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第一話 ビラコチャの神殿(2)

すっかり日が落ちて夜の帳がおりる頃、コイユールは自分の住む集落に戻ってきた。

先ほど神殿で見た光景の鮮烈さに、まだ頭がぼうっとしている。

この辺りは、日が落ちると急速に気温が下がる。

コイユールは両手で腕を抱くようにして、家路を急いだ。

すっかり体が冷えきっている。


まもなく彼女は、アドベ(干し煉瓦)造りの小さな小屋にたどり着いた。

小屋には窓は無く、ただ一つ台形の入り口がついている。

インカ時代とあまり変わらぬ、昔ながらの素朴で質素な造りの家だった。

インカ当時と異なっていることといえば、入り口にかろうじて板の扉がついていることくらいであろうか。

インカの時代には、入り口には布を垂らしているだけだったのだ。


コイユールは入り口のところで軽く衣服についた草をはらってから、夜の冷気から逃れるように、急いで扉の中に入った。

「ただいまあ」

かじかんだ手をすり合わせている彼女を、優しい笑顔の老婆が迎えた。

コイユールの祖母である。


老婆は小柄な体に古衣を何枚か重ねて身にまとっているが、灯りとりの蝋燭と小さく燃える焚き火くらいしか火の気の無いこの部屋では、寒さは骨まで染みているに違いなかった。

