもある。

トゥパク・アマルがいかにフランシスコを信頼しているかを、側近一同もよく認識していたため、フランシスコの申し出に口を挟む者は誰もいなかった。


トゥパク・アマルは、重大な任務を名乗り出てくれたフランシスコに深く礼をこめた眼差しを返した。

「フランシスコ殿、そなたに、この大役、任せよう。

わたしの精鋭の部隊を、そなたのともとして連れてゆくがよい」

長いつきあいになるフランシスコの心を察し、まるでその不安を和らげるかのように、トゥパク・アマルは穏やかな声でそう言った。

そしてさらに、「もはや代官はクスコ近郊まで逃げ去っているやもしれぬ。深追いすることはない。そなたが無事に戻ることを、第一と心得よ」と、静かな声でつけ加え、微笑んだ。



こうして、逃亡したキスピカンチ郡の代官カブレラをフランシスコが追い、分遣隊を率いたディエゴが出陣した後、まもなくトゥパク・アマルらインカ軍本隊はそのままキキハナを首府とするキスピカンチ郡に進軍して当地を占拠した。

恐れをなした代官が遁走してしまったその地は、まともな戦闘らしきものも起こりえぬまま、あっさりとインカ軍の統治下に落ちた。


かのティンタ郡の広場での演説と同じように、新たな占拠地でのトゥパク・アマルの高らかな呼びかけに深い感銘を受けた当キスピカンチ郡のインカ族の者たちや、当地生まれの白人、混血児、そして、黒人たちが、その日、新たにインカ軍に馳せ参じ、軍団はほぼ倍の人数に増強された。

当地に保有されていた武器類もインカ軍は手に入れ、その中には数十梃の小銃も含まれていた。


さらに、時を逸せず、そのままインカ軍は、キスピカンチ郡近郊にあるポマカンチ郡とパラパッチュ郡にある織物工場オブラヘへと向かった。

これらの織物工場は、かの鉱山での悪名高い強制労働ミタと等しく、スペイン人たち制圧者が、永年に渡り、言語を絶する過酷な強制労働をインカ族の者たちに強いてきた場所である。

そこはまさしく恐るべき牢獄に等しく、疲労と栄養不良と不衛生のために、無数のインカ族の者たちが、釈放を待たずにここで死んでいたのだった。

従って、この地を解放することは、トゥパク・アマルのかねてからの念願でもあった。


今や、大軍を前にして織物工場はあっさりと明け渡されたが、歴史上の資料によれば、トゥパク・アマルは、当地の労働者たちに生産物を分配したのはもちろんのこと、恨んでも恨みきれぬはずのこの織物工場を仕切っていたスペイン人の身内の者たちにさえ、去り際に羊毛3.5トン、染料2袋を与えている。

なお、これら占拠した各地には、よく訓練された専門兵の中から統率力に優れた者を司令官として選任し、屯軍として残し、各地の統治に当たらせた。



ところで、トゥパク・アマルの館に構えたトゥンガスカの本陣では、彼の妻、かのインカ族の才媛ミカエラが、非常に良くその才を発揮し、活躍していた。

たぐい稀なる美女でありながら、実に雄々しいこのミカエラは、いよいよ戦乱の世へ突入したこの時期、その才覚はいっそう目覚め、輝きを放っていた。

もちろんトゥパク・アマルとの間に生まれた三人の息子たちを養育する優しい母として、また、堅実なる妻としての側面をも併せ持つ彼女ではあったが、今、この戦乱の渦中にあっては、まさしく、本陣を離れている夫の代理、あるいは最も有能な参謀のごとくであった。


彼女は、各軍へ夫の指令を伝え、時には、夫に意見を進言し、また、占拠地の通行許可証の発行を取り仕切った。

反乱の火の手が続々と上がる中、未だ旧都クスコにも、また首府リマにも、スペイン側に反乱幕開けの情報が全く知られずにいたこと、さらには、やがて反乱勃発の事実をスペイン側が知ってしまった暁にさえ、スペイン側は、いつまでも反乱の実情をはっきりとは掴めなかったこと、それは、このミカエラの力によるところが大であった。

彼女は、決して秘密の漏洩のなきよう、万全を期した。

反乱軍の押さえた地域の中は、彼女の発行する通行許可証を持たねば通行することができなかったのだ。


さらに、彼女は、夫トゥパク・アマルが前線で戦っている間、この背後の本陣にて、インカ軍本隊をはじめ、各地の軍への武器や食糧の補給にも采配を振るった。

ミカエラは、パン、コカ、酒などの食糧の他にも、衣服、銃弾、望遠鏡など、軍が必要とするものは何でも揃え、補給した。

本陣の中枢での彼女の鮮やかな活躍ぶりは、インカ軍を、そして、夫トゥパク・アマルを、背後から紛れもなく強力に支えていたのである。

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