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第三話 反乱前夜(16)

さて、この頃、かのトゥパク・アマルの動向はどのようになっていたであろうか。

一旦、アンドレスのいるアパサの元を離れ、場面をトゥパク・アマルの周辺に戻そう。


その日、トゥパク・アマルは首府リマのインディアス枢機会議本部の一室にいた。

目の前には、あの男、植民地巡察官アレッチェがいる。

トゥパク・アマルが随分前にしたため、副王ハウレギに提出した嘆願書への回答が、やっとこの日、伝えられることになっていたのだ。


あのミタ(強制労働)の改善を訴えた、自らの渾身の思いを注ぎ込んだ嘆願書を提出してから、もう2年近くの歳月が流れていた。

返答を得られぬまま、いたずらに時が過ぎることに溜まりかね、トゥパク・アマルは再び数週間前より副王のいる首府リマを訪れ、副王との接見を願い出ていた。

しかし、たとえインカ皇帝の直系の子孫とはいえ、今や一介のカシーケ(領主)に過ぎぬトゥパク・アマルには、当然のことながら、副王との目通りなど叶おうはずはなかった。

その代わりに、副王の名代との接見が許された。


だが、接見のこの日、副王の名代として現れたのが、よりによってこの男とは。

トゥパク・アマルは、跪く(ひざまず)く己の眼前に立ち、腕を組んで睥睨へいげいしているアレッチェの気配を感じながら、既にその回答が決して期待できるものではないことを悟った。


その一室は、さすがに副王による御言葉を伝えるに相応しい厳かな礼拝堂のような造りになっており、床には真紅の絨毯が、入り口から中央の祭壇風の壇上まで続いている。

トゥパク・アマルの纏う黒ビロードの艶やかなマントが、真紅の絨毯にくっきりと映えていた。

礼拝堂を模した優美な装飾を施された縦長の飾り窓からは、西に傾きかけた陽光がうっすらと差し込んでいる。

その光は壇上に立つスペイン人、アレッチェの上にも斜めに注がれ、その影を黒々と長く引いている。


アレッチェは壇上から、副王名代である自分の前に跪き、副王からの返答を待つトゥパク・アマルを、尊大な眼差しで睥睨した。

彼の、いかにもスペイン人らしい彫りの深い横顔で、鋭い目が探るように光る。

トゥパク・アマルは跪いたまま下を向いており、アレッチェにはその表情は読めない。


一方、トゥパク・アマルは目を閉じたまま、じっと副王からの返答が伝えられるのを待った。

副王からの返答如何によって、反乱を決行する…――!!

その決意は、今や彼の中では明確だった。

もはや、これ以上、時を失うことはできない。

これ以上、理不尽に民衆を虐げられるままにしておくことはできないのだ。


トゥパク・アマルはゆっくりとその顔を上げた。

何かに憑かれたような危うい眼差しである。

アレッチェもまた、あの射竦めるような眼光でトゥパク・アマルを見下ろしていた。


「王陛下の御返事をお聞かせください」

トゥパク・アマルの、その不気味に流麗なスペイン語が、アレッチェの中のえもいわれぬ不快感を再び刺激する。

トゥパク・アマルを前にすると、何故、このように不穏な、妙に落ち着かぬ気分になるのか、アレッチェ自身も理屈ですべてを説明できなかった。

スペイン人としての高い誇り…――他のヨーロッパの国々さえ震撼させうる比類なき卓越した民族であるとの、その確固とした信念、己の自意識を、妙に引き下ろしてくるような、何か不気味に突き崩してくるものを、このインディオはもっているのだ。