黒ずんだ褐色の手や顔には深い皺が刻まれ、つやの無い白髪を後ろで一つに束ねている。

小屋は小さな一部屋の造りで、床には古びた布が敷いてあり、あとは木の質素なテーブルと椅子があるくらいで、他に家具らしいものは見当たらなかった。


「どうだったね。

神殿に行ってきたんだろう」

老婆は穏やかに問いかけながら、いつもと変わり映えのない夕飯の皿をコイユールに手渡した。

その手首はひどくやせ細っており、まるで枯れ枝のようだ。

「うん…」

コイユールは曖昧に返事をしながら、その色あせた皿を受け取った。

皿の上には黒っぽい色をしたチュウニョが、もうしわけ程度に乗せられている。

それは野ざらしにしたジャガイモを霜で凍結させ、真昼の強い日差しで解凍させた保存食品で、この地域の貧しい農民たちの一般的な食糧である。


「ねえ、お婆ちゃん。

昔のインカ帝国の皇帝様って、今はもう、いないのよね…?」

独り言をつぶやくようにそう言って、コイユールはぼんやりと宙を見つめた。

老婆はそんな彼女の様子には頓着せぬ様子で、皿の上に残ったチュウニョの粒をすりつぶした。

「そうさね。

ずいぶん昔に、スペインの奴らに殺されちまったからね」


すりつぶしたチュウニョを口に押し込んでいる祖母の横顔に目をやった時、コイユールは、幼い日に幾度もきかせてもらった祖母の昔語りをふいに思い出した。

コイユールがまだ幼い頃、老婆はよく彼女を膝に抱きながら、昔語りをしていたのだった。


『昔、この国には、黄金や銀や様々な宝石が、たっぷりあった。

皇帝様や貴族たちは、黄金の耳飾をつけて、色とりどりの美しい刺繍のほどこされた服をまとい、宝石のきらめく飾り帯をしめていた。

神殿の壁には黄金が張られ、その庭では、黄金のトウモロコシの間で、黄金製のリャーマが遊んでいた。

庭には、砂のかわりに黄金の粒がまかれていた』

幼いコイユールは瞳を輝かせた。

『おばあちゃん、それって、いつのこと?』

『今から、200年くらい前までは、この国はそんな様子だったのさ』

『でも、今とは全然違うわ』

『黄金の国の噂は、海のずっとむこうのヨーロッパっていうところまで伝わったのさ。

それで、その黄金の国を手に入れたいという奴らが船に乗ってやってきた。

奴らは、インカの皇帝様やこの国の人々をだまし、皇帝様を捕らえて殺しちまった。

そうして、この国をすべて自分たちのものにしちまったのさ』

そこまで話すとたいてい老婆は口をつぐみ、心に何かをおしこめたような目をして、ただ黙ってコイユールの頭をいつまでも撫でていたものだった。


インカ帝国が征服されて以来、インカ族の人々は征服者によって酷使され続けていた。

スペイン生まれの白人たちは、土着のインカ族の人々を「インディオ」と呼び、激しく蔑視した。

その人種的偏見は甚だしいものであった。

被征服下の人々は、人としてまともに扱われていなかったと言っていい。


過酷な税の取立て、農産物の一方的な安い買いつけ、水利権の剥奪、織物工場や鉱山での想像を絶する過酷な強制労働など、彼らの苦しみの種は尽きることがなかった。

納めなければならない税の種類もその額も、尋常ならざるものだった。

まず、スペイン王には生産物の5分の1を税として納めなければならなかった。

その他にも、教会に納める10分の1税、不動産税、貿易税、印紙税、売上税など上げればきりがなく、正直に納めていたら手元に何も残るはずはなかった。


それほどの窮状を知りながらも、土地の代官に任命されたスペイン人たちは、さらに搾取を重ね、彼らの上役人の目をかすめて違法な二重課税を公然と行った。

そして、二重にかすめとった税を、自らの懐に収め、私腹を肥やした。

上役人はもちろんそのことを知っていたが、それを戒めるどころか、当然のことのように代官の悪行を黙認していた。


そんなインカの人々の遭遇した苦しみの中で、最大のものはミタ(強制労働)であろう。

ミタはもともとインカ帝国の制度で、公共事業のために人民を賦役に出すことであった。

スペインはこの制度を悪用し、植民地の経済開発の一つの要石とした。


もともとのインカの法では、15日間の家事労働のミタ、3〜4ヶ月の牧場でのミタ、10ヶ月間の鉱山でのミタが定められており、彼らは仕事に応じて給料をもらえるはずであった。

また、ミタに出なければならないのは、全人口の7パーセントにすぎなかった。

しかし、そのような緩やかな規則は、この時代には通用しなかった。

被征服下のこの時代には、「ミタ」とは主に鉱山での奴隷的な強制労働を意味した。

かつて栄華を誇ったインカの地は今やスペイン王の持ち物の一部とみなされ、この地の民もまた、スペイン王の所有物の一部にすぎなかった。


かくして、ペルーには、かつての「黄金帝国」の名にふさわしい、金銀を豊かに産出する鉱山が実在した。

スペイン人は、その鉱石の採掘、貴金属の抽出に躍起となり、そのための労働力としてインカの人々を酷使したのだった。

もともとのインカの法で定められた期限も、給料もあったものではなかった。

それどころか、想像を絶する過酷な労働、不衛生で劣悪な生活環境のために、鉱山での強制労働に出たもので生きて故郷に戻ってこられる者は殆どいなかった。

不幸にも鉱山でのミタに送られることが決まった人々は、家財をすべて売り払い、決死の覚悟で故郷を後にした。

そして、実際に、二度と生きて戻ってくることはなかった。

スペインに送られた金銀は、文字どおり、インカの人々の血と涙の結晶だったのだ。


コイユールの両親もまた、彼女が6歳の時に鉱山のミタに駆り出され、祖母の元に彼女を託したまま二度と戻ってはこなかった。

以来ずっとコイユールは、祖母と二人、小さな畑を耕しながらひっそりとこの集落で暮らしてきたのだった。


コイユールはささやかな夕食の皿を片付けるために、席を立った。

「そういえば、コイユール!」

沈黙を破ったのは老婆の方だった。

コイユールは皿を洗う少量の水を桶から汲みながら、祖母を振り返った。


「なあに?」

水は刺すように冷たく、指先にしみる。

「さっきフェリパの奥様の使者が来て、またおまえに館まで来てほしいと言っていたよ」

「本当?!

おばあちゃん、行ってもいい?」

コイユールの表情がぱっと明るくなったのを見て、老婆は少し苦い笑いをしながら、やれやれといった様子で軽く両手を広げた。

「コイユール、お前は、あのお屋敷に行くのが好きなんだねえ。ほんとに…」

「…ん」

コイユールは祖母の気持ちを察して、視線をそらし、それ以上はその話題はやめて皿をゆすぎはじめた。


『フェリパの奥様』と呼ばれたのは、このティンタ郡のあたりではかなりの名家と言われる一族の奥方で、インカ族の女性だった。

ただ、その夫人はスペイン人の神父と結婚していたのだった。

祖母にしてみれば、スペイン人と結婚したその女性が、インカ族にとっての裏切り者と思えていたのも無理からぬことであった。

しかし、もしコイユールの母親が生きていたら、ちょうどフェリパ夫人と同じくらいの年齢だったろう。

彼女にとって、その優しい夫人に母親を重ねて見てしまうこともまた、とめられぬことであった。

そして、フェリパ夫人の館には、もう一つの大きな楽しみがあった。

フェリパ夫人とスペイン人の間にはアンドレスという混血児がいて、ちょうどコイユールと同じ12歳の多感な少年だった。


フェリパ夫人と知り合って2年ほどになるが、その館でたまたまよく顔をあわせたその少年とは、なぜかとても気持ちが合った。

今では、二人はまるで幼な馴染のような親しい間柄になっていた。

もちろん、そんなことは祖母には言えなかったが…。

(アンドレスはどうしているかしら。

もう半年くらい会ってないもの…)

皿の綺麗になったことを蝋燭の灯りにすかして確かめながら、祖母に悟られないよう、コイユールはそっと微笑んだ。

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