アレッチェは跪いているトゥパク・アマルのすぐ目の前まで、わざとらしく近づいてきて、そして、居丈高に腕を組みながら、いかにも蔑むような目つきで見下ろした。

トゥパク・アマルは冷ややかに目を細め、それから、再び真紅の絨毯の上に視線を戻した。

「村で待て、と。

王陛下の御言葉は、それだけだ」

冷たい声でアレッチェが言う。


アレッチェは、じっとトゥパク・アマルの上に視線を向け、その反応を観察する。

トゥパク・アマルは微動だにせず、変わらぬ姿勢のままだった。

その気配も変わらない。


暫し、沈黙が流れる。

微動だにせぬまま、しかし、実際には、真紅の絨毯に視線を落とすトゥパク・アマルのその目は、引き裂かれぬばかりの険しい眼差しで見開かれていた。

鼓動が速くなり、己の手足が微かに震えてくるのが分かる。

突き上げてくる憤怒、失望、悲愴、そして、最後の箍がはずれる感覚…――。

様々な感情が混沌と渦巻きながら、トゥパク・アマルの心を掻き乱した。

しかし、アレッチェに、それを悟られてはならぬ。

トゥパク・アマルは、激情に翻弄されるもう一人の自分を押さえ込みながら、己の気を、呼吸を、声音を統制した。

「王陛下へのお目通りは、叶わぬでしょうか」


トゥパク・アマルの声は、不自然なほど静かだった。

しかし、それ故、かえってその中に滲んでいる感情の色味を、アレッチェは決して見逃さない。

さすがのトゥパク・アマルも、動揺しているのだ。

アレッチェは、いっそうの冷ややかさで、「そのようなことが、一介のカシーケに叶うはずがあるまい」と答え、トゥパク・アマルを睥睨したまま冷笑した。


その瞬間を見逃さぬとばかり、トゥパク・アマルが顔を上げる。

トゥパク・アマルの目の中に、冷たく笑う制圧者の表情がはっきりと映った。

トゥパク・アマルもまた、冷ややかに目を細めた。

そして、すっと立ち上がった。

すぐ直近の距離で、いきなり自分と同じ目線に立たれ、一瞬、アレッチェは身をひるませた。


トゥパク・アマルは無言で、アレッチェの目を、あの射抜くような鋭い眼差しで睨み返す。

その瞬間、アレッチェは、不覚にも固唾を呑んだ。

このインディオは危険だと…――かつて初めて、トゥパク・アマルに会った時、アレッチェは明確に直観した。

しかし、今、目前にいるそれと同じインディオの目の色には、あの時以上の不気味な凄みが宿っていた。

アレッチェの目は、それが何かを必死で探るように、釘付けられる。

敢えて言葉にすれば、それは、狂気…――ではないのか?!

アレッチェは、そのような己の想念を振り払うようにして、再びトゥパク・アマルを見た。


一方、トゥパク・アマルはアレッチェの探るような眼差しを避けるように、「王陛下の御言葉は、承りました。それでは」と、踵を返した。

「待て!」

すかさず、アレッチェが呼び止める。

トゥパク・アマルは、振り向かずに、ただ足を止めた。


「マキャベリズムの創始者の言葉を知っているかね?」

どこから湧いてきたのか分からぬアレッチェの不意な発言だったが、もはやトゥパク・アマルは一切の感情を殺したように、重い沈黙を守っている。

「彼は、被征服地の支配を安全にするためには、その国を支配していた王族の血統を抹殺することが必要だと述べている。

四等身に至るまで絶滅すべき、とね」


相変わらずトゥパク・アマルは微動だにせず、聞いているのかいないのか、ただ、そこに後ろ姿のまま立っていた。

西日はすっかり傾き、部屋は既に薄闇に包まれている。

トゥパク・アマルの漆黒の長髪は、まるで闇に溶けこむかのように、アレッチェの前に妖艶な気配を湛えながら浮き上がって見える。

しかも、その薄闇の中で、インディオの全身からは青白い光のようなものが不気味に放たれているような錯覚さえ覚える。


そのようないまいましい錯覚をいなすようにして、アレッチェは氷のような声で言った。

「もし、何か事を起こせば、それは、逆賊として、インカ一族の合法的殺戮の理由を、我々スペイン側に与えることに他ならない。

それをよく覚えておくことだ」


再び、不気味に静かな沈黙が流れる。

やがて、トゥパク・アマルがゆっくりと振り向いた。

それは、もはや感情のない、能面のような表情だった。

「我々一族は、この地の民を守るためにある。

結果、どのようなことになろうとも、それは自ずと覚悟の上」


そして、アレッチェの言葉を待たず、トゥパク・アマルはさっさと部屋を出ていった。

アレッチェの中に不穏な感情が渦巻いた。

何よりも、あの目に浮んだ狂気にも似た色…――何か、非常にまずいことが起こるのではあるまいか?!


確かに、この日を境に、トゥパク・アマルはその動きの方向を明らかに変えていく。

これまで流血を見ぬために、極力平和的な手段によって、懸命に敵方と交渉を試みてきた。

だが、これからは違う。


部屋を立ち去るトゥパク・アマルの目は、確かにアレッチェが見抜いたがごとく、この時、狂気の色をも孕んでいたかもしれない。

もはや、立ちはだかるものは切り捨てる…――!!

まさにアレッチェの予感は、まもなく現実のものとなろうとしていたのだ。



トゥパク・アマルがいよいよ反乱の決行を定めたとき、アパサの元にいるアンドレスも仕上げの時期に入っていた。

既に、彼が当地に来て、ニ年の月日が流れていた。

今や、アンドレスは18歳。

どこから見ても、押しも押されぬ若武者としての風貌を備えていた。


今、アンドレスは師を前に、険しい眼差しで、いつもの棍棒をサーベルのごとくに構えていた。

アパサも獣のような獰猛な眼差しで、棍棒を手にアンドレスを睨みつけている。

アンドレスは深く吸い込んだ息を腹部に落とし込み、丹田に己の気を集める。

そして、その気を敵に悟られぬよう、至極自然に手首から棍棒に乗せていく。

アパサの目の中で、アンドレスの持つ武器の先端から、回転する渦のような気がジワジワと発せられていく。


次の瞬間、アパサはアンドレスの鈍器に激しく下から攻め上げられた…――かのような強い錯覚に襲われ、とっさに背後に飛び退った。

が、実際には、アンドレスはその場を微動だにしてはいない。

ただ、彼の棍棒の先から強い気が発せられ、それが武器の動きに見えたのだ。


アパサは苦笑した。

再び、互いに間合いを保ちながら、睨み合う。

もはや、どちらにも一縷の隙もない。


次に仕掛けたのは、アパサの方だった。

アンドレスの急所めがけて電撃のようないかずちを連打し、獰猛な獣のように襲いかかる。

しかし、アンドレスはいとも身軽にいなし、まるで宙を舞うかのごとくフワリとかわすと、再びアパサの正面にすっと身構えた。

それは、あたかも舞の名手が舞うかのごとく、匂い立つような優美で華麗な動きだった。


背筋を伸ばし、武器の先端まで神経を研ぎ澄ませる。

そして、再び武器の先から輻射される澱みない気。

さらに、背筋から後頭部を経由して頭頂から、まるでアパサに覆いかぶさるかのごとく発せられる気…――それは、宗教画の中に見られるような、まるで後光と見まごうばかりの輝くようなまばゆいオーラだった。

それは敵を呑みこみ、包み込んでさえしまうような気だ。

しかも、それは、明鏡止水のごとくに澄み切っている。

その瞳には、蒼い炎…――理性の炎が燃えていた。


アパサは目を細め、ゆっくり武器を下ろした。

アンドレスもアパサの動きに合わせて、武器を下ろす。

「今日、トゥパク・アマルの使者が来た」

アパサは、低い声で言った。

「トゥパク・アマル様の?!」

アンドレスの表情に、高揚感と緊張の色が走る。

「いよいよのようだ」

アパサの顔も、興奮からか、微かに高潮している。

アンドレスは、力強く頷いた。

ついに、その時が来たのだ…――!!


二人は、暫し無言で、互いを真っ直ぐに見た。

言葉にならぬ深い感慨の念が込み上げる。

そして、再び、アパサが口火を切った。

「おまえはトゥパク・アマルのもとに戻れ。

そして、やつを助けろ」

「はい!!」

アンドレスは、興奮に震える声で答えた。


それから、アパサは武器庫にアンドレスを連れていき、武器庫の奥の方から臙脂色のビロードの大きな包みを持ってきた。

アンドレスの目の前で、その布の周りに丁寧に結ばれていた豪奢な紐をゆっくりとほどいていく。

格調高く優美な、そして、重厚でいかめしい、輝くようなサーベルがそこにはあった。


アンドレスは、息を呑んだ。

サーベルがまるで生きているかのように、蒼く燃え上がるがごとくの気を発している、そのような激しい錯覚にとらわれる。


アパサは捧げ持つようにして、アンドレスにそのサーベルを手渡した。

彼は、興奮で震える両手で、がっちりとそれを受け取った。

非常にいかつい棍棒で鍛え続けてきたアンドレスにとって、これほど重量感のあるサーベルでさえ、今や羽のように軽く感じられる。


「それを、おまえにやる。

持っていけ」

揺れる眼差しでアパサを見上げるアンドレスの瞳の中で、アパサは静かに笑っていた。

「おまえはよくやった」

サーベルを掲げ持ったまま、アンドレスは深く頭を下げた。

「本当に、何と御礼を申し上げたらよいのか…」

思わず涙が込み上げそうになるのを、彼はぐっとこらえた。


アパサは静かな口調で続けた。

「これまで敵を攻撃することばかりを言ってきたが、おまえに渡したこのサーベルは、ただ攻めるだけのものではない。

そもそもサーベルとは、攻めるよりも守ることに優れた武器なのだ。

サーベルには、敵のもつ銃や大砲には無いものが宿っている。

それは、美しく、魂と呼ぶにふさわしい雰囲気とも言えるだろう。

おまえには合っている」

アンドレスは、もはやこらえられず、男泣きに涙を落とした。

恐らく、アパサも感極まっていたことだろう。


しかし、それを悟られまいとするように、アパサは暫し下を向いて呼吸を整えた後、深く、響く声で言った。

「アンドレス。

これで己の身を守れ。

おまえは命を落とすなよ」

アンドレスは、霞んだ視界で、アパサに深く礼を払った。


アパサもそれに応えるように、深く礼を払って言った。

「さらばだ、アンドレス。

次は、戦場で会おう」

